ターチンによるローマ帝国衰亡論.ターチンはローマ帝国の最初の分解フェーズの始まりをメタエスニックフロンティアがイタリアから離れ,人口増と均分相続で中流ローマ市民が没落し始め,また奴隷が大量供給されたBC200年ごろに置く.ここからより細かいケーススタディとなる.
第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その5
- 後期共和制の危機の最初の兆候は奴隷反乱だ.それはBC138からローマの至る所,ローマや近隣都市を含むイタリアで,デロス島の奴隷市場で,ラウレイオンの銀鉱山で起こった.最大のものはシシリア島の7万人の奴隷反乱(BC135〜132)だ.これは第1次奴隷戦争と呼ばれ,第二次奴隷戦争(BC104~101)そしてスパルタカスに率いられた第三次奴隷戦争(BC73〜71)が続いた.
- エリートが団結している農業社会で,農民反乱はまず成功しない.そしてそれはこれは後期共和政のローマの奴隷反乱にも当てはまった.真の脅威はエリートが割れ,その一派が大衆の支持を得て権力を握ろうとした時に起こる.
奴隷反乱は最終的にみな失敗し,また奴隷は市民層や正規軍からみて完全なアウトグループなので,それがローマ市民間の内戦につながることもない.ターチンとしてはアサビーヤが侵食されている状況が深く進行しているのがそれに続く内戦期に効いてきたということだろうが,ここはややターチンの奴隷が社会のアサビーヤを侵食するという議論から見ると苦しい部分だろう.結局ターチンの主張の裏付けは近代アメリカ南部の奴隷制が奴隷制廃止後の社会の社会資本に悪い影響を与えているというリサーチからきている.しかし古代ローマは結局制度的な奴隷制廃止を行っておらず,一部の奴隷は個々の奴隷解放などにより緩やかに市民に溶け込んでいった.このような場合にローマのアサビーヤにどのような影響があったのかはわからないというのが本当のところではないか.すくなくとも直接の比較は難しいだろう.
ここからターチンはグラックス兄弟の改革とその挫折を描く.
- ティベリウス・グラックスは富裕のノビレス家系に生まれた若く野心のある政治家だった.彼の父は政治的成功を収め執政官や監察官を歴任した.しかしティベリウスの世代のノビレスたちはより厳しい競争に晒された.そして大衆に迎合しようとするのは自然なやり方だった.ただし,ティベリウスの動機が完全に利己的だったわけではないだろう.一部の階層に富が集中し,ほとんどの市民が資産を失っている状況は確かに不公正だった.
ティベリウスの過激な改革案の動機の1つの背景に,ノビレス層の競争激化を持ち出しているのがターチンらしく,目新しい.
- BC133,ティベリウスは護民官に選出され,公有地を無産市民に分け与える法律案を提出した.これによりローマの貴族層は二つの派閥に分割された.ティベリウスに率いられた民衆派(ポプラレス)と門閥派(オプティマテス)だ.これは3世紀前のパトリキとプレブスの争いにいろいろな意味で似ていた.
- 法案をめぐる激しい闘争の末に,ティベリウスはその支持者300人とともに門閥派に暗殺された.しかしながらグラックス法を実施する委員会は継続し,その後6年間で7万5千人の市民に土地を分与した.
ターチンはこの辺りの経緯をあっさり書いているが,当時のローマでは護民官が提案した法律は(元老院とは別の会議体である)民会を通れば法律として成立する.ただし同僚護民官には拒否権があり,この同僚護民官を取り込もうとする門閥派と民衆派が激しく争い,最終的に取り込まれた護民官が民会で解任されて法律自体は一旦成立する.そしてその後その解任手続の瑕疵を巡り争いになり,最終的には翌年ティベリウスが連続して護民官に立候補した時点で殺されるという経緯になっている.だから法律は確かに成立し,ティベリウスの死後も実施されていったということになる.この実施に対して門閥派が妨害しなかったのは,争いの焦点はティベリウスが独裁的になることを巡ってものであり,殺害されたあとの民衆派をなだめるために実施を容認したのではないかなどと解されているようだ.
- 民衆派の次のリーダーはティベリウスの弟であるガイウス・グラックスだった.彼はBC123,122と連続で護民官に選出された.ガイウスは兄の法律の実施を継続し,さらにローマ市民に食料を非常に安価で給付する法律を通した.ガイウスも兄と同じく門閥派に殺され,彼の支持者3000人も殺された.
ガイウスはBC121の護民官選挙で敗れ,改革が門閥派によって次々にひっくり返される.そしてそれに怒った民衆派が騒動を起こし,門閥派が排除しようとして武装闘争になったという経緯のようだ.
- この嵐のような20年を経て,新しい世代のリーダーが現れ,30年近く脆弱ではあったが平和を実現した.民衆派のリーダー,ルキウス・サトゥルニヌスはBC100年にさらに過激な法を門閥派に飲ませようとしたが.しかし門閥派は彼を殺し,民衆派を弾圧し,もう10年ほど両派の均衡が保たれた.しかしながら圧力は増していた.最大の政治的な焦点は貧困化した市民の土地分配の要求とイタリアの同盟市のローマ市民権の要求だった.門閥派はこの二つの要求を拒否し続けた.
ターチンはグラックス兄弟の改革時期を闘争期,その後の20年を平和期と規定している.しかし,確かに兄弟の改革期にはガイウスの殺害時には武装闘争はあったものの,完全な内戦や反乱とは言い難く,この2つの時期の差はそれほど大きくないのではないかという気もする.
- BC91年に同盟市は反乱を起こした(イタリア同盟市戦争).そこからの20年は内戦がほぼ途絶えることなく継続することになった.同盟市戦争はローマが市民権を与えることに同意してBC87年に終わった.しかし直後にスラとマリウスがそれぞれ率いる門閥派と民衆派の内戦となった.まずマリウスが,続いてスラが相手を何千人も皆殺しにした.マリウス派のセルトリウスはスペインで反乱を起こした(BC80〜72).スパルタカスの奴隷反乱(BC73〜71)もこれに続き,ようやくローマ支配層にうわべだけでも団結する必要を悟らせた.
- 次の脆弱な平和はBC70年にポンペイウスとクラッススが執政官の時に達成された.この平和は途中でカティリーナの陰謀が企まれた以外は継続し,20年ほど経過した.
- そして均衡はカエサルがルビコン川を渡った時(BC49)に崩れる.そして内戦が継続する20年となる.まずカエサルとポンペイウスが激突し,カエサルの暗殺後は,暗殺側のブルータスとカシウス対カエサル承継側のアントニウス,レピドゥス,オクタビアヌスの争いとなった.後者の勝利後内戦はオクタビアヌス,アントニウス,セクストゥス・ポンペイウスの間で戦われ,最終的にオクタビアヌスが勝利することになる.BC27年に彼は政治の枠組みを一新し,アウグストゥスと呼ばれ,プリンケプス政(初期帝政)を敷く.
- 共和国の分解フェーズは父と子サイクルの教科書的な例となっている.BC140〜120が闘争期,120〜90が平和期,90〜70が内戦期,70〜50が平和期,そして50〜30が内戦期となる.そしてようやく(生き残ったものすべてが安堵する)分解フェーズの終了を迎えたのだ.
後ろの2つの内戦期,平和期,内戦期は確かにそう呼ぶに相応しい時代に思える.これが世代間記憶によるものかどうかの吟味はなされていないが.ターチンの議論にとってはちょうどよい時代ということになろう.