先日、友人と高尾山に行ってきた。
私は基本的に、温かい時期にしか登山には行かないし、登山に行く時は一人なので、今回は初めての冬の登山、誰かと一緒の登山ということになる。
高尾山は初心者でも気軽に登りやすい山で、友人と談笑しながら登るにはちょうど良い。
天気もよく、山頂からは富士山を眺めることができた。
下山後は温泉に入り、それから八王子に移動して餃子の王将でビールを飲み、ラーメン、餃子、鶏の唐揚げを食べた。
うまさが全身に染み渡り、突き抜けるようなうまさだった。
山に登り、身体は疲れ果て、ある種の飢餓状態にある中で摂取する酒とジャンクフード。
おそらくこの世には絶対的にうまいものというのはなくて、料理のうまさというのは、食べるに至るまでの文脈がほとんどなのだろう。
平凡な料理であっても、登山の後、運動の後、ひと仕事終えた後、何か嬉しいことが起こった後、そのような流れの中で食べれば、とんでもなくうまい。
逆に、たとえどんなにうまいともてはやされているものであっても、気だるい状態、不健康な状態、悲痛な状態、このような流れの中で食べてもうまさを感じることはできない。
その料理がうまいのかどうかは、その料理があえてまずく作られていない限り、文脈によって決まる。
だからどんなに平凡な料理であっても、軽く運動をして腹を減らした上で食べればものすごくおいしく食べることができる。
料理に不平不満ばかり述べ、お金をかけさえすれば料理はうまくなると思っている人は、一度、その料理に至るまでの文脈を見直してみるといいのかもしれない。
どうして自分は平凡な料理を美味しく食べることができないのか。
どうして自分は特別で、希少な料理しか美味しいと思うことができないのか。
それは舌が肥えているから、と考えて優越感に浸ることもできるかもしれないが、料理を食べるまでの流れが整っていない、という考えもできるかもしれない。
基本的に、頭と身体を大事にするための範囲で適度に動かし、どのようなことであっても自分や他人を攻撃するようなことがなければ(言葉や態度に出す出さないは関係ない)、平凡な料理でも楽勝でうまい。
そのような意味では友人と登山に行くと、頭も身体も適度に使うことによってリフレッシュされ、コミュニケーションを通じてお互いに肯定し合うことができるので、文脈としては最高の仕上がりになり、餃子の王将の料理のうまさが格段に増したのかもしれない。
とは言っても、摂取したものは酒、つまりは毒物であり、ラーメン・餃子・鶏の唐揚げ、つまりは毒物である。(餃子の王将のあとは、居酒屋に行き、そこでも酒を飲み、ジャンクフードを食べた)
だから今朝は頭が若干ボーッとするし、身体も少しだるい。
これが非日常の反動だ。
今日はいつもの日常に立ち返り、整え直す必要がある。
声出して切り替えていこうと思う。