長崎には「被爆体験者」という人たちがいます。「埋もれた被爆者」などと呼ばれています。被爆体験者とはどういう人で、なぜ被爆者と区別されてしまったのでしょうか。その歴史や制度を、「被爆地域」「体験者」「広島の『黒い雨』」という三つのキーワードで読み解きます。
拡大する被爆体験者訴訟の口頭弁論のため長崎地裁に入廷する原告団
Q 「被爆体験者」とは?
A 1945年8月9日、米国が長崎市に投下した原爆の被害に遭ったにもかかわらず、日本政府が線引きした「被爆地域」の外だったため、被爆者と認定されなかった人たちを指す。
Q 「被爆地域」はどう決められたの?
A 政府は57年、広島と長崎で原爆に遭った人々を救済するため、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)をつくった。当時の長崎市や広島市と、その周辺を「被爆地域」とし、約20万人を「被爆者」に認定した。
当時の科学的な知見では、原爆の放射線が身体に影響を及ぼすのは、爆心地から5キロまでと考えられていた。
ところが、旧長崎市内を爆心地から半径5キロで区切ると、同じ市民なのに被爆者に認められる人と、認められない人ができてしまう。こうした混乱を避けるために、国は旧市域全域と周辺の一部を被爆地域に指定した。
その結果、爆心地から東西や北側はほぼ約5キロ圏内だが、南側に12キロまで広がるといういびつな形になった(図の赤色部分)。
Q 国は、科学的な知見ではなく、長崎市の形で線引きしてしまったんだね。
A 当然、被爆地域から漏れた人は、対象拡大を求めた。
これに対し、国は74年と76年、被爆地域の北側と東西の一部地域を「第1種健康診断特例区域」に指定した。この範囲で、特定の病気にかかると、被爆者として認定され、被爆者健康手帳がもらえるようになった(図の濃い黄色部分)。
ただ、その形はなおいびつで、爆心地から南北にそれぞれ約12キロ、東西は約7キロという縦長の楕円(だえん)形になった。
Q 爆心地から半径12キロ圏内でも、被爆者健康手帳をもらえない人が残ってしまったわけだ。
A 長崎市などは、12キロ圏内すべてを、被爆地域と認めるよう国に求めてきた。
ただ、国は被爆地域を拡大していくことに消極的だった。
1980年、被爆者対策の基本…