米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還と、辺野古移設をめぐる問題は、いつ、どのようにして始まったのか。なぜ混迷を深めてきたのか。「少女暴行事件」(1995年)、「米軍再編」(2006年)、「政権交代」(09年)「軟弱地盤の工事」(24年)――。四つの時期に焦点をあて、日米政府と沖縄県民のはざまで葛藤を続けてきた歴代沖縄県知事の視点や言葉にも注目しながら、解説します。

拡大する写真・図版普天間飛行場。米軍ヘリが編隊飛行している=沖縄県宜野湾市

――普天間移設問題の原点とはなにか。いつ、どのようにして動き出したのか。

「危険性除去」という大義

 原点は、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の危険性を一日も早く除去すること――。官房長官はじめ関係閣僚は国会や会見で判で押したようにこう語る。続けて「普天間の固定化は避けなければならない」「辺野古が唯一の解決策だ」と強調するパターンだ。

 知事選や県民投票で移設ノーの民意が示されたと問われても、答えは同じ。ただ、30年近い普天間移設問題のなかで、このように語られるのはこの10年ほどに過ぎない。「唯一」が繰り返し唱えられるようになったのも、2013年の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)の共同文書に明記されて以降のことだ。

 こうした言い回しは歴史的経緯を顧みないばかりか、捨象することで、辺野古移設ノーを訴える沖縄の人々への「脅し」の効果も生み、政府にとっての「逃げ道」にさえなっている、との指摘がある。危険除去、という大義に逆らっているのは誰なのか、と。

原点とは何か

 移設問題の原点について、「危険除去」を強調した安倍政権下の菅義偉官房長官に対し、故・翁長雄志(たけし)元知事が語ったのは戦後日本から切り離された時代の「銃剣とブルドーザー」だった。米軍統治下、武装した米兵が家や土地を奪い基地を建設したことを沖縄ではそう呼ぶ。筆者自身は、さらにさかのぼり、米軍による占領とともに基地建設が始まった沖縄戦が原点、との視点を大切にしている。

 では、普天間・辺野古問題は具体的にどのようにして始まったのか。

大田昌秀知事の言葉、1995年10月
「行政の責任者として、いちばん大事な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることができなかったことを心の底からおわび申し上げます」(少女暴行事件翌月に開かれた県民総決起大会で)

 直接的なきっかけは1995年9月に起きた、米兵3人による少女暴行事件だった。凶悪事件の発生に加えて、米側は、基地内にいた容疑者の捜査段階での身柄引き渡しを日米地位協定を盾に拒み、県民の怒りは沸騰する。

拡大する写真・図版1995年10月21日、米兵の少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会の会場を埋めた参加者=沖縄県宜野湾市、本社ヘリから

 当時の大田昌秀知事は、基地のための土地提供を拒む地主に代わって、国が強制的に土地を使う手続きへの協力(代理署名)を拒否。沖縄の人々の声が日米安保を揺るがす事態に発展し、日米両政府は、沖縄の基地負担軽減に動き出す。

 その象徴として日米が96年4月に合意したのが「5~7年以内」の普天間飛行場の全面返還だった。

「混迷」の最大要因

拡大する写真・図版普天間飛行場の全面返還合意について記者会見する橋本龍太郎首相と、モンデール駐日米大使=1996年4月12日、首相官邸

 しかし、この返還は「県内移設」つまり、沖縄内に代わりの基地を確保することが条件とされた。この県内移設という条件こそが、現在に至る「混迷」の最大の理由だといわれる。各種調査で県民の反対は30年近く、5~8割で変わっていない。歴史的経緯、繰り返される事件事故、理不尽な日米地位協定といったことを背景とした県民の根強い反対がこうした数字で表れている。県内移設の条件つきのために返還が実現しないケースは他にもある。

 移設問題の原点を考えるとき、もう一つ忘れてはいけないのが、普天間返還合意の数日後に日米が調印した「日米安保共同宣言」だ。

利用された「普天間返還合意」

 共同宣言は、95年の少女暴行…

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