袴田巌さん58年後の無罪なぜ死刑囚にされたのか

2024年9月26日。強盗殺人などの罪で死刑が確定していた袴田巌さん(88)に、再審公判で「無罪」が言い渡された。袴田さんに「死の恐怖」を強いたこの半世紀は何だったのか。前代未聞の事件を数字からたどる。

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県犯罪史上まれに見る凶悪事件

1966年11月15日付朝日新聞静岡版 事件発生から逮捕・自供まで

1966年6月30日未明、静岡県清水市(当時)で住宅が全焼し、みそ会社専務一家4人の遺体が発見された。4人とも胸などに刺し傷があった。県警は49日後、当時30歳で元プロボクサーの袴田巌さんを逮捕した。

  • 殺された被害者
    4

    殺害されていたのは「こがね味噌」専務の男性(41)、妻(39)、次女(17)、長男(14)。未成年も惨殺された凶悪事件だった。殺された被害者 (詳しくはこちら)

    事件現場の専務宅=現場の袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会の山崎俊樹さん提供
  • 捜査線上の人物
    少なくとも 28

    県警は内部資料で、被害者の知人や会社に出入りする関係者らも、捜査線上に浮かんだことを記録している。(詳しくはこちら)

  • 取り調べ
    430 時間

    逮捕後の取り調べは、1日平均12時間。袴田さんは関与を否定し続けたが、逮捕20日目に「自白」した。(詳しくはこちら)

    袴田巌さんへの取り調べの様子を収めた録音テープの一つ=袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会の山崎俊樹さん提供
  • 発生から
    逮捕まで
    49

    工場関係者が怪しいと踏んでいた県警は、8月18日、従業員の袴田さんを逮捕した。新聞では、事件発生後ほどなくして、袴田さんに捜査が及んでいることが匿名で報じられていた。

  • 捜査員
    延べ 7223

    県警は捜査本部を設置し、捜査1課員のほか、近隣の署の捜査員も投入した。県警の内部資料によると、事件発生から約4カ月間で延べ7223人が捜査にあたった。

    凶器とされるくり小刀=袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会の山崎俊樹さん提供

なぜ袴田さんが疑われたのか

県警は当初から、工場関係者による犯行だとみていた。袴田さんは、事件直後に左手にけがをしており、部屋から血のついたパジャマが押収され、アリバイもなかったことなどから、強く疑われた。

なぜ「自白」してしまったのか

取調官は、関与を否定する袴田さんに、科学的な証拠があるなどと言って罪を認めるよう迫り続けた。時には取調室に便器を持ち込んで小便をさせ、体調を崩しても連日取り調べた。唯一の味方である弁護人との接見は、袴田さんが逮捕20日目に「自白」するまで3回のみ。1回あたり7~15分間だった。

無罪主張に転換
真っ向対立の末に死刑判決

  • 突如発見された「犯行着衣」
    5

    初公判から約9カ月後、工場のみそタンク内から血のついた衣類5点が見つかり、騒然となった。捜査側は「犯行時の着衣」と判断し、それまでの裁判での「犯行着衣はパジャマ」との主張を訂正する事態になった。(詳しくはこちら)

    「5点の衣類」が見つかったみそタンクの実況見分時の様子=袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会の山崎俊樹さん提供
  • 供述調書
    1

    1966年に始まった静岡地裁での公判では、袴田さんの「自白調書」が争点の一つになった。判決は、計45通のうち、県警作成の44通は「任意性がない」と問題視し、検察官作成の1通だけを採用した。

    採用された供述調書=袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会の山崎俊樹さん提供
  • 法廷での証言者
    延べ 100 人超

    検察側と弁護側が全面的に争った公判では、捜査報告書や供述調書、鑑定書の正しさを確かめるため、証人や鑑定人の尋問が延々と続いた。

  • 無罪と考えた裁判官
    1

    死刑判決を下した静岡地裁、東京高裁、最高裁で、携わった裁判官は11人。うち1人は退官後、「(判決の結論を出す)合議で無罪を主張した」と告白した。(詳しくはこちら)

  • 一審の
    弁護人
    3

    一審の静岡地裁での裁判では、袴田さんに地元の弁護士3人がついた。民事事件も扱い、刑事弁護の専門ではなかった。東京高裁での控訴審からは、刑事弁護専門の弁護士らも加わった。(詳しくはこちら)

  • 死刑確定まで
    14

    1968年、静岡地裁は死刑判決を言い渡した。東京高裁での控訴審も長年続いた。犯行着衣とされた「5点の衣類」のうち、ズボンの着用実験も行われ、袴田さんには小さすぎてはくことができなかったが、覆らなかった。1980年に最高裁も上告を棄却、死刑判決が確定した。

なぜ「死刑」の判断は
変わらなかったのか

一審・静岡地裁判決は、検察官作成の供述調書1通を証拠採用し、公判途中で発見された「5点の衣類」も犯行着衣と判断した。二審・東京高裁は、「5点の衣類」のうち、着用実験で袴田さんがはけなかったズボンは、「(発見されたタンクの中の)みそで縮み、(巌さんが)勾留中に太った」として死刑を維持。最高裁でも覆らず、1980年に確定した。

求め続けた再審無罪への道

  • 市民の支援活動
    44

    再審請求は、市民にも広く支えられた。最高裁で上告が棄却された日、本格的な支援団体が発足。地元でも複数の団体ができ、日本プロボクシング協会も支援してきた。

    静岡地検、静岡地裁への要請書を渡した袴田巌さんの姉秀子さん(前列左から3人目)と支援者のボクシング関係者ら
  • 確定死刑囚のまま釈放
    ヶ月

    静岡地裁は2014年、再審開始とともに異例の釈放を決めた。袴田さんは、47年7カ月ぶりに拘置所の外へ。78歳になっていた。だが、再審を始めるべきかはその後も東京高裁や最高裁などで9年間争われ、「死刑囚」のまま10年6カ月を過ごした。

    47年7カ月ぶりに釈放され、東京拘置所を出る袴田巌さん=2014年3月27日、東京都葛飾区
  • 再審無罪の死刑囚
    5

    再審で極刑が見直され、「無罪」になった人は過去に4人。免田、財田川、松山、島田の4事件で「四大死刑冤罪事件」とも呼ばれる。今回、袴田さんがこれに加わった形だ。

  • 逮捕から無罪判決
    58年1カ月9日 21225

    弁護側は、死刑判決が確定した翌年の1981年から再審を求め続けていた。2023年に再審が決まるまで、約42年かかった。再審公判時点で、袴田さんは長年の収容生活による拘禁反応で、意思の疎通が難しい状態となっていた。(詳しくはこちら)

「5点の衣類」が決め手に

無罪への道を開いたのは、あの「5点の衣類」だった。弁護側が支援者とともに、血染めの衣類で再現実験。みそ漬けにして血の色の変化を確認すると、1年以上漬かれば黒く変色し、証拠とされた衣類のような「赤み」はなくなることが判明した。東京高裁は最終的に、「捜査機関の捏造(ねつぞう)の可能性が極めて高い」と指摘。静岡地裁で再審が始まった。

「事件には真実関係ありません。私は白です」。袴田さんは、1966年8月の逮捕当時から、無実を訴えてきた。自らの命をつなぐかのように、母親に、姉に、家族に、手紙を書き続けた。

10年前に身柄の拘束は解かれ、浜松市内で姉と暮らす。「死刑囚」として半世紀にわたり収容され、精神状態を崩す拘禁反応を患っている。

証拠が捏造だとしたら誰がやったのか。警察はどこで捜査を間違え、検察や裁判所はどう正すべきだったのか。時効は成立。真犯人を捜す捜査は行われず、真相の解明は、極めて難しい。

再審開始の決定率

再審のハードルは高い。裁判所は2017~21年、再審請求事件で約1150人について判断を下したが、「再審開始決定」となったのはこのうち13人(1.1%)のみだった。

連載
なぜ死刑囚にされたのか
袴田さん事件58年
当時の報道をおわびします
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