拡大する写真・図版「実録・連合赤軍」公開時、若松孝二監督は「事件を起こした若者の弾劾(だんがい)でも擁護でもない実録を目指した」と語っていた=石川智也撮影

 今年は映画界の超異端児、若松孝二監督の十三回忌。極道から映画界入りし、性と暴力を過激に融合した低予算ピンク映画を量産した若松監督は、どこまでもアナーキーな表現者だった。

 憧れ続けた若松監督に19歳で師事し、青春期を捧げた脚本家・映画監督の井上淳一さん(59)は、若松組の特徴は「離合集散」「集団未満」にあった、という。人間は群れると危うい、集団はすべからく解散すべし――それが恩師の遺訓だったのかも、とも語る井上さんに、その含意をあらためて聞いた。(聞き手・石川智也)

拡大する写真・図版脚本家・映画監督の井上淳一さん

コロナ禍でも見えた多数派の横暴

 昨年公開の映画「福田村事件」で脚本を務めました。題材は、関東大震災発生5日後の1923年9月6日、千葉県福田村(現野田市)で起きた凄惨(せいさん)な事件です。香川県の被差別部落から来た行商団15人が朝鮮人と決めつけられ、地元自警団や群衆に襲われ9人が惨殺されました。

 何ら変哲のない市井の人々、善良な生活者が、妊婦や子どもまで手にかけた。人はなぜ「そちら側」に行ってしまうのか、どんなきっかけで一線を越え加害者へ転じるのか。答えがなかなか出ず、悩みました。酸鼻な惨劇の発端となる「最初の一撃」を誰が担うか、脚本は16稿を重ね、毎回その役が入れ替わりました。いま思えば、誰もがその人物になり得る、ということを物語っていたのだと思います。

 そんな折にコロナ禍に突入。感染者を罪人のごとくたたき、「自粛していない」店に嫌がらせする「コロナ自警団」が、福田村の自警団と重なりました。おそらく多数派の位置にいると、人はこういうことに手を染める。個人や少数者の立場だったら利く歯止めが、外れてしまう。集団心理とか同調圧力とか便利な言葉で説明されていますが、群れ化した時に開花してしまうヒトの性(さが)なのかもしれません。僕も、仲間内の議論でさえ、多数意見側にいると、声高な論破モードになっている時がある。身中に湧いてくる暴力性に、自分でもハッとします。

群れれば不純になり、忖度が覆う

 悪口雑言や誹謗(ひぼう)中傷…

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