引用元:amazon.co.jp
月曜日の日経朝刊に ↓ こんなコラムがあった
先日、鑑賞した「THEATERS」について書かれていたので思わず読み始めたけれど、そのストーリーに絡めて、最後は「宮本から君へ」を例に、キャストやスタッフの不祥事による作品への影響、いわゆる「作品に罪は無いのか」という、最近よく聞くフレーズが登場
役者の数だけでも大勢になる映画作品と、個人名で活動している歌手の作品とでは、印象も異なるし、その不祥事(或いは犯罪)の種類や程度による部分もあるだろう
実際のところ、鑑賞する側としても気にならないケースもあれば、「もう観たくない」と思う作品もある
今回の訴訟は、もちろん「宮本から君へ」に限った判決ではあるけれど、今後の影響を考えると、判決が気になる
と、いきなり脱線してしまったけれど、今回は1998年公開の邦画らしい作品
紘(ひろし 佐藤浩市)は良い大学を卒業し、証券会社に入る
世間知らずで裕福な家庭の娘、瑞穂(斉藤由貴)と結婚し、彼女の実家で母親(藤村志保)と、幼い息子と四人で幸せに暮らしていた
瑞穂の父親(本作の中では説明されない)と同様に、紘の父親も既に(彼が幼い頃に)亡くなっている、と今は近くに住んでいる母親(富司純子)から聞かされてきた
ところがある日、会社帰りの夜道でガラの悪い初老の男から、紘は「ヒロシじゃろ」と声を掛けられる
それは死んだはずの父親、笹一(山崎努)だった
「東京に出てきたばかりで泊まるところもない」という笹一を仕方なく泊めてやるも、朝から酒は呑むわタバコは吸うわ、幼い孫にはチンチロリンを教えたりするわ、ついには「もうしばらく面倒見てくれ」と言い出す始末
ここまで酷い父親もレアケースだろうけれど、人間生きていれば同じような「面倒」な局面には出くわしてしまう
確かに紘にとっても驚きでしかなく、彼に非があるわけではないけれど、問題解決を後回しにしてしまう
これを頼りない、優柔不断と思うのか、紘なりの優しさ、懐の広さと思うのかは、意見の分かれるところだろう
今の世の中、生理的にも、危機管理的にも「速やかに排除」の一択だろうけれど、こういう「居心地の悪い躊躇」という選択をせざるを得ないケースも存在すると思う
明日は、アメリカのロースクールって大変だな、と思う映画をご紹介