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「海外移住資料館」、昨日行ってきましたよ。
みなとみらい駅構内にも案内矢印とかあるのですが、いままでまったく気がつかなかったなあ。ちょっと地味だしね!
今回、鶴見線で食べ歩き、みたいなことしなければ見過ごしていた話題だなあ。
横浜みなとみらい地区の、カップヌードルミュージアムの近く、あのサークルウォーク交差点の角にあります。
建物としてはJICA横浜の中です。
見上げると、こんな感じ。
かなり立派です。
まずは3階の港の見えるカフェでお昼の定食をたべましょう。
これで1000円くらい。
まあまあかな。
意外と、お客さんがいます。
2階部分が常設・特別展示場と、資料閲覧室になってます。
最近リニューアルされたそうで、綺麗です。
団体の見学者とか訪れていて、学芸員の人が英語で案内してました。
「当館では、ハワイを含む北米や中南米への日本人の移住の約150年の歴史とともに、現在380万人以上(2021年)といわれる日系人の社会やそのコミュニティの多様化や移住先での活躍、そして日本とのつながりについて紹介しています。
当資料館では常設展示の他、特定のテーマに焦点を当てた企画展示を実施するとともに、移住や日系社会に関係した講演会やイベントを開催しています。」
国立民族学博物館創設にも尽力し、この資料館の特別監修者でもあった梅棹忠夫さんは、僕が昔学生のころ大きな影響を受けた「知的生産の技術」(岩波新書)・「文明の生態史観」(中公文庫)で有名な文化人類学者でした。
この2冊は名著と言ってよいのですが、いま読書室を探してみたけど見当たらないなあ。どこに行ったのかな。
「技術」ではとくに京大式B6判カードを用いた情報整理術を学びました。まだコンピュータを身近に使えない時代の、アナログながら時代を先取りした優れたスキルで、今に到るまで、僕の論理的思考のノウハウの根底に生きています。
古典であり、最先端。
現在においても、ものを考えたり書いたりしようと思う人は、必ず読むべき1冊です。
『知的生産の技術』の目次は以下の通り。
発見の手帳
ノートからカードへ
カードとそのつかいかた
きりぬきと規格化
整理と事務
読書
ペンからタイプライターへ
手紙
日記と記録
原稿
文章
その梅棹さんが、この資料館の創設に寄与したのですね。
展示内容は、とても興味深いものでした。
概要は、ここから。
このサイト、ちょっと、アクセスっていうコンテンツが分かりにくいです。
そもそも表紙にない。
まあ、JICA横浜に行きさえすればよいのですが。
移民に出た人の出身地は、広島・沖縄・熊本・山口・福岡が断トツで多いのですが、これは最初は政府が国の政策として奨励して募集したので、意欲があって我慢強い県民性を重視して選ばれたんだそうです。これは「官約移民」と呼ぶそうです。
有力者が自分の部下の若い者を修行と西洋文化摂取のために送り込む「書生移民」という形態もあったそうで、初めて知りました。昼間は金持ちの家で働き、夜は学校へ通う極貧生活で大変そう。
これはブラジルのアリアンサ入植地の例ですが、着いてみたら完全なジャングルで、平地などないところから、木を1本1本倒して焼き畑し、耕地を切り開かなければならなかったそうです。
これは大変だ。
「往け、南米の新天地へ!」
日本の道具を工夫して再現したり。
大東亜戦争で断絶したり、戦後再び移民が復興したり。
いろいろあって、最後の移民船となったのがこれ。
1973(昭和48)年2月14日、横浜大桟橋から出航する「にっぽん丸」。
1908(明治41)年4月、第一回ブラジル日本人移民を乗せた「笠戸丸(かさどまる)」以来、ブラジルをはじめとする南米移民を運んだ移民船は、戦前延べ316隻、戦後延べ324隻(『パウリスタ新聞』調べ)を数えますが、日本の近代化とともに歩んだ移民船の歴史も、この「にっぽん丸」で最後となりました。以降の移住は、航空機による渡航時代へと変わってゆきます。
一生懸命働いて、やっと豊かな生活を手に入れることができたり。
日本と南米の生活文化の融合が、食卓の上にも。
ミックスプレートといって、和洋折衷のスタイル。
シュラスコ、美味しそうですね!
資料保存の観点から、レプリカが展示されたりするのですが、それを作成する会社のデータを見つけましたので、ご紹介。
海外移住資料館のレプリカ製作 JICA横浜 海外移住資料館 - 株式会社 トリアド工房 - 文化財のレプリカ製作、保存・修復、模型製作
さて。鶴見にある、沖縄村とブラジル村。
日本の近代史の夜明けに、鶴見の埋め立て地で工業地帯が生まれ、そこに沖縄からたくさんの労働者が集まり、また沖縄からは遠くブラジルまで移住する人がいた。
そして、戦後、今度はブラジルから2世・3世の人が日本に仕事を求めて、あるいは里帰りして逆移民。このとき鶴見の故郷に戻ったり、縁故を頼って移り住んだ人たちが、鶴見ブラジル村を形成する。
こういう歴史の大きな流れが、ここ横浜にはあるということを学ぶことができました。
今回の鶴見巡行について、資料館を見ながら、ちょっと補足をしました。