爽風上々のブログ

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「古代北東アジアの中の日本」西谷正著

古代日本の歴史を見ていくには北東アジアすなわち朝鮮半島や中国大陸との関係を見ていくのは必須と言えます。

しかしこれまでは日本史と世界史(中国史朝鮮史)とに分かれてしまい相互の連絡が悪かっただけでなく、研究者も双方をまんべんなく見ていくということが少なかったのかもしれません。

本書著者の西谷さんは朝鮮半島を主な対象とする考古学者ですが、日本を含めて周辺地域の歴史も考察してきており、広く全体を見渡した歴史を提示してくれます。

 

この本は書下ろしではなくこれまでに講義・講演・啓蒙書誌などで発表されてきた文章をまとめたもので、早いものでは1970年代のものから、本書出版の直前の2009年のものまで含まれています。

 

全般的な解説としては第1章の「古代北東アジアの中の日本 総説」を読めばほぼ見通せることとなります。

時代は旧石器時代対馬海峡が氷河期で陸続きになっていた頃から説明が始まりますが、その頃の考古学的発掘史料はほとんどありませんので何とも言えません。

ただし今後も絶対に見つからないとも言えないものです。

縄文時代から弥生時代朝鮮半島では櫛目文土器の時代には朝鮮半島と北九州には相互に何らかの交流があったことは間違いないようです。

さらに弥生時代後期には鉄器や青銅器が朝鮮から流入していることは北九州の遺跡からの発掘品を見れば明らかです。

さらにその頃の人々は朝鮮半島に特有の身体特徴を持つ人々が増え、渡来したものと言えます。

三世紀後半になるとヤマト政権が統一を果たしたと考えられますが、ヤマトは朝鮮や中国と交流していました。

しかしどうやら北九州は別個に独自の海外交流を行っていた節もあります。

 

前方後円墳はほぼ日本にしか見られない様式の古墳だと考えられていますが、朝鮮半島西南部にもいくつか見られます。

ただしその年代は新しく、5世紀後半以降のものでありそちらが日本の前方後円墳の起源ということはありません。

日本との関係が深かった時代に日本の様式を真似たか、日本からの勢力が作ったかでしょう。

ただし中国では三国の魏の時代に洛陽近郊で円丘の祭壇の前方にそれよりは低く小さい方丘の祭壇を付随させて築いた例があるそうです。

その年代は西暦230年頃のことで、晋書の記述に266年に倭人朝貢にやってきたとある、その時にはすでのその二段式の方丘と円丘の墳墓があったため、それを倭人使節が見た可能性はあるそうです。

 

1970年代には日本では高松塚古墳が発掘されました。

その時期に、韓国でも百済武寧王陵が発見され、未盗掘であったためその年代や被葬者が明らかになり、その構造や出土品から百済、倭とさらに中国の粱王朝との間の交流が解明されました。

さらにその翌年には中国でも馬王堆一号墳が発見されました。

偶然ではありますが、その数年で北東アジアの古代の歴史を明らかにする遺物が発見されたことになります。

なお、武寧王陵からは買地券が遺物として発掘され、その形式から中国の影響が強いことが分かりました。この買地券は日本にはほとんど例がなく、日本へは渡ってこなかった風習です。

ただし、武寧王の棺は木製なのですが、その木材は日本列島特産の高野槙であることが判明し、百済と倭との密接な関係も表すものでした。

 

古代史を考える上では日本列島だけを見ていては見失うものがあるということでしょう。

 

 

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