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端的に、出家者が持つべき道具として、「三衣一鉢」というのは、良く知られているところだと思う。いわゆる、五条・七条・九条以上の3種類の御袈裟(三衣)と、食器(応量器・鉢盂=一鉢)を持たなければ、出家を許されない。然るに、もちろんこれだけに収まることはなくて、様々な物を必要に応じて持っていたが、それらは常に“最少”に留めるべきであるとされた。曹洞宗(禅宗)では、行脚する雲水修行が、大切な要素だったためである。今日は、その観点から、或る教えを見ていきたい。ところで、衆生に仏道を勧めることというのは、ただ教えを述べるだけではなくて、出家は本から一物もないことをもって、衣食住の処から、様々な道具に到るまで、皆他人から乞うて、道具の用をまかなっていたのである。そこで、出家は仏道修行に用いるからこそ、(それらの道具を)...出家者が持つべき道具とは?
令和7年元旦、新年となった。心からお祝い申し上げる。なお、今年の干支は「乙巳(きのとみ)」となる。そこで、早速だが新年に関する仏教の記事を見ていきたい。道元禅師は、弟子達を前に新年の挨拶を行われた。歳朝の上堂に、挙す。宏智古仏、天童に住せし歳朝の上堂に云く「歳朝坐禅、万事自然。心々絶待、仏々現前。清白十分なり江上の雪。謝郎満意す釣魚の船、参」と。師云く、今朝、大仏其の韻を拝続せん。良久して云く、大吉歳朝、喜坐禅、応時納祐、自ら天然なり。心々慶快にして春面を笑う。仏々牛を牽いて眼前に入る。瑞を呈し、山を覆う、尺に盈つる雪。人を釣り己を釣る、釣漁の船。『永平広録』巻2-142上堂意味だが、元旦の朝に、道元禅師は上堂されて、公案を採り上げられた。「宏智古仏が天童山の住持をしていたときの元旦の上堂に言われるには「...令和7年乙巳元旦
「除夜」という言葉は、「1年使ってきた暦を除く」ことから、大晦日の夜を意味しているという。今日は1年最後の学びとして、道元禅師の教えを参究したい。除夜小参に、挙す。薬山、雲巌に問う「汝、百丈に在りしを除いて、更に什麼の処に到りてか来る」。雲巌云く「曾て、広南に到りて来る」。薬山云く「見説すらくは、広州城東門の外の一団石、州主に移却せらる、と、是なりや、否や」。雲巌云く「但、州主のみに非ず、闔国の人移せども亦、動かず」。薬山・雲巌、既に恁麼に道う。永平、豈、道ぜざることを得んや。但だ州主のみに非ず、闔国のみに非ず、三世の諸仏、一切の祖師、尽力して移せども亦、動かず。甚と為てか斯の如くなる。良久して云く、彼々如にして内外無し、塵々固くして必ず三昧なり。也大奇、也大奇。全体明らかに瑩いて、宝貝無し。『永平広録』...今日は除夜(令和6年度版)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。況復拈指竿針鎚之転機此は皆祖々臨機応変の働きも此非思量の道力より出ることを示さる、先づ四件は指竿は倶胝の一指よ、竿は釣竿を下して人の為にするなり、南泉は百尺竿頭如何が進歩せんと示された、阿難は門前の刹竿を倒却着せよとなり、針は龍樹針水投合の因縁などよ、鎚は世尊陞座文殊白鎚等の如し、皆夫々に機転する妙用も此の三昧の力より出るじや10丁表~裏こちらは、ほとんど面山禅師『聞解』の略述となっている。よっ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。当知正法自現前昏散先撲落昏散は昏沈散乱の義なり、是の正法とは不思量底の正法じや、前に本来面目と有るがやはり同体異名じや、撲落は払ひ落すなりと註に有て今は払ひ尽すの心なり、故に枕子撲落地とも有るじや10丁表巨海禅師の見解と、面山禅師『聞解』が絶妙に混じり合っている。その上で、「是の正法とは不思量底の正法じや」は巨海禅師の見解だと見て良い。また、「故に枕子撲落地とも有るじや」も同様だが、「枕子撲落地...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
今日も春日井にある 昌福寺【曹洞宗】の紹介です。 場所は春日井市松河戸町にて、その市境となる庄内川に架かる松河橋を渡ると右手に見えます。 またその道を挟んで反対の左手に行くと以前に紹介した観
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。公案現成羅篭未到若得此意如龍得水似虎靠山公案は天下の定法とやらるゝ御高札なり、支那に是を公案と云、中峰山坊夜話に公案は乃ち聖賢牘一其轍天下同其途之至理也云々、隠れなくそこにあるわと云義、宗門の公案は三世の諸仏の号令じや、分別の羅籠にとり込らるゝはづはないぞ、此の思量分別のあみかごさへなければ自由自在じや、龍の――如く虎の――似りじや9丁裏これはほとんど、面山禅師『聞解』なのだが、略し方が余り適切...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。所謂坐禅非習禅也坐禅と云は広くかゝる故諸流の習禅とは別なるを示さる如何んとなれば下の句に唯――と有る通り四威儀共に皆な此の三昧の坐禅なれば妄想も不除不求真なれば下の文ゑ移る9丁表習禅ではないという意義が余り出てないのと、四威儀共に皆、三昧の坐禅だという話がちょっと気にはなるが、「妄想も不除不求真」についてもどうなのか?とはいえ、道元禅師は「妄想」自体を中心に扱うことは少ないので、この辺は掘り下げ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
今日は冬至である。よって、冬至は禅宗の説法が多く残されているので、その1つを学んでみたい。冬至の上堂。年年、一を加う三陽の一。旧に非ず新に非ず、功、転た深し。佳節佳辰、千万化。噇眠喫飯、今より起こる。『永平広録』巻1-115上堂道元禅師は仁治3年(1242)に興聖寺で行われた冬至の上堂(11月22日だったと思われる)で次のように示された。毎年毎年、この日には一陽来復する三陽の一である。よって、今日は古くもなく新しくもないが、その働きは極めて深いのである。良い時節、良い時間であって、千変万化していくのだ。睡りを貪り、食事を摂るという日常底も、今から起きるのである、と示された。さて、冬至とは、一年の内でもっとも昼の長さが短い冬の極点の日とされており、中国古来の陰陽五行思想などでは、陰が極まり陽の始まる日である...道元禅師と冬至について
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。思量箇不思量底不思量底如何思量非思量此乃坐禅之要術也思量するは有心故要術にそむく、高く眼を着よ、此の非思量の境を正伝の恵命のやれ仏祖の三昧ぞと口斗り言ては要術とは不言令也、此の一段は全く薬山に僧問の公案を用らる参熟して究明すべし広録挙此語有頌曰非思量の処絶思量切忌将玄喚作黄剥地識情倶裂断すれば钁湯炉炭也、清涼と只此非思量の境は識情裂断故に識情にて造作する三界六道は一時に消殞す8丁裏~9丁表ここは...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
Tengakuin (天嶽院) is a Soto Zen Buddhist temple , in the Watauchi District of Fujisawa , Kanagawa Prefecture , which traces its origin f...
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。鼻息微通身相既調欠気一息左右揺振兀兀坐定此の一段三蔵法数十八に委く出、此の鼻息微に自然に通とき三昧の現成なり、故に仏々祖々も此の鼻孔裡に向て妙脈貫通せり、欠気とはためいきを吹出なり、揺振とは身を左右にふり動して麁より細に至り止む、是を坐定と云仏説の如し、兀々とは不動の㒵之安住不動如須弥山の姿なり、かなの坐禅儀(※「箴」の誤記)に兀々地は仏量に非ず法量に非ず悟量に非ず会量に非るなりと已上、此祖意を...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。乃正身端坐不得左側右傾前躬後仰要令耳与肩対鼻与臍対舌掛上腭脣歯相著目須常開正身端坐は王三昧の巻に尽界を超越し仏祖裡に大尊貴生なることは結跏趺坐なり仏祖の極之極を越るは只だ此の一法なりと已上仏言見画趺坐魔王驚怖すとあり、況や此の真箇の趺坐をや、又目須常開とは無用にして開を云なり、物を見て眼に用有ときは瞼上下するものなり、常に開とは生たまゝに開を云なり8丁表~裏ここは、坐禅を行う際の上半身の作法を示...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑬(令和6年度臘八摂心短期連載記事13)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。或結跏趺坐或半跏趺坐謂結跏趺坐先以右足安左䏶上左足安右䏶上半跏趺坐但以左足圧右䏶矣寛繋衣帯可令斉整次右手安左足上左掌安右掌上両大拇指面相拄矣跏趺は跏は量ると注して元と足片なし、后に足片を添ることは麻の下に鬼を加へ渉の下に衣を加る如くなり、念誦法曰、礼諸仏已て全跏にして坐と云、又蓮花部念誦法門には四種の坐法あり、又護摩儀軌には五種の坐法あれども、不当用故不説降魔坐吉祥坐の――は先輩も誤り多故に略説...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑬(令和6年度臘八摂心短期連載記事13)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑫(令和6年度臘八摂心短期連載記事12)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。莫図作仏かなの坐禅儀に善也不思量也悪也不思量也、作仏を図ること勿れ、坐臥を脱落すべしとなり、高く着眼伝灯南岳の章に曰、有沙門道一と云もの住伝法院常日坐禅す、師曰坐して図什麼、曰図作仏、師取塼磨石上、一曰く磨して作麼、師曰作鏡、一曰、豈得、師云、若し不成鏡、坐禅して豈に得作仏耶、一曰く如何が即ち是ならん、師曰、車不行、打手打車、一無対出拠也7丁表~裏「作仏を図ること莫れ」について論じられた箇所で、...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑫(令和6年度臘八摂心短期連載記事12)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑪(令和6年度臘八摂心短期連載記事11)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。放捨諸縁休息万事不思善悪莫管是非停心意識之運転止念想観之測量外に有を諸縁と云、六塵の妄想なり、内に造るが万事と云、六塵の境に対して起る六根の妄想也、外を放捨し内心を休息すれば安楽の境現前するなり、伝灯達磨の章に曰く、九年為二祖説て曰く、外息諸縁心如牆壁可以入道云々是即ち吾家の仏法相続の大切なり、勿錯会不思――とは六祖の章曰、汝若要知心要但一切善悪都莫思量得入清浄心体なり、又保寿僧問云万境未侵の時...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑪(令和6年度臘八摂心短期連載記事11)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑩(令和6年度臘八摂心短期連載記事10)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。夫参禅者静室宜焉飲食節矣坐禅なりと有る、是が永平の実意じや、故に静室宜しと有るなり、〈是よりよめば理が下る〉参禅は趨承と註て諸方へ走り回り示を承る事、此れはかなの坐禅儀に云、参禅は坐禅なりと有る是が永祖の実意じや、故に静室宜しと有るなり(※おそらくは繰り返しとなる誤記なので、「是よりよめば理が下る」の字句が註記に見える)、又化城喩品に曰、静室入禅定一心一処坐と有る是也、食をほどよくせよとは、仏の...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑩(令和6年度臘八摂心短期連載記事10)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑨(令和6年度臘八摂心短期連載記事9)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。身心自然脱落本来面目現前註下して落草せん鳫に遺蹤の思無く水ニ沈影の意無し、脱はもぬけると云心、落は洒落と云てさつはりとしたこと看よゝゝ、身心の二つともに見たり聞たりの処、自然天然にさつはりと脱洒して鏡に物の移る如く妍醜分明に分れども、少も跡を不留、さつはり影の打払が如くじや、二六時中漢去り胡来る、是を本来面目現前と云、然ども柳は緑花は紅で現成其侭あらはすに無処と云て置れまいぞ、三十棒じや、自然ゝ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑨(令和6年度臘八摂心短期連載記事9)
まずは、この一節をご覧いただきたい。遺範要略一退蔵峯は老僧の在世隠棲・滅後葬身の地なり。有志の道者三五箇安居を結会して専要に元古仏の坐禅箴・儀両篇に依りて只管に弁道するなり。一老僧、化を戢むるの日は他に告報すべからず。且つ年回の時、牌前の荘厳、一切致すべからざるなり。一老僧を供養せんと欲する者は、欽んで『正法眼蔵弁註』を拝閲すべし。是を第一の孝順心と為すべきなり。云々享保二十年乙卯十二月十日老螺蛤天桂花押『永平正法眼蔵蒐書大成』巻15・709頁上段、訓読は拙僧以前、天桂伝尊禅師(1648~1735)は坐禅に熱心だったはずだと聞いたことがあったが、その典拠がこの一文だった(はず・汗)。その意味で特に見て欲しいのが第一条なのだが、この退蔵峯陽松庵にて有志の道者が3人でも5人でも安居して、道元禅師の『正法眼蔵』...或る眼蔵家の遺言
以前から、毎年この日の前後に「断臂摂心」に関する記事を書いてきた。それは、中国禅宗二祖、太祖慧可大師を顕彰する意味合いがあってのことだが、12月9日に書くと「今夜は摂心である」という話になるし、翌10日に書くと断臂上堂(慧可大師の勝躅を顕彰する説法)になる。毎日摂心に関連した記事を書き、昨日は昨日で成道会に関する記事を書き、お腹いっぱいの状況で、更に断臂摂心の話だから、大変かもしれないが、所詮、このブログの記事などは、「画餅不充飢」の「画餅」である。今日は、以下の一節を学びたい。第三十四「発菩提心」神光の雪に立つ甚の心行ぞ。断臂し師に献ず作麼生。無心の道を体得するに心無し。雲自から白く水自から清し。永平義雲禅師『正法眼蔵品目頌』『正法眼蔵品目頌』とは、60巻本『正法眼蔵』に対して、永平寺5世の義雲禅師(1...本日は断臂摂心(令和6年度版)
釈尊の菩提樹下での坐禅を慕って行う臘八摂心も終わり、いよいよ釈尊成道会を迎えた。道元禅師は、以下のように自分が「成道会」を伝えたとされ(なお、道元禅師の前にも実施された記録はあるが、広く行われなかった)、永く児孫によって修行されるべきことを求めている。日本国先代、曾て仏生会・仏涅槃会を伝う。然而ども、未だ曾て仏成道会を伝え行わず。永平、始めて伝えて既に二十年。自今以後、尽未来際、伝えて行うべし。『永平広録』巻5-406上堂いうまでもないが、何故我々が釈尊の「成道」を祝うのかといえば、我々禅僧にこそ「釈尊成道の真意」が会得されているからである。宋代の中国禅宗に至って、初めて以下の説話が禅僧によって主体的に自覚されている。釈迦牟尼仏言く、明星出現の時、我と大地有情と同時成道。『永平広録』巻1-37上堂道元禅師...本日は釈尊成道会(令和6年度版)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑦(令和6年度臘八摂心短期連載記事7)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。矧彼祇薗之為生知兮矧やは況と同じ、祇園は須達長者が祇陀太子の園を買て建る故に、今喚居称人なり、生知は生れながら備有を知る心で彼の如来は生れ玉ふ、直に天上天下唯我独尊と云れしほどの自然知と普勧せられ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑦(令和6年度臘八摂心短期連載記事7)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑥(令和6年度臘八摂心短期連載記事6)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。雖逍遥於入頭之辺量、幾虧闕於出身之活路入頭とは入口と云心学者此田地に初て一足踏込だ斗りでは大量の自在はならぬ、入口のとも辺りに逍遥と自らをちつききつては居れともまたゝゝ転身自在の働を欠て居る、其の...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑥(令和6年度臘八摂心短期連載記事6)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑤(令和6年度臘八摂心短期連載記事5)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。毫釐有差天地懸隔、違順纔起紛然失心此語は信心銘に出たり、毫――とは譬は弓射者の、手本で一分ちがへば的で一丈ちがう如く口で斗り道本円通なぞと云ても、自心の圿に兔の毛ほどでもちごうたら、此仏祖単伝の妙...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑤(令和6年度臘八摂心短期連載記事5)
今日は近隣にある 観音寺【曹洞宗】の紹介です。 その場所は春日井市松河戸町にて、そこに流れる庄内川の松河橋を名古屋方面から渡るとその袂の左手に見えてきます。 また先日のブログで紹介した小
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究④(令和6年度臘八摂心短期連載記事4)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。況乎ましてや、況は益也、乎は助語也、宏智曰、虚空説法し頑石聴く、何ぞ労仏祖費工夫、是出処なり、又杜詩にも虚空不離禅と有るじや、全体逈出塵埃兮孰信払拭之手段全身五体凡て仏じや、其侭の清浄法身じや、故...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究④(令和6年度臘八摂心短期連載記事4)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究③(令和6年度臘八摂心短期連載記事3)
一昨日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。原厡の略字なり、源と同意なり、厂は屵なり、岩の下たより水出る㒵なり、川下の人原はいづこぞと尋子窮てこゝぞと知る其儀を移して、字書に原は推原也と註す、今仏法の根元を説き示して仏々祖々の腹ら底を尋、...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究③(令和6年度臘八摂心短期連載記事3)
仏教徒として日々、何を実践し、どう生きたらよいのか。 釈尊は苦(ドゥッカ)を消滅し、涅槃(ニルヴァーナ、心の平安)に至る実践的な手段として、「八正道」を説きました(釈尊が45年間にわたって説いた教えは、実質的にこの八正道に凝縮されるともいわれます)。 八正道とは、正見(正しい理解)、正思(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい注意)、正定(正しい精神統一)を指します。 ただ、凡夫が毎日の生活において、この8項目を常に心掛けるのは容易ではありません。 また、正精進や正念など、具体的にどうしたらよいのか、すぐに思い浮かばないもの…
大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ)の紅葉 秋には境内を紅葉が覆い尽くします 神奈川
曹洞宗の寺院で、1394年に開山され、600年以上の歴史を持つ名刹で、境内には美しい杉林が広がり、四季の自然が楽しめます。 最乗寺の守護道了大薩は開基にあたって力を尽くした行者で、地元では「道了さん」と呼ばれ親しまれ、秋には境内を紅葉が覆い尽くします。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 撮影:2007.11.25 神奈川県南足柄市大雄町大雄山線、大雄山駅からバス <Youtubeライブラリ>WiHi接続の方は再生画質を調整してお楽しみください。思い出の写真をフォトムービーにして Ⅰ思い出の写真をフォトムービーにして Ⅱ
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
さて、昨日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。普勧坐禅儀観音導利院興聖護国禅寺沙門道元撰述扨先つ普勧と云二字は大般若五百二十五に仏告善現如是法門は諸の菩薩若は利根鈍根皆な悟入して無障無碍とある、因之故に文中にも不論上知下愚と有なれば冷暖...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
Koryuji (江龍寺) Shundo Daiosho (俊道大和尚) was the 15th abbot of Koryuji (江龍寺), a Soto Zen Buddhist temple standing in the mountainous Nishikimac...
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究①(令和6年度臘八摂心短期連載記事1)
「この坐より摂心」ということで、今日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、今日からの8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。普勧坐禅儀碓房述解蓋此坐禅儀は永祖入宋し玉へ皈東の初嘉禄年中に製せらる弁道話に夫坐禅の儀則はすぎぬる嘉禄の頃撰集せし普勧坐禅儀に依行すべしと見ゆ、其故は日本に...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究①(令和6年度臘八摂心短期連載記事1)
今日11月29日は、語呂合わせで「1129=いい服」の日らしい(世間的には、「いい肉の日」の方が有名だと思うが)。・いい服の日(トンボ)それで、敢えて「「いい服の日」と仏教」というタイトルにしたからには、今日は以下の一節を通して色々と考えてみたい。この十勝利、ひろく仏道のもろもろの功徳を具足せり。長行・偈頌にあらゆる功徳、あきらかに参学すべし。披閲して速にさしおくことなかれ、句句にむかひて久参すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修のちからにあらず。仏言、袈裟神力不思議。いたづらに凡夫・賢聖のはかりしるところにあらず。おほよそ速証法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの、法王身を証せること、むかしよりいまだあらざるところなり。道元禅師『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻上記引用文は道元...11月29日「いい服の日」と仏教
今日も北区の 清学寺【曹洞宗】を少し紹介です。 場所は名古屋市北区安井にて、矢田川にも近く現在はホームセンターコーナン名古屋北店の真裏に位置しております。 創建については戦国時代の天正年間と
今日も北区にある 長昌寺【曹洞宗】を紹介します。 場所は北区山田北町にて、現在の矢田川に架かる天神橋の袂付近に位置しております。 ここは以前からウォーキングやサイクリングなどで2回ほど訪れ
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。栄西興禅護国論に云く、「夏冬安居を謂うに、四月十五日結夏、七月十五日解夏。十月十五日受歳、正月十五日解歳。二時の安居並んで是れ聖制なり。信行せずんばあるべからず。我が国、此の儀絶えて久しきなり。大宋国の比丘、二時の安居闕怠すること無し。安居せざれば、夏臘の二名を称すること、仏法中に笑うべきなり」。南海寄帰伝に云く、「凡そ夏罷歳終の時、応に随意と名づくべし。旧に自恣と云うは、是れ義翻なり」。即ち是の伝の夏罷は、論の解夏なり。夏罷歳終同じく自恣と称するは、則ち冬と夏と同じく安居を講ずること也た愈いよ明らかなるや。『面山広録』巻24「冬安居辯」一応、引用文は「」を付けて分かるようにした。それ以外は面山禅師の文章だと思われる。見れば分かる...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究④
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。肇法師云く、梵網経一百二十巻六十一品、其の中菩薩心地品第十、専ら菩薩行地を明かす。余憶うに、此れ一百二十巻中、定めて冬夏安居の法式有りて、而も審らかなるべし。伝に謂う、真諦三蔵、菩薩律蔵を将ちて此に来せんと擬する時、南海に於いて船に上るも、船即ち没せんと欲す。余の物を省去すれども、仍りて猶お起たず。唯だ律本を去れば、船方に進むことを得るのみ。真諦、歎じて曰く、菩薩戒律、漢地に縁無きことを悲しむ。但し、是の如くの因縁有るも、梵網大本、未だ渡らざるを以ての故に冬安居の説、広伝せざるのみ。『面山広録』巻24「冬安居辯」この一節を紹介していきたいと思うのだが、これは『梵網経』の伝来と、同経が来る前(というか、現代的な研究では、『梵網経』は...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究③
今日11月19日は「世界トイレの日」とのこと。詳細は、以下のサイトをご覧いただくと良いと思う。・11月19日は「世界トイレの日」(ユニセフ)さて、トイレといえば、我々曹洞宗の高祖道元禅師(1200~1253)の教えを学んでみたい。『正法眼蔵』の中に「洗浄」巻があり、衛生的なトイレの使い方について示されているのである。寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり、これを東司と称す。あるときは圊といひ、廁といふときもありき。僧家の所住に、かならずあるべき屋舎なり。「洗浄」巻こちらは、仏教が開かれた最初の頃はトイレが無かったが、寺院で過ごすようになってから、「東司」などと呼ばれたトイレが作られるようになったというのである。摩訶僧祇律第三十四云、廁屋不得在東在北、応在南在西。小行亦如是。この方宜によるべし。これ西...11月19日世界トイレの日
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。夫れ冬夏安居の並行は、是れ初め大乗律の制する所なり。夏安居に限るは、後の小乗律の制する所なり。初め大乗律の制する所とは如何、梵網戒経に云く、釈迦牟尼仏、初め無上正覚を成し竟りて、初め菩薩波羅提木叉を結びて云云して曰く、「若し仏子、常に応に一切衆生を教化して、僧坊を建立し山林園田に仏塔を立作し、冬夏安居の坐禅処所、一切行道の処、皆な応に之を立さしむべし」。天台疏に曰く、文中略、七事を序す、一に僧坊、二に山林、三に園、四に田、五に塔、六に冬夏坐禅安居処、七に一切行道処なり。是の経に、冬夏安居坐禅安居処と曰うは、則ち冬安居、豈に分明ならざるや。『面山広録』巻24「冬安居辯」ということで、面山禅師は冬安居と夏安居とを並行するのは、大乗律か...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究②
拙僧つらつら鑑みるに、「冬安居」について特に、『正法眼蔵』「安居」巻を学んでみると、色々と悩むように思う。そこで、江戸時代に「安居」巻を確実に学んでいた祖師の中での見解を見てみたい。江戸時代を代表する洞門学僧・面山瑞方禅師には、「冬安居辯」という論説文があるので、それを数回に分けて学んでみたい。冬安居辯或いは問う、結冬安居法、本より小乗律の明かす所に非ず。且つ、禅林諸清規の載せる所に非ず。而今、扶桑洞下の叢林、専ら之を講行するは、拠有りや。答えて云く、豈に拠無からんや。吾が祖、昔入宋帰朝し、初めて洛南興聖寺を開き、嘉禎二年丙申に至り、始めて冬安居を行ず。十月十五日開堂祝聖し、乃ち孤雲奘公を請して、首座と為して、除夜に秉払せしむ。是れ、吾が門五百年来、冬安居を行ずるの由来なる所以なり。『面山広録』巻24まず...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究①
以前から、【冬安居に関する諸問題】のような記事を度々書いている通り、本来の曹洞宗には、というか、両祖の時代には「冬安居」は無かったと思われる。しかし、実際には以下のような記録がある。同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……『洞谷記』瑩山禅師に係る文章に「冬安居」とあって、何らかの行持が認識されていたことが分かる(ただし、『瑩山清規』には、「冬安居」という字句は見えない)。そして、以下の一節も見ることが出来る。元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章こちらは、瑩山禅師も編集に関わっていたと考えられる『三祖行業記』の記述であるが、...「冬安居」に関する雑感
11月も半ばだが、各地から晋山結制の慶祝法要の修行が報じられるようになった。この時期は、いわゆる冬安居(11月15日~2月15日、或いはこれが1ヶ月ずつ前後にずれる場合もある)となる。現在の曹洞宗では、いわゆる夏冬二安居が標準化されているが、これがそんなに単純な問題ではないことは、両祖の時代の文献をよく読まれる方であれば、御存知であると思う。例えば、道元禅師は明確に冬安居を否定されている。梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正伝、まのあたり五十一世なり。『正法眼蔵』「安居」巻以上のように、道元禅師は『梵網経』に「冬安居」の指摘があるが、その方法が伝来しておらず、夏安居のみだとされるのである。この『梵網経』の元の文章だが、以下のようになっている。なんじ仏子、常に二時に頭...冬安居に関する諸問題
私のように会社を定年退職後に僧侶になって、第二の人生を仏道探究と社会貢献に費やしたいと考える人は少なくないかもしれません。 私としては、ぜひお勧めしたいという気持ちと、簡単にはお勧めできない、という気持ちが半々というのが正直なところです。 60歳を過ぎて僧侶になることは可能ですが(ただし、後述するようにそれなりにお金と時間がかかり、厳しい修行に耐える必要があります)、お寺の住職になることは過疎地以外では容易ではありません。 住職になるのが難しいのは、日本のお寺が世襲制で、お寺の跡取り娘と結婚して婿入りする場合を除き、在家出身者に門戸をほとんど開いていないからです。 近年、地方から都市部への人口…
良く、「死んだ後に授戒をして、戒名を付けることはおかしい」とかいう考え方があって、我々が行う葬儀についても、様々な批判を頂戴することがあるわけだが、拙僧自身、色々と勉強していくと、この批判というのは、厳密な意味で合っていないのでは無いか?と思うわけである。そう考えていった時、例えば道元禅師が次のように述べていることを確認してみたい。ほとけみづから諸龍を救済しましますに、余法なし、余術なし、ただ三帰をさづけまします。〈中略〉しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊、すでに証明しまします、衆生、まさに信受すべし。『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻これは、道元禅師が『大方等大集経』巻44「日蔵分中三帰済龍品第十二」からの引用した一文について述べられた提唱である。この文章では、世尊が苦しむ...禅宗での異者授戒について
今日の寺院は 修善寺【曹洞宗】を紹介します。 場所は名古屋市北区辻町にて、現在の矢田川とそこに架かる三階橋の袂に近い場所にあります。 この寺院の創建は文安元年(1444)また本尊でもある薬師