おはようございます、茅野です。
最近、匿名掲示板やYouTubeで、殿下への言及が増えています。どうしたことでしょうか。流行っているのか、殿下。嬉しい一方、ファクトチェックが面倒なような……。
殿下への言及を見かけたら、是非とも教えてくださいませ。というか直接わたしに殿下の話をしてください。宜しくお願い致します。
さて今回は、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下関連の記事です。単発です。
↑ 殿下って誰? という方はこちらから。ロシア史をより良く塗り替えられる最高の逸材です。
↑ これまでの殿下関連記事はこちらから。
今回のテーマは、「父アレクサンドル2世と殿下の親子関係に関して」です。新年1発目の殿下関連がこれで良いのか、という気もしつつ。
殿下は誰からも愛された聖人ですが、一人だけ、そのことをよく思わない人物がいました。彼の父です。
皇帝アレクサンドル2世は、長男に嫉妬し、彼に辛く当たっていました。しかし、巷では「解放者皇帝」などと持て囃され、このことをあまり信じて貰えないこともあるので、当記事でガッツリ解説します。胸糞注意。
今回は字数削減のため、殿下の人生のあらましについては知っている前提で話を進めます。ご了承ください。ご存じない方は前述の記事を先にご覧ください。
それでは、お付き合いの程よろしくお願い致します!
↑ 皇帝アレクサンドル2世。机の奥には殿下の肖像画も見えますね。
殿下の体質
殿下と父皇帝の関係で、最も争点となったのが殿下の体格に関してです。ロマノフ家の研究家、イーゴリ・ジーミン先生の殿下の病と死についての論文から引用します。
Его отличало хрупкое телосложение, и это вызывало беспокойство императора, усилившееся после официального совершеннолетия Николая, которое было отмечено 8 сентября 1859 года. По совету воспитателей и придворных медиков Александр II настойчиво рекомендовал сыну усиленно заниматься спортом, особенно верховой ездой, надеясь, что тренировки укрепят его здоровье.
彼の華奢な体格は皇帝の悩みの種だった。ニコライが1859年9月8日(ユリウス暦)に正式な成人を迎えると、この懸念は更に強くなった。
養育者や宮廷医の助言に基づき、アレクサンドル2世は息子に集中的な運動を執拗に勧めた。健康を促進させるため、特に乗馬を勧めた。
殿下は幼少期は病弱でしたし、生まれつき細身で、肉が付きづらく痩せやすい体質でした(一部からは心底羨まれそうだけど)。彼はそのことに悩んでいたようです。
事実、殿下自身「何もしないとすぐに痩せてしまう」と書いています。母皇后付きの女官・フレデリクス男爵夫人なんかは、殿下に会う度に「また痩せましたか!?」と訊いていて、最早コメディみたいになっています。もっと美味しいもの沢山食べて欲しい。弟たちは100kg超えの巨漢であることを考えると、遺伝ってわかりませんね。
父皇帝は、殿下のこの体質について執拗に言及しています。もしかしたら、最初は単に身体の弱い息子が心配だったのかもしれません。長女(殿下の姉)が病で夭折していますしね。
しかし、殿下が成長し、自身の地位さえ脅かすほど魅力的な人物に育っていくと、いつしかそれは攻撃性を帯びていくようになります。
体質は本人が努力してもどうにもできないものですし、殿下は自身の容姿が完全にコンプレックスになってしまい、弟アレクサンドル大公の頑健な体付きを羨ましがったり、「私の容姿は威厳がない」と嘆いたり(威厳は10代で求めるものではない)、折角の美しい顔立ちも「醜い顔」と自虐してしまうようになります。殿下、その顔で言われると皮肉じゃなくて煽りにしか聞こえない、それは流石に辞めた方がいいぞ。
容姿などに関しては、親の何気ない一言でもコンプレックス化することがあるのに、単なる父ではなく皇帝でもある人物に執拗に責められたら、若い心にどれほど重く響くことでしょう。
この争いを元に、事件は起こります。
運命の競馬
殿下の死の原因となったのは、競馬(障害物レース)での落馬事故だと言われています。この件について、殿下の秘書官であるオームの回想録を読んでみましょう。
В 1860 году сыновья Государевы вместе с двоюродными братьями затеяли скачку на иподроме в Царском Селе. Цесаревич должен был скакать на Английской лошади, не будучи вовсе подготовлен к подобной скачке. Граф Строгонов положительно восставал против этого и даже просил Государя запретить скачку, доказывая не только опасность, но и неприличие предприятия для Наследпика Престола. Государь, не подозревая в сыне слабости телосложеиия и предполагая даже некоторую женственную в нем изнеженность, не согласился с графом и заметил, что подобныя упражнеии только могут служит с пользою и должиы придать ему более смелости и мужества: «Il est trop effémine!».
К несчастию, опасеиия графа оправдались. Цесаревич, не привыкший скакать на Английских лошадях, упал с лошади и ушиб спину, но, не чувствуя особенной боли, отказался от всяких мер, тотчас-же предложеииых доктором Шестовым (тогда уже состоявшим при Его Высочестве, по рекомендацио И. В. Енохина).
Золотуха, которою страдал Великий Князь, бросилась на ушибленное место, которое сделалось уже с тех пор средоточием всех последуюицих страданий.
1860年、皇帝の息子たちは従兄弟たちと共に、ツァールスコエ・セローの競馬場で競馬を行うことになった。皇太子はそのような競馬の準備が全くできていないにも関わらず、英国馬に乗らなければならなかった。
ストロガノフ伯爵は真っ向から反対し、皇帝に競馬の禁止さえ要請し、それが危険であるだけではなく、帝位継承者にとって悪影響であると証明した。
皇帝は息子の体質が虚弱であることを疑わず、女性的な軟弱さがあるとさえ推測していたため、伯爵に同意せず、このような教練は有益であり、大胆さと勇気を与えるはずだと言った。「彼は女々しすぎる!」。
残念ながら、伯爵の懸念は的中した。英国産の馬に慣れていなかった皇太子は、落馬して背中を打ったが、特に強い痛みは感じなかったので、医師シェストフが提案した全ての措置を即座に拒否した(当時彼は既に И. В. エノーヒンの推薦で殿下付きになっていた)。
大公の患っていたリンパ節結核は、怪我をした場所に巣くい、この時からその後の苦痛の中心になった。
これさあ……、皇帝、アホでは? なんでストロガノフ伯の言うこと聞かないの?
しかし実は、この競馬に関しては、提案された殿下自身も乗り気であったといいます。
皇帝が執拗に勧めたこともあってか、殿下は乗馬が得意でした。自身が乗る用の馬を7頭飼い、馬の繁殖に関する協会の会長も務めています。しかし、乗り慣れていない馬でいきなり競馬の障害物レースを走るのは、いくらなんでも無茶すぎますよね。
このことに関してジーミン先生は、「皇帝に非難されて自身の体質がコンプレックス化していた彼は、ここで男らしさを見せたいと願ったのかもしれない」と推測しています。どこまでも健気だなあ。尤も、オームの描写を読む限りでは、レースへの参加もほぼ強制でしょうけど。これやっぱり皇帝が悪くない?
ちなみに、アレクサンドル2世自身は乗馬が下手くそで、競馬どころか、乗り慣れた馬以外乗ることができないことで当時から有名でした。従って、出先では馬に乗ることができず、皇帝なのに徒歩で歩く姿がよく目撃されています。軍人失格では?
レフ・トルストイの有名な小説『アンナ・カレーニナ』には、アンナの恋人ヴロンスキーがクラースノエ・セローの障害物レースに挑戦するシーンがあります。ここでヴロンスキーは落馬してしまい、アンナはその時に心配で叫んでしまって浮気がバレる、というとても象徴的なシーンです。
↑ 『アンナ・カレーニナ』はいいぞ。シンプルに面白いので、長いけど楽しく読めますよ。
トルストイは競馬好きで、この競技に非常に詳しかったようです。ヴロンスキーも英国産の馬に乗って落馬するのは殿下と同じで、しかもヴロンスキーの騎乗した馬フルフルは、この事故で背骨を折って安楽死させられます。何なら、殿下はこの小説内のレースのモデルの一つだったかもしれませんね。
ヴロンスキーの挑戦したレースでは、17人の騎手が参加しましたが、彼を含め、騎手が半分以上も落馬し、皇帝(1872年が舞台なので明らかにアレクサンドル2世)が遺憾の意を表明した、とあります。障害物レースの難易度は非常に高く、完走することさえ困難であったようです。
当時の軍人による競馬では、「鞍、はみ、手綱、鞭などの馬具と、騎手を合わせた体重が4プード25フント(約75kg)以上」という規定がありました。
当時の馬具はそれなりに重く、10kg以上はあるので、もし特別ルールなどがなく一般的なルールが適用されていたら、17歳になる直前の殿下は体重65kg程度あったのではないかと推測されます。まあ殿下は身長は高いので(最終的に恐らく190cm弱)、成長期とはいえそれくらいは無いと流石に怖いんですけど……。
尚、オームの回想録によれば、殿下は落馬後すぐは取り繕ったようですが、その後2-3日は静養していたので、実はかなり痛かったのではないかと考えられます。いつも明るかった殿下が、この怪我から少し内向的になる様子が見られたと指摘する同時代人もいます。
レースの翌日、教師が宮殿に向かうと、側近のリヒテルに「殿下は怪我をされて本日は授業に出られない」とそこで告げられた、という記録も残っています。
尚、「リンパ節結核」というのは、文字通りリンパに巣くう結核のことです。
こちらに関しては命の危機にさらされる類いの病ではないのですが、慢性的な倦怠感・体重減少・食欲不振・微熱などが起こります。
これは19世紀当時、痩せ型で病弱な人が皆罹っていたと言われる病で(逆にリンパ節結核に罹っているから虚弱になっているとも言える)、最も有名な罹患者は、お姫の姉上、イギリスのアレクサンドラ皇后です。
リンパ節結核の病巣は首筋にできることが最も多く、大きな腫れのようなものができます。アレクサンドラ皇后は手術でこれを除去しましたが、手術痕がコンプレックスで、ハイネックのドレスやネックレスでこれを隠していたと言われていますね。
↑ 豪奢な首飾りで首元を隠すアレクサンドラ皇后。それにしても姉上、ウルトラ美女すぎます。
殿下とお姫の姉上は、同じ病気だったんですね。
殿下の場合は、一般的な首筋ではなく、怪我をした背中に腫瘍ができてしまったようです。基本的に人からは見えない位置なので、殿下はこれを隠し通そうとしたのでしょうね。
体調不良ログ
その後暫くは何事もなかったかのように日常生活に戻った殿下でしたが、時折背骨の痛みに苦しむようになります。
1864年4月頃になると、体調不良で臥せることが増えていきます。殿下の弟・アレクサンドルとヴラジーミルの側近、リトヴィーノフの日記から、殿下の体調についての部分を読んでみましょう。
1864 г., 9 апреля
…Потом поехали с Владимиром Александровичем в jeu de paume, где застали уже давно игравшего Александра Александровича, так как Николай Александрович болен...
1864年4月9日
ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチと共にジュ・ド・ポームをしに行った。ニコライ・アレクサンドロヴィチが病気だったので、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは長いことプレーした。
10 апреля
…Александр Александрович был у наследника, который все еще страдает флюсом, и Александр Александрович, оставшись у него с государем, гулять не пошел...
4月10日
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは、まだ腫瘍に苦しんでいる帝位継承者の元にいた。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは皇帝と共に彼の元に留まり、散歩には行かなかった。
9 мая
...Были у Николая Александровича, у которого, от напряжения мускула в спине, были спазмы, стягивание мышц живота, и он страдал...
5月9日
ニコライ・アレクサンドロヴィチの元を訪れた。彼は背中の筋肉の緊張により痙攣を起こし、腹筋が引き攣って、苦しんでいた。
このように、主に背中の腫瘍に苦しんでいたことがわかります。当時の医学では診断できていませんが、記録を見る限り、この頃に本格的に脊椎結核が発症したのだと推測できます。
ちなみに正にこの4月頃に関して、公爵君ことメシチェルスキー公爵も以下のように書いています。
しかし、皇太子の寝室に入ると、狭い寝台に横たわった彼の顔がシーツのように真っ白になってしまっているのが目に入り、私はすっかり怯えてしまった。ただの些細な風邪が、彼の顔にこのような恐ろしい変化をもたらすだろうか。
皇太子自身は、己の病状について、倦怠感と、時々起こる腰痛を訴えるだけだった。
メシチェルスキー『回想録』1864年33節(前編) - 翻訳
公爵君が殿下の寝室に侵入するのシンプルに怖いよ定期。
ちなみに、「ジュ・ド・ポーム」というのはテニスの原型となる球技で(殿下の頃はまだテニスは存在しなかった)、ラケットを用いて遊ぶスポーツです。
単なる体力勝負では弟たちに全く歯が立たなかった殿下ですが、ゲーム性が加わると持ち前の頭の良さを活かして戦略勝ちすることができたようで、ジュ・ド・ポームでの勝率は結構高かったようです。
この頃、殿下兄弟はこのジュ・ド・ポームにハマっていて、空き時間によく遊んでいた様子が側近達の記録からわかります。
↑ ジュ・ド・ポームのラケットを持った集合写真。左で立っているのが殿下、中央で椅子に座っているのが従兄のコーリャ大公、右下に座っているのがアレクサンドル大公。
殿下の体調がなかなか良くならないので、7月頃、殿下はオランダのスケフェニンフェンに療養に出されます。そこで、殿下は「海洋療法」といって、謂わば寒中水泳のようなものを強要されます。完全にエセ科学で、現代では否定されている代物です。
このことについても、同じく公爵君の回想録から再確認しましょう。
翌朝も、その次の朝も、私は水浴の後に皇太子が紅茶を飲みに向かう時、顔色が殆ど真っ青になってしまっているのを見た。また、彼が、寒気がして、幾ら歩いても少しも暖かくならないのだと言っているのを聞いて、私の胸を不安が襲った。
確かに、天候は忌まわしく、寒かった。しかしながら、私は水浴が大公に対し、寧ろ害をもたらしているように思えてならなかった。
(中略)私は皇太子に私の例に倣うように助言し、医師シェストフに海水浴は害を及ぼすので中止すべきではないかと尋ねた。しかし運命は、この世の優れた人々である医師たちにも容赦はなかった。
シェストフは、この問いには深く考える必要もないと感じ、私に対し、「それはあなたの仕事じゃないでしょう、この点に関してわかっているのは私一人なのですよ」とでも言いたげだった。
そして可哀想な皇太子は、私の進言に、「それが私のアスクレピオス(医師)の意志ですから」と答えた。
この件について、論文の中でジーミン先生は以下のように指摘します。
Здесь, вероятно, уместно заметить, что на то была не только "воля эскулапа", но и воля самого Императора Александр II.
ここでは、「医師の意思」だけではなく、正に皇帝アレクサンドル2世の意思でもあったことを記しておくのが適切だろう。
日本語訳だとダジャレみたいになっちゃって申し訳ない。つまり、「皇帝が海洋療法を行えと言うので、殿下は逆らうことができず、明らかに身体に害であるのがわかっているのに続けていた」というわけです。うーん、これはどう考えても虐待。
13時間の拷問
今節ではアレクサンドル2世の毒親虐待伝説の中でも有名なエピソードを取り上げます。
1864年9月、殿下がダグマール姫と初対面を果たした後のものです。再びオームの回想録からの引用です。どうぞ。
Тут Цесаревич стал жаловаться на боли в спине и когда О. Б. Рихтер доложил об этом Государю, Его Величество был крайне недоволен, говоря, что погода хороша и ревматизм не может ухудшиться.
Между тем с 5-ти ч. утра до обеда (в 6 ч. вечера) Цесаревич должен был верхом следовать за Государем на маневрах. После обеда ежедневно собирались на спектакли, а потом ужинали и расходились только в полночь.
Не знаю, почему впоследствии это сделалось всем известным, и как часто приходилось мне слышать, что упрекали графа Строганова в том, что он не внимал жалобам Цесаревича; между тем графа и не было в Потсдаме: он вслед за тем нриехал из Петербурга в Берлин, чтобы ехать вместе с Цесаревпчом в Копенгаген.
その時、皇太子は背中の痛みを訴え、О. Б. リヒテルがこのことを皇帝に報告すると、陛下は非常に気を悪くされ、こんな天気が良い日にリューマチが悪化するわけがないだろうと仰った。
朝の5時から晩餐(夕方6時)まで、皇太子は馬に乗って皇帝に付き従わなければならなかった。晩餐の後は毎日観劇に集められ、その後は夜食があり、真夜中まで拘束されていた。
どうしてこのようなことが広く知られるようになったのかわからない。そして、どうしてストロガノフ伯爵は皇太子の訴えに耳を貸さなかったのかという非難を私は何度聞いたことか。しかしその時伯爵はポツダムにさえいなかった。彼は皇太子と共にコペンハーゲンに行くために、ペテルブルクからベルリンへ向かったのである。
完全に虐待です本当にありがとうございました。黒です。今すぐキバリチチを召喚しよう(物騒)。
最初にも登場したストロガノフ伯爵は、殿下の教育主任を務めていた人物です。当時のロシア随一の博学な知識人であり、自他共に非常に厳しいストイックな老人でした。
↑ 老ストロガノフ伯。厳しくも思いやりがある伯爵と、努力家で飲み込みが早い殿下は、最強の師弟でした。殿下も彼を大変慕っていました。
この厳しさから、同時代人には「彼は殿下に辛く当たった」とよく書かれているのですが、殿下の秘書官であり、二人を間近で見てきたオームは、これを強く否定します。
オームに言わせれば、殿下に理不尽に厳しいのは正に父・皇帝アレクサンドル2世であり、ストロガノフ伯爵は皇帝の濡れ衣を被っているのだといいます。伯爵は怒っていいよ、寧ろ怒って欲しい。
オームの筆からも怒りが窺えますが、これはまだ押さえている方だと思います。
この時皇帝は、殿下に対し「デンマークに女ができたからドイツ軍が怖くなったか、この腰抜けめ」などと散々不当な罵倒を浴びせており、殿下はこの中傷に耐え、更に13時間の軍事演習、その後の宴会その他に強制参加させられる日々を送る羽目になりました。可哀想すぎる……。
殿下はこれで疲弊し、更に体調を悪化させましたが休むことができず、その後コペンハーゲンに戻った際にお姫に体調不良を見抜かれています。
ちなみに、オームは軍事演習があった場所を「ポツダム」としていますね。殿下自身は手紙で「ベルリン」だと書いているので、これまで弊ブログの解説やwikipediaには「ベルリン」と書いてきたのですが、更に検証を進めてポツダムの方が正しそうであれば修正しますね。
殿下の周囲に関しては研究者が驚くくらい記述が一致していることで有名なのですが(有り難い)、このように、記憶や認識違い・書き間違いなどによって、一次史料であっても記述が揺れていることもあります。
オームの抗議
殿下の側近たちは、「あの」殿下の側にいるわけですから無論殿下の魅力にあてられていて、彼のことを溺愛しています。
この皇帝の「虐待」に対し憤ったのは、教育主任のストロガノフ伯爵だけではありません。絶対的な権力であり、しかも癇癪持ちで性格の悪いアレクサンドル2世に対し、秘書官オームも勇気を出して立ち上がります。
↑ ピン写真がないので集合写真。後列左から2番目がオームさん。低身長がコンプレックスらしい。中列真ん中が殿下。
1865年に入ると、殿下はニースで過ごすようになります。日に日に病状が悪化していく主を心配するオームは、遂に行動に出ます。
彼は所用でニースを一時的に離れた際、ペテルブルクに寄ることに決めます。その際、イタリアで殿下を診察し、唯一「脊椎結核」という真相を探り当てた医師ブルチに連絡を取り、改めて意見を尋ねるという超有能プレーをかまします。流石殿下の秘書。
彼はその意見書を携えてペテルブルクに帰還し、皇帝に直訴するのです。この時の様子を読んでみましょう。胸糞注意。
Мне были даны письма, которыя и на другой день утром отвез в Зимний дворец. Сперва и явился к Великим Князьям Александру и Владимиру Александровичам, и Их Высочества взялись немедленно донести о прибытии моем Государю Императору.
«Ты решился выехать из Ниццы, успокоенный Французскими врачами на счет здоровья сына?» был первый вопрос Государя.- Точно так, Ваше Величество, отвечал я; дай Бог, чтоб они были правы!
- «Да ты как будто сомневаешься. Не воображаешь ли быть более верным судьею болезни, чем они? Да с каких пор позволяешь ты себе суждение по медицине?» строго и все более возвышая голось, говорил Государь. Но в нисколько не смутился.
«Страх, Государь, боязнь за жизнь Цесаревича, заставляет задумываться над тем, что мы, окружающие Его Высочество, видим и замечаем. Он тает как свеча, силы не возвращаются. Лечение, предписанное Нелатоном и Рене, нисколько до сего времени не помогает; непротив того появились симптомы, которые скорее указывают на то, что правы не эти врачи, видевшие Цесаревича в продолжение какого-нибудь часа, а скорее профессор Бурчи, пользовавший Его Высочество во Флоренция.
«Да, что же он говорить?» спросил Государь.
- Вот, письменное изложение его мнения, отвечал я, и вынул из кармана письмо Поггенполя, мпою нарочно взятое с собою.私は手紙を受け取り、翌朝それを持って冬宮殿へ向かった。まずアレクサンドルとウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の元へ行くと、両殿下は直ちに私の到着を皇帝に報告すると約束された。
「息子の体調に関して、フランスの医師たちの意見に安心したからニースを離れる決心をしたのだな?」、それが皇帝の最初の質問だった。
「仰る通りでございます、陛下」、私は答えた。「神よ、彼らが正しいとお認めください!」。
「お前はまるで疑っているようだな。彼らよりも正確に病気を診断していると思い上がっているんじゃないか? いつからお前に医療の診断ができるようになったんだ?」。厳しく、そしてますます高圧的な声で皇帝は言った。しかし私は少しも狼狽えなかった。
「恐ろしいのです、陛下、殿下の側におります私共は、皇太子を側で見ていて、彼の命を案じざるを得ないのです。彼は蝋燭が溶けるかのように窶れて、体力が戻りません。ネラトンとレネの指示による治療は、今日まで少しも役立っていません。
パワハラやばくないですか?
ロマノフ朝の皇帝はろくなのがいないので、アレクサンドル2世は「比較的マシ」扱いされることが多いですが、人格的には歴代トップクラスに終わっており、人望はマイナスを割っていました。それが嘘ではないことが、この記録からもわかると思います。
таять как свеча は「痩せ衰えていく」という意味のロシア語の慣用句なのですが、直訳すると「蝋燭のように溶ける」で、洒落ているなあと思ってつい直訳してしまいます。殿下の病に纏わる記録を読んでいると、結構頻出する表現です。
殿下は自ら体調不良を訴え出ましたが、皇帝に罵倒されるだけに終わりました。
見かねた側近は皇帝に直訴しましたが、高圧的に怒鳴られてしまいます。
殿下や側近たちは、どうすればよかったのでしょうか。
人知れぬ涙
オームの直訴から程なくして、殿下の病は急激に悪化し、脳出血を起こしてしまいます。
ペテルブルクに電報が打たれ、皇帝も殿下を見舞いに、というより看取りにニースへ向かうことになります。
司祭にさえ「聖人」と謳われた殿下は、これまで見てきたような仕打ちを受け続けたにもかかわらず、意識を保つのさえ困難な中、無理をして身体を起こし、笑顔で父親を迎え入れ、見舞いに来てくれたことに感謝し、彼を抱き締め、手にキスします。
そこで漸くこの愚かな父親は自分の過ちに気が付いたらしく、病床の側に跪いて、瀕死の息子に優しく接し始めます。オームの回想録からです。どうぞ。
Я не утерел при виде этой раздирающей сцены и, едва удерживая рыданья, вышел из комнаты. Государь бывал строг в своему Наследнику, скажу даже, в некоторых случаях, немилосерд, и мне казалось, что в эту минуту он почувствовал потребность нежностию изгладить все, что могло остаться в памяти сына из болезненых ощущений, которыя вызываемы были резкими замечаниями, запрещениями выражать мнения, молокососу, как он его называл. Никогда не забуду горьких слез Цесаревича, после прочтения ему оффициальной бумаги министра двора графа В. Ф. Адлерберга к Рихтеру, в которой ему было сообщено Высочайшее повеление об явить Его Высочеству, чтобы он никогда не утруждал Государя Императора личным ходатайством по прошениям, на имя Цесаревича поступающим.
私はこの胸を引き裂かれるような光景を見て涙を堪えられず、辛うじて号泣するのを堪えながら部屋を後にした。
皇帝はいつも自分の後継者に厳しく、時には非情であるとさえ言えた。この瞬間、私には、息子が覚えているであろう辛辣な叱責、意見表明の禁止、いつも「青二才」と呼んでいたことなどの辛い記憶を、皇帝は優しさでもって全て消し去ろうとしているように見えた。
宮内大臣 В. Ф. アドレルベルクがリヒテルに宛てた公式文書を読まれた後に皇太子が流した苦い涙を、私は決して忘れることはないだろう。それは、皇太子の名で受理した請願書を個人的に取り次いで皇帝陛下にご迷惑をおかけすることがあってはならないという最高勅書だった。
Плачьте, эти слезы Дороже всех сокровищ мира!(泣いてください、その涙は世界中の全ての宝よりも尊いものだ! - オペラ『エヴゲーニー・オネーギン』第3幕より)
最期まで虐待していたとしたらそれも大問題ですが、なんというか、最期に自分だけ許して貰おうだなんて、身勝手で都合がよすぎますよね。殿下は聖人なので、許してあげちゃうし。キリスト教徒の鑑だ。でも殿下が許しても側近や限界同担は許してくれないと思うよ……。
こいつは殿下が死にそうになって初めて、「自分のせいで息子が死ぬこと」「彼が自分やロシアにとって如何に大事で素晴らしい存在であったか」を理解したのでしょう。流石にバカすぎると言わざるを得ない。
これらのエピソードを読めば、この秘書官オームや、民法教師ポベドノスツェフなどの皇帝への強い怒りが理解しやすいかと思います。
毒親皇帝は、殿下のことを悪口で Молокосос と呼んでいたことがオームの記録からわかります。これは辞書を引くと「青二才」とあるのでその通りに訳出しましたが、直訳すると「ミルク吸い」、要は「乳飲み子」という意味になります。浮気相手のおっぱいしゃぶってんのはオメーだろーがよ。
その他にも、Кисейная барышня などと呼んでいたようですが、これは直訳すると「モスリンを着たお嬢ちゃん」で、転じて「世間知らず」という意味の悪口だったようです。どの口が何言ってんだ。
後半のエピソードについて解説します。
皇帝は、わざわざ「自分に迷惑をおかけになってはならない」とかいうバカ勅書を殿下に出しています。しかもこれは、「殿下が個人的な要望で陛下を困らせる」のではなく、「殿下の元に届いた民衆の嘆願書を、全て皇帝は受理しない」ということです。意味わかんなくないですか?
息子に嫉妬するあまり、自分ではなく息子を頼った民衆の嘆願を総じて受理しないとかいう、スーパー暗君です。正気なのか? 可及的速やかに殿下に譲位してください。これで「比較的マシ皇帝」扱いは有り得なくない?
殿下はこれを受け、泣いてしまったとのことです。恐らく彼は、「自分が父親に嫌われるあまり、国民が幸せになれない」と思い、責任を感じてしまったのでしょう。泣かないで欲しいけど、国民の為に流される殿下の涙は美しすぎる……、どう考えても殿下こそ君主に相応しい。
それを見たオームがブチ切れて直訴するのも当然です。
そもそも、あの「完成の極致」と名高い殿下に嫉妬すること自体が愚かですよね。あんなのどう見たって適うわけないじゃないですか。畏怖や崇拝の対象にこそなれ、普通、嫉妬はしないでしょう。殿下本人は謙虚ですし、実の息子だからとナメていたのかもしれませんが、寧ろ何故こんな毒親からこんな聖人が生まれたのか全くわかりません。
政治に関してだって、折角すぐ側に若いながらも天才的な頭脳を持つ殿下がいるのに、その口を封じるバカがどこにいますか。コンスタンティン叔父さんのように、素直に殿下に相談すれば、大改革だって上手くいったかもしれないものを。
皇帝一行がニースに到着した次の晩、殿下はとうとう力尽き、息を引き取ってしまいます。あたかも最後に父に謝罪の機会を与えたかのようで、本当に最期までよくできた息子ですよね。
余りにも遅すぎる後悔をしたのか、息子を看取った皇帝は大号泣し、亡骸の側を離れず、「息子に先立たれた可哀想な父親」ムーヴをかますようになります。オメーだよ!!!
この構図、イリヤ・レーピンの名画『イヴァン雷帝とその息子』を彷彿とさせますよね。歴史は繰り返すのかもしれません。
↑ ロマノフ朝の前、リューリク朝時代を描いた歴史画。激昂し、誤って杖で息子を殴り殺してしまった雷帝を捉えた有名な作品。
オームのようなずっと側にいた側近たちはともかく、それ以外の周囲は皇帝の涙にコロッと騙され、ストロガノフ伯爵に殿下の死の責任を押しつけ、皇帝に同情し始めます。ほんとに胸糞悪いぞ!!
この皇帝の「可哀想なオレ」演技(本人は本気で悲しいつもりなんだろうけど)に引っ掛かった一番の大物が、エカテリーナ・ドルゴルーコヴァです。
↑ 美人ではあるけど頭の中身は……。皇帝との間には、なんかとんでもない下ネタラブレターやらヌードのスケッチやらが大量に残っています。
彼女はお姫と同い年の1847年生まれですが、なんと皇帝の愛人になります。息子の婚約者と父親の愛人が同い年、ヤバすぎる。
アレクサンドル2世が好色な変態なのは有名な話ですが、どんな趣味をしているのだか、彼女の方も皇帝が好きだったようで、急接近の切っ掛けは、正に「殿下の死で沈み込んでいる皇帝が可哀想だったから」。そりゃ同時代人に「頭軽い」とか散々に言われても全く否定できません(まあ出逢いに関しては、17歳の女の子を誑かす50近い既婚の権力者のほうが100%悪いし、どう考えたって頭おかしいけど)。
皇帝は「息子の早逝や暗殺未遂での傷心」を言い訳に、その後側近に政治を丸投げして、ドルゴルーコヴァとの性行為に溺れる爛れた生活に勤しむことになります。おっさん、シンプルにキモいです。
皇帝は無論既婚者であるにもかかわらず、彼女との間に「第二の家庭」を築き、子供も4人も作り、周囲からは非難の的でした。
こうして帝政ロシアは崩壊への道を転がり落ちていくのでした。
帝政ロシアが存続する道として最も有効なのは、弊ブログでは何億回と申し上げている通り、殿下が即位し、彼に統治をしてもらうことです。
彼は元々身体が強いほうではありませんでしたが、それにしたってこんなにも若くして亡くなることになってしまったのは、ここまで見てきたように、父親が彼に無理を強いたからです。
殿下に幸福で長い人生を歩んでいただく為には、この毒親を更生させるというのが、一番の近道でしょう。
最後に
通読ありがとうございました! 長すぎると思って、一部折角書いた翻訳を削ったりしたのですが、それでも1万6000字超えです。何故だ。
アレクサンドル2世が如何にクソ野郎か、ご理解いただけたでしょうか。これには同時代人も研究者も頭を抱えています。寧ろ、反体制派よりも限界同担から暗殺未遂を食らわなかったことの方が不思議なレベルです。いや、実は紛れていたかも?
是非とも感想を教えてくださいね! 長い感想、何よりも大好物です。どうしても匿名がよい方はマシュマロでも可。
宜しくお願いします!
次回の記事は未定ですが、席を取っているコンサートが近いので、レビューになるでしょうか。殿下関連に関しては、まだ幾つか単発ネタを持っているので、これらを消化していくことになると思います。いつも通り、どのエピソードも濃くて最高ですので、お楽しみに。気長にお待ちください!
それでは、今回はここでお開きにしたいと思います。また次の記事でもお目にかかれれば幸いです!