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『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その6)
禅は精神が生き生きとしていることを重んじ、停滞しているところを死地、流動して停滞のないところを生地とする。だから、ブッダの教えに泥む(なずむ)ことさえ否定する。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その5)
生地、死地、活句と死句と、禅が問題とするのはやはり、生死、死活の分際だ。龍牙という禅僧は、あえて生地を選ばず死地に飛び込んだ。こうして自身の生きる道を確立したという。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その4)
ここにはないどこかにその探し求めているものを尋ね当てようとするのが、おおくの人のするところだ。しかし、ただここにすでにあるもの、それがあるということに気づくということ、気づけばそれはもうわかったということ、その消息が五洩と石頭との物語に語られている。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その3)
禅では、躊躇すること、言い淀むこと、精神の働きが停滞することを嫌う。力をため込まれたばねが弾けるように、雷が一瞬ひらめくように、精神を働かせて言葉を返すか、さっと体を動かし行動することを重んじる。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その1)
禅匠の持つ大きな気宇を示したもの。大海をひっくり返すことも、大山を蹴倒すことも物理的には狭小な人間にはできないが、心は無限で、大海も入れることができ、大山も住まわせることができ、そしてそれらを虚空に抛却することだってできる。