そもそもエルフとは何者か? 誰も知らないからこそ議論が絶えないという…
Iorveth - Gwent Card by Anna Podedworna ... - we are Rogue
「指輪物語」の作者トールキンは10世紀前後にブリテン島界隈で執筆された叙事詩研究者という立場上「イングランドにヴァイキングが大量襲来する様になって以降の時代にも、かといって(中世封建制度の投影を色濃く受け過ぎた)アーサー王伝説の世界も興味が持てない」というスタンス。同時に今日的なニュアンスにおけるエルフ概念の提唱者でもある訳ですが、両者の関係が良く判らない事、トールキン作品を「聖典」として受容した60年代米国ヒッピー文化がそのイメージを独自発展させてきた事から、かなり複雑な進化を遂げてきました。
ここで興味深いのは国際SNS上の関心空間(特にPinterest界隈)に存在する巨大ジャンルの一つ「菜食主義(Vegan)」のメンバーの中に「獣肉主義(Gibier)」や「狩猟(Hunting)」といったジャンルにも片足突っ込んでいるアカウントも存在する事。
southern4perspective — Grateful, richer, and happier. 1.22.2017 As we...
“シンゴジ=TOKIOが海に返したラブカ説”
— むぎ (@mugibataK) 2017年5月14日
を見て、蒲田くんはTOKIOを探して都内をウロウロしていたのだと思ったら、被害がものすごいけどなんだか可愛い……?#鉄腕DASH pic.twitter.com/GKEl6lFnKd
割と真剣に、TOKIOには獣や鳥を捕って捌いて食べるまでをやってもらいたいです。この番組でやれば、「生き物を殺すなんて残酷なだけ」っていう狩猟への偏見がなくなると思うの。聞いてますか日テレさん。#鉄腕Dash
— 時雨沢@キノが漫画やアニメになるってさ! (@sigsawa) 2017年5月14日
ちなみに、『狩猟行為は残酷ではない』と言うつもりはなく、”殺す”という行為がある以上、それは残酷な行動です。ただ、その先に食べる(生きる・骨身になる)という行為が繋がる以上『残酷なだけではない』のでその辺をみんなに教えてほしいと願う次第です。〆は親父ギャグで良いから!
— 時雨沢@キノが漫画やアニメになるってさ! (@sigsawa) 2017年5月14日
概ね「ひたすら美味しそうな料理写真をUPする競争」をしてるだけなので背景は推測するしかないのですが、なんとなく「エルフが狩猟民族か菜食主義者か決めかねてる景色」と重なる部分がありそうです。そもそも「自然(Nature)のあるべき姿」がどうイメージされているかが背景にあるという意味合いにおいて。
こうした状況下で頭一つ抜けた状態で台頭してくるのが、いわゆる日本の「北海道系コンテンツ」って奴です。
「鋼の錬金術師(2001年〜2010年)」で有名な荒川弘の手になる「銀の匙 Silver Spoon (原作2011年〜、アニメ化2013年/2014年) 」
荒川弘 - Wikipedia
「狩猟民族」アイヌに取材した野田サトル「ゴールデンカムイ(2014年)」
舞台こそ北海道ではありませんが、作者自身の岩手県衣川村(現:奥州市)における実体験に取材した五十嵐大介「リトル・フォレスト(little forest、2002年〜2005年7)」、岡本県津山市在住の「猟師漫画家」岡本健太郎「山賊ダイアリー リアル猟師奮闘記(2011年〜)」なども同グループに分類される作品です。「他人に殺させておいて殺し方に文句をつけるような、そんな人生を送るのはやだなあって思ったんだよね」なんてセリフが心に刺さります。
白鳥士郎「のうりん(原作2011年〜、アニメ化2014年)」を擁する岐阜県もなかなか侮れません。宮原るり「恋愛ラボ(Love LAB,, 2009年〜、アニメ化2013年)」に登場する「お嬢様(ランジェリー)」真木夏緒は魚を平然と捌ける設定ですし、「氷菓シリーズ(2001年〜、アニメ化2012年)」のヒロイン「お嬢様(豪農)」千反田江留も「鶏など平然と〆られるタイプ」に分類されています。大今良時「聲の形(A Silent Voice、2011年〜2014年、アニメ化2016年)」のメインヒロイン西宮硝子も「料理好きで料理上手」という設定で、妹の結絃は「死体写真家」…
*「のうりん」アニメ化に際して「岐阜県なら狼少女が発見されてもおかしくない」ネタが完全削除されたが、実はそれが中国においては(お試し無料公開されてる章なので)この作品の最も有名なエピソードという辺りが皮肉。ちなみにウラジミール・プロップによれば「狩猟」と「(タナトスと表裏一体の関係にある)エロティズム」が結びつけて考えられる伝統の起源は「狩猟の道具が十分に発達していなかった時代、捕食動物や腕の良い猟師は自らの魅力(Charm)で獲物を呼び寄せると考えられていた」時代まで遡るらしく、アイヌの伝統もこの発想に立脚している部分が大きい。「ゴールデンカムイ」に登場するサイコパスな人々や「のうりん」に登場する狼少女のエロさもこれで説明出来る。
*「のうりん」アニメ化に際しては「人道的配慮から」日系ブラジル人ネタも完全削除された。「人道的配慮から黒人を物語に一切登場させてはならない」とした1950年代米国のリベラリズムは、むしろ日本にこそ現存しているとも。
*岐阜県には「(あえて諸藩に分割された)美濃」と「(幕府直轄地とされた)飛騨」の激しい地域対立もあるが、そうしたネタも完全削除。当然、廃藩置県が内戦に発展しかけたエピソードも完全削除。
ここで浮かび上がってくる「主観と客観の境界が消失する三昧の境地」とか「エロスとタナトスの表裏一体性」といったキーワード…そして、そうした要素は一般人が受容可能なキャパを遥かに超えている為、トリミングの技量が鍵を握る事に。
*五十嵐大介「リトル・フォレスト」「海獣の子供(2006年〜2011年)」でも「君の名は」でも「ヒロインの母」が「捕食動物」属性を随分と肩代わりしてる感がある。さて「君の名は」の三葉や四葉は、成長に伴ってどれだけその要素を継承したのだろうか?
*「氷菓シリーズ」のヒロイン千反田江留が(豪農千反田家の名代の立場もあって)成人式まで振袖を禁じられ「留袖エロティズム」で主人公奉太郎を陥落させる辺り、かなりの上級編。どうして「身八つ口」から手を突っ込む二次創作エロが登場しないのか不思議なくらい。
大人なら当然知っておきたい男と女の着物の違い~「おはしょり」と「身八つ口」
*さらにそこから「飛騨女物」の暗黒面に踏み込んだ「ふたりの距離の概算(2010年)」に「帝国の逆襲」の如き「いまさら翼といわれても(2017年)」の急展開…支倉凍砂「新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙II(2017年)」といい「ライトノベル」の「ライト」とは何だか分からなくなる展開…
ちなみに国際SNS上の関心空間では容赦無く幸村誠「ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA、2005年〜)」 が同一ジャンルに加えられてきます。
- そもそも「ヴィンランド」とは(まさに国際SNSの中心地たる)現在のアメリカ大陸の事だし、そのアメリカには「(クロムウェルのアイルランド侵略(The Cromwellian conquest of Ireland、 1649年〜1653年)に際して戦費回収の為に容赦無く大量に奴隷として売り払われた)アイルランド移民への配慮」から「白人奴隷の映像化」がタブー視されてきた過去がある。
クロムウェルのアイルランド侵略 - Wikipedia - 「ヴィンランド・サガ」はそのタブーを破ったばかりか、史実を忠実になぞる形で「逆にアイルランド人(というか現地に土着化し、ノルマン人の交易網に参加したノース人)がイングランド人を奴隷として売り払う」真逆の場面を描き出したのだった。そりゃ関心を集める訳である。
*国際SNS上の関心空間においては、何よりもこの「これまでにない試み」という要素が人気を集める鍵となる。例えば暁なつめ「この素晴らしい世界に祝福を(2013年〜、アニメ化2016年、2017年)」では「高飛車な女神が堕天を強要されて現世で飲み過ぎてゲロを吐く」といった涜神的展開が、クール信者「小林さんちのメイドラゴン(2011年〜、アニメ化2017年)」では「デスマーチ明けの主人公が酒を飲んだら桃源郷状態に突入し、「もうどこに向かってんのかわかんない!!」とはしゃぎながら電車を乗り越して気がつくと「うちくる?」と誘ってドラゴンを同居者にしていた」なる超展開がフックとなった(どちらも酒がらみで「日本酒の一升瓶」が絵的に関わってくるのが興味深い)。
*ただし総合評価では双方とも雲田はるこ「昭和落語心中(2010年〜2016年、アニメ化2016年、2017年)」に敗北を喫する事になる。サゲに「おまえさんも見える様になっちまったのかぇ。あわれだねぇ」は完全に読者を殺しに来てたし当然の帰結?
*この観点からすれば、どうしてこの層が(遂に「暴君さえ倒せば世界は良くなる」なる価値観から脱却出来なかった)スーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、2008年〜2010年、映画化2012年〜2015年)」や諫山創「進撃の巨人(Attack on Titan、2009年〜、アニメ化2013年〜)に見切りをつけ、(人間が生きる意味をさらに内在化させた)石田スイ「東京喰種(Tokyo Ghoul、2011年〜、アニメ化2014年〜)」やスターウォーズ新作に乗り換えていったかも明らかだったりする。そして神山健治監督作品も「東のエデン(Eden of The East、2009年)」は選ばれたのに「ひるね姫(2017年)」は選ばれなかったのである。まさにこの変化こそが「2000年代から2010年代への推移」だったという次第。
*国際SNS上の関心空間における人気投稿を眺めていると「東のエデン」が全く別の作品に見えてくる不思議。何この身も蓋もないエロさ…
この投稿をまとめながら「アメリカの若者が求めてきたもの自体は「タイムズ・スクウェア(Times Square、1980年)」「フラッシュ・ダンス(Flashdance、1983年)」「ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire、1984年)」の時代から何も変わってないのかもしれない」という観点に気付いた。要するに(家父長的要素が除去された)西部劇フォーマットで米国連続TVドラマ「Super Natural」の先祖筋。当時の米国産若者向けロック映画にも「主観と客観の境界が消失する三昧の境地」とか「エロスとタナトスの表裏一体性」といった要素は確実に見受けられるのである。そして「自らと男性に生き方の多様性を突きつけてくる」第三世代フェミニズムの時代が幕を開ける。それはハードボイルド女性探偵物が大流行した時代でもあった。
*当時は私も「Times Square(1980年)」オープニング曲とYMOのアルバム「BGM(1981年)」収録曲「Ballet」のフレーズ上の相似性とか「(人間から個性を奪う)TVやラジカセを自ら壊せ」といったメッセージ性に全く無頓着だった。どうしてYMOはアルバム「BGM」について「真正面から聴き込むと危険過ぎるから、BGMとして聞き流せ」とコメントしたのか。なぜあの時代、1970年代を「カルトのプリンセンス」としてひた走ってきたデヴィッド・ボウイはあえて「メジャーの顔」となる道を選んだのか。ある意味それは坂口安吾「堕落論(1947年)」の商業至上主義時代(1960年代〜1990年代)なりのリバイバルだったのかもしれない。
坂口安吾 堕落論
*そしてYes「Owner Of A Lonely Heart(1983年)」やFrankie Goes To Hollywood「Relax(1984年)」といった時代の徒花が咲き乱れる展開に。
*「どうしてデヴィッド・ボウイはあえてメジャーの顔となる道を選んだのか?」…当時彼をプロデュースした「メジャー音楽の帝王」ナイル・ロジャースをして「最初は本当に冗談の類かと疑ってたんだ。だが実際に話してみて彼が本気でそれを望んでいる事が分かった。「今まさに世界がその在り方そのものを変えようとしている」。そういう戦慄が背筋を駆け抜けた」といわしめた奇跡。
ナイル・ロジャースの発言
「アメリカで生きる黒人として俺は1日足りとも黒人であることを自覚させられない日はないんだ。黒人であることは俺個人とはまったく関係のないことなんだけどね。でも、人によっては、俺が存在しているだけで不愉快になるみたいなんだね。だから、そういうことが解消されたことは一度もないんだよ。だけど、ボウイと一緒の時は、まったくそれを感じないで済んだんだ。『レッツ・ダンス』は俺やデヴィッドが一度も会ったことのない連中と一緒に作ったわけだけど、俺にすべてを任せるだけの信用を置いてくれたんだよ。『ナイル、ぼくのヴィジョンを現実の形にしてみて。きみに全部任せるよ』っていうもんだったんだ。
アルバムは17日間でレコーディングからミックスまで仕上げたんだ。だから、"レッツ・ダンス"には4つのヴァージョン違いとかはないし、"モダン・ラヴ"にヴァージョン違いが5テイクあることもないんだよ。今ある音があっただけなんだ。それぽっきりだから。それでおしまい。作業中はかなり長い間、デヴィッドは(プレッシャーをかけないように)ラウンジでテレビを観てて、たまにコントロール・ルームにやってくると仕上がりをチェックして『すげえ!』っていって、また場を外すんだよ。その間、俺は心の中で『これは俺が生まれてこの方受けてきた中でも最高の敬意だよ』って噛みしめてたんだ。
あのアルバムは俺たちがブラック・ミュージックを作っていくのと同じやり方でやったんだ。1曲仕上げて次に行くっていうね。それは(デヴィッドにとっては)いってみれば、他者のアーティスティックな視点からカルチャーを見ることだったわけで、また、そのカルチャーではみんながどうやって生きてるのかを特に細かく考えるわけでもなく見ていくことだったんだよ。というのは、当時の黒人アーティストの制作予算はロックンロール・アーティストの予算の規模とはまるで違ってたからなんだ。でも俺はボウイのアルバムを、シックのアルバムを作るのとまったく同じように作った。あの時のセッションがどういう感じだったのかをみんなに説明すると、みんなどれだけ贅沢を尽くしたのかという話を期待するんだけど、『いや、まったくその逆だったんだよね』っていう話になるんだ。つまり、デヴィッドが俺たちにどれだけの信頼を置いてくれていたのかという、そういう話だったんだよ」
*そういえば「崖の上のポニョ(2004年)」で見覚えが…
*思わぬコラボレーション。こうした流れ抜きに「ジュネの時代」は語り得ない。
*そして当時の「耽美派」ニューロマPVには確かに「エロティズムとタナトスの共存」が認められるのである。
*同時進行でマイケル・ジャクソンの台頭もあった。果たしてそれはさらなる進歩だったのか、それとも死への予感が高まり過ぎて思わずブレーキを踏んでしまったが故の退歩だったのか…
*いずれにせよPrinceや岡村靖幸がまた明らかにこうした時代の寵児だった事実も動かない。
*要するに1980年代とは「角川商法」や「(宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ(1984年)」の大ヒットに力を得た)エコ左翼」が日本のメインストリームを席巻する一方、それに対峙する形でこうした「(エロティズムとタナトスが表裏一体で存在する)捕食生物と獲物の主客混合」が暗躍した時代でもあったという次第。
*当時は日米貿易摩擦の最中でもあり、米国に和製コンテンツへの傾倒など表面上は全く見受けられなかったが、実は後世から振り返ると(カナダのブローカーを中心とする)和製コンテンツの翻訳出版の基礎固めが行われていた時代でもあったのである。
第二次世界大戦敗戦後、日本の経済成長と技術革新に裏打ちされた国際競争力の強化によって、アメリカに大量の日本製品が流入した。1960年代後半の繊維製品、1970年代後半の鉄鋼製品、1980年代のカラーテレビやVTRをはじめとする電化製品・自動車(ハイテク製品)などの輸出では、激しい貿易摩擦を引き起こした。
1965年以後日米間の貿易収支が逆転してアメリカの対日貿易が恒常的に赤字(日本から見ると黒字)になると、問題が一気に噴出したが、1972年に日米繊維協定(繊維製品)が締結され、続いて1977年に鉄鋼・カラーテレビにおいて日本による実質上の対米輸出自主規制が実施されたことによって一旦は収束した。
- 1980年代に入ると今度は自動車・農産物(米・牛肉・オレンジ)が舞台となり、更に1985年にアメリカの対日赤字が500億ドルに達したことをきっかけに、日本の投資・金融・サービス市場の閉鎖性によってアメリカ企業が参入しにくいことが批判され、事実上日米間経済のほとんどの分野で摩擦が生じるようになった。さらに連動して、次に述べる「ハイテク摩擦」も目立つようになった。
- *日米ハイテク摩擦とは、以前からの経済的な摩擦(貿易摩擦)の背景の上に、半導体部品やその製品であるコンピュータ、航空宇宙などといったハイテク分野において日米間での衝突的な事象が多発したことを指す。具体的には、いくつかの分野では米国がスーパー301条の適用をちらつかせ、あるいは実際に適用し、日本製品が米国から締め出された。
- スーパーコンピュータについては日米スパコン貿易摩擦と呼ばれる。他にコンピュータ分野ではIBM産業スパイ事件など、両者の感情を逆撫でする事件が起きた。航空宇宙分野では、日米衛星調達合意による日本独自の人工衛星開発の抑制、F-2支援戦闘機の「共同開発」の押し付けなどがあり、他にもミノルタハネウェル訴訟などの知財紛争、などがあった。
- 1985年、プラザ合意後も日本の貿易黒字・経常黒字は減るどころか1986-1988年にかけて1985年に比べ増えていった。
- 1986年4月の「前川レポート」ではアメリカの要求にこたえて10年で430兆円の公共投資を中心とした財政支出(財政赤字)の拡大、民間投資を拡大させるための規制緩和の推進などを約束・実施した。
1989年以後日米構造協議が実施され、続いて1994年以後年次改革要望書が出されるようになったが、その一方で1990年代に入ると中国の急激な経済成長に伴う貿易摩擦と軍事的・政治的台頭がアメリカ側の注目の対象となり、ジャパンパッシングと呼ばれる現象も発生するようになった。
*それにしても当時の「捕食動物系カリスマ」は薬物使用による脱落率が異常なまでに大きい…「角川商法」の創始者角川春樹も同様で、日本においては事実上彼の逮捕から新しい時代が始まったと見る向きも。
こうしてみると日本人はもっと「海外の人間が何をどういう基準で日本の作品を選んでるか」について敏感になるべきかも?