拡大する写真・図版水前寺清子「援歌60年、ワン・ツー・ワン・ツー」

 《デビューから59年、この年越しも歌合戦の舞台に立っていた》

 NHKの紅白歌合戦じゃありません。「ももいろクローバーZ」の4人が進行役を務める「第6回ももいろ歌合戦」です。私は第1回から出場していて、今回は勝った組に優勝旗を渡す役でした。そして、みんなで私の代表曲「三百六十五歩のマーチ」を大合唱。ステージでは昔からの歌手仲間や若いアーティストに囲まれ、客席にも若者がいっぱい。とても楽しい時間でした。

歌手の水前寺清子さんが半生を振り返る連載「援歌60年、ワン・ツー・ワン・ツー」の全4回の初回です。

 《昨年夏はロックにも挑戦。ロックバンド「ギターウルフ」などのライブにサプライズで登場。トレードマークの着流しではなく、ライダースジャケット姿で、「三百六十五歩のマーチ」のロックバージョンを披露した》

 会場は盛り上がったね。若い人が「ウォー」って感じ。「何で、私のこと知っているの」と思ったけど、私のファンとは反応が全く違うので新鮮でした。私は演歌を多く歌ってきましたが、実はデビュー前は深夜喫茶でDJのアルバイトをしていたので、ロックは大好きだったんですよ。

 《同じ夏には4年ぶりの新曲「運否天賦(うんぷてんぷ)で行こうじゃないか」をリリースした。「天に任せた運だけで生きてゆくのも悪くない」と歌いあげる》

 私は今まで「がんばれ! がんばれ!」と人を励ます歌を多く歌ってきました。一生懸命な努力も素晴らしいですが、運を天に任せてみるのも悪くないかなと。そんな思いを歌っています。1964年のデビューから約60年、私自身も運に恵まれて、これまでやってこられましたから。まずは熊本で育った子ども時代のことから話しましょう。

熊本の歌好き少女、基礎も徹底

 生まれたのは終戦から2カ月後の1945年10月9日。父壽(ひさし)と母マタメは、熊本市の子飼商店街で「ゑびす屋」という化粧品店を営んでいました。兄年令(としのり)、姉令子とは10歳近く離れており、お父ちゃんが44歳の時に生まれた末っ子だったので、まるで孫のように溺愛(できあい)されて育ちました。

 《子どものころから歌が大好き。3歳のころには物まねで流行歌を歌っていたという》

拡大する写真・図版子どものころ、自宅庭のブランコで=本人提供

 お父ちゃんは音痴でしたが、歌好きだったので喜んでね。「民子は歌のうまか。音の出るもんば、なんか買うてやらな」と買ってくれたのがオルガン。足が届かないのでお父ちゃん手作りのイスにすわって、オルガンを弾く写真が残っています。

 《熊本市立碩台(せきだい)小学校に入学すると、歌好きに拍車がかかる》

 得意だったのは宮城まり子さんが歌った「ガード下の靴みがき」。「おいら貧しい靴みがき……」。歌ううちに自分も親を亡くした貧しい靴みがきの気分になって涙が出てくる。「ああ、私の母ちゃんは本当の母ちゃんじゃないんだ」と思い込んで、あるとき「わたし、橋の下で拾われてきたんだろ?」と言ったら、さすがに優しいお母ちゃんも「なんばいいよっとね、こん子は」と怒りましたね。

 《歌のうまさは近所でも評判になった。地域ののど自慢大会に出れば必ず賞をとった》

 家に帰ると近所の人が待っていて「民ちゃん、歌って」。すると私は「1人や2人の前じゃ歌わんよ。大勢の前で歌うときに聞きにきなっせ」。生意気ですよね。

 お父ちゃんは歌手にさせようと考えて、小学5年生の時に高校で音楽を教えていた滝本泰三先生のところに連れていった。ところが先生は「歌謡曲は教えられない、音楽の基礎なら教える」。それで発声の訓練や声楽の基礎を学ぶことに。大好きな歌謡曲を歌えると思っていたのでつまらなかったけれど、おかげで譜面も読めるようにもなり、それらが後年、役に立った。何事も基礎は大切ですね。

父と家族の夢、背負う覚悟

 《熊本市で歌ざんまいの楽しい小学校生活を送っていたが、小学6年の12月、父から突然、東京行きを告げられる》

 大好きなお父ちゃんだが、このときばかりは嫌いになった。友だちと別れたくなかったからね。「私はイヤ。なぜ東京に行かないかんと?」と反対したら、お母ちゃんが「東京で民ちゃんを歌の学校に入れるんだって、好きな歌をいっぱい歌えるよ」って。

 1957(昭和32)年の年末、私たち家族は熊本駅から博多駅へ。そこから夜行の特急「あさかぜ」に乗って東京に向かったのです。この東京行き、お父ちゃんが事業拡大に失敗しての「夜逃げ」と知ったのは大人になってから。みんな、子どもの私にはそんな事情は何も言わなかった。

 《まずは新宿・成子坂の貸間に落ち着き、約3カ月後に目黒に引っ越し、中学生になった》

 お父ちゃんは約束通り、夜間の音楽学院に通わせてくれました。学校から帰ると、音楽学院で好きな歌を精いっぱい歌うことができて幸せでした。

拡大する写真・図版音楽学院のころ(左から2人目)=本人提供

 でも、家は決して裕福ではなかった。50代後半のお父ちゃんは精肉店でコロッケをあげ、お母ちゃんはビルの清掃、兄も姉も働いていました。夜は毛糸の手袋にビーズを付ける内職。これは私も手伝いました。できあがって届けるとお金がもらえる。働くというのはこういうことかって、子どもながらに思いました。

 後ろめたさを感じて、「私も働こうかな」と言ったことがあるんです。そしたら、お父ちゃんが「おまえは歌んこつだけ考えろ」「おまえには素質がある。それを磨いて世にだすのがお父ちゃんの仕事たい」。本気で歌手を目指そうと思った瞬間でしたね。

 61年に歌手の登竜門といわれる「コロムビア全国歌謡コンクール」で2位になりました。家族はこれで歌手デビューかと喜びましたが、まだまだ。山あり谷あり、そんなにスムーズには行きませんでした。

星野哲郎の声がけ、でもお流れ11回

 《1961年、レコード会社の「日本コロムビア」が主催する「コロムビア全国歌謡コンクール」で東京代表となり、全国大会で2位になった》

拡大する写真・図版コロムビア全国歌謡コンクールで2位に=本人提供

 この日の写真をみてください。山ほど賞品をもらいましたが、無条件でレコードデビューできるのは1位のみ。しかし、審査員の一人だった作詞家の星野哲郎先生が気に入ってくれて、先生の声がけで特例のレッスン生としてコロムビアに通うことができたのです。

 《レコードの吹き込みの機会は思ったより早くやってきた。翌年の1月だ》

 レコーディングが終わって、す…

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