おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

今年の自分の運命予想

知恵さかしらは欲望と深く結びついている。欲をとげるためのさかしらは、そのまま大きな虚偽の始まりである。

金谷治老子

 

うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。

 

邪悪な人たちがひどく苦しんでいるように「見受けられない」のは事実である。自分自身の弱さや欠陥を認めることのできない彼らは、外見を装わなければならないからである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

ここでいう欲望というのは仏教で言うところの貪欲だ。

 

貪欲というのは煩悩の一種で、欲ではない。

(『老子』の中の「欲」も欲望や貪欲を指し、欲ではない)

 

貪欲というのは、自分が自分だと思い込んでいる「きれいな自分像」「価値のある自分像」と結びついている。

 

私たちはそもそも人から大事にしてもらいたいと思っているのだけれど、今のこのままの自分では人から受け入れてもらえないとも思っている、大事にしてもらえないとも思っている。

 

よって、今の自分ではダメだぽよ、「価値のある人間」にならなければ人から大事にしてもらえないぽよ、と思考を巡らし(このように思ってしまうのは自分自身が価値のない人を粗末に扱い、大事にしようと思わないからだ)、「価値のある人間」になることによって人から大事にしてもらおうとする。

 

本当に価値のある人間とは何なのかということは考えない。

 

価値のある人間に「なる」ことが重要でもない。

 

とにかく人から価値のある人間としてみなしてもらえればいい、見てもらえればいい。

内実は問わず、とにかく価値のある人間としての外見を整えられればいい。

 

そのために、手っ取り早く価値のある人間としての外見を整えてくれそうなものをかき集めようとする。価値のある人間としての自分像を作り上げてくれそうなものをかき集めようとする。これが仏教でいうところ貪欲であり、老子のいう欲望に当たる。

 

腹が減ったから食べものを欲し、パスタを食べる。これは欲にあたり、その欲に良いも悪いもない。

腹が減ったら、ゴータマ・シッダールタ先輩も老子先輩も、これうめーわ、とマ・マーのパスタをかっくらっていたはずだ。

 

しかし、自分を価値のある人間として証明しアッピールするための記号としてのパスタ、ファッションアイテムとしてのパスタ、アクセサリーとしてとパスタ、レッテルとしてのパスタ、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のパスタは食べなかったはずだ。

 

かのパイセン方二人には食欲はあったが、欲望ないし貪欲はなかった。

 

その目的は腹を健康的に満たすためなのか、それとも価値のある自分像を証明しアッピールするためなのか。後者の動機と結びついているものが欲望であり貪欲であり、それらが虚偽の始まりとなる。それらは他人を騙し、自己欺瞞の層を積み重ねていくことと同じことになってしまう。実際の自分を無視し、自分を粗末に扱い、苦しみを生み出すことになってしまう。

 

日常のありとあらゆる営みの根本的な動機が価値のある自分像の証明であるということは、自分の注意は、自分が人から価値のある人間として見てもらえているかどうかに注がれているということであり、自分の内面に注意が向けられることはないということになる。

 

ということは、自分の内面で何が起こっているのかということは問題にならない。そのまま放って置かれ、表層的な外面だけが異様に整っていく。

 

ちゅうことは、内面は荒れ放題であり、その荒れ具合をまるで覆い隠すかのように外面が整い、その結果、内面と外面の間に大きなギャップが生まれることになる。

 

人は他人の心の内側を読み取ることができないが故に外面で人のことを判断してしまうのだけれど、それはそれである程度は仕方がないとして、だとしても、外面の整い具合と内面の整い具合のギャップがとてつもない、という意味でそれは虚偽にあたる。

 

この内面と外面のギャップ、虚偽の始まりは、価値のないもの(弱いもの醜いもの)への不寛容、悪への不寛容から生じている。

 

私たちは価値のないものは否定されるべき、悪は否定されるべきという懲罰思想をそもそも持ってしまっている。

そして、その懲罰思想が自分の内面に向かった時、不完全で悪だらけの自分に向いた時、それは刃となり、自己否定となり、価値のないの部分がある自分はダメ、大事にされない、悪の部分がある自分はダメ、大事にされないと思ってしまう。

よって自分の不完全性や悪を見て受け入れようとするのではなく、自分はそんな人間ではないんだということを証明するために完全で善良できれいな自分像を作り出し、自分のことをそのイッメージどおりに規定しようとし、そのイッメージを作り上げるのに役立ちそうな記号を際限なくかき集め続け、そのイッメージどおりに人から見られようとする。

 

自分がそもそもどのような思考パッターンの中にいるのか、どのような思想や発想を前提として、どのような感情や思いを起こしているのか、そういった自分の内面に眼を向けることなく、実際の自分を見て、受け入れようとしていくのではなく、実際の自分を否定することによって生じた実際の自分とはかけ離れた自分像、他人からこのような人間として見てもらいたいものとして自分の都合で生み出した自分像、他人から見た自分像、外面、そういった現実離れしたとりとめのないものを証明するために、人生の膨大な時間と労力を使い、賢しらな知恵を使って金や名声や地位や権力や名声や知識などの世間的価値という記号をかき集め続ける、実際の自分を否定し、無視し、自分や人に嘘をつき続ける、完全で善良できれいな自分像を作り出し証明するために他人を見下し、責め立て、馬鹿にし続ける。

 

西暦が変わっても、神社仏閣でどれだけラッキーアイテムを買い集めても、自分の根本的な思考パッターンや思想が変わらなければ、延々と苦しみを生み出し続け、延々と不毛な努力に身をやつし続けることになる。

 

なるほど。

 

ということは、このままでは私は2025年も持ち前の懲罰思想、先祖代々から我が家に伝わる懲罰思想、子供の頃に近所のおじちゃんやおばちゃんから教えてもらった懲罰思想、家族友人知人たちとの絆とも言える懲罰思想、メディアで当然のごとく共有されている懲罰思想、そういったかけがえのない懲罰思想をもってして自分と他人を苦しめ続け、自分の内面をガン無視し、価値のある自分像という外面を取り繕うための記号をひたすらかき集め続けることになるということか。

 

まいっちゃうなー。まじでやばいじゃん。ぴえんじゃん。

 

でもまぁ、言うて今は年始。宴の期間や。

酒、テレビ、ネット、買い物で今後の苦しみと徒労の無限ループという現実を一旦かき消すとしよう。

 

声出して切り替えていこうと思う。

 

  翻译: