日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:北条高時

2021年に週刊少年ジャンプで連載が始まった歴史漫画「逃げ上手の若君」・・・その主人公は、実在の人物で、鎌倉時代末期、北条氏に生れた若君・北条時行です。




源頼朝の妻・政子の父・北条時政以来、将軍を補佐する執権の座につき、鎌倉幕府の実権を握ってきた北条得宗家・・・
その中で、最後の得宗となったのが、北条高時でした。
時行は、その高時と新殿との間に、1329年頃に生れたといわれています。
時行には、4歳年上の兄・邦時がおり、その邦時が跡継ぎとなるはずでした。
しかし、やがて、弟・時行に北条家の運命が託されることとなります。

時行が生まれる少し前に・・・父・高時は執権の座を降りていました。
その理由は、病によるものでしたが、一説に北条家の家臣・御内人に実権を握られて、次第に遊び惚け、人望を無くしてしまったからともいわれています。
そんな中、1331年、幕府に衝撃が走ります。
京都の後醍醐天皇が、倒幕を計画していることが発覚したからです。
元弘の乱の始まりでした。
そのたくらみは、鎌倉から派遣された20万を超える幕府軍によって鎮圧・・・後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐へと島流しになってしまいます。
それでもあきらめきれない後醍醐天皇は、翌年、隠岐を脱出すると現在の鳥取県に当たる伯耆国の船上山に入り、諸国の武士に対し幕府を倒すべく蜂起するように促したのです。
多くの武士たちが応じ、船上山に集結します。
後醍醐天皇の近臣の指揮のもと、幕府によって抑えられていた京都に攻め入ります。
一方幕府も鎮圧しようと鎌倉から京都に援軍を派遣!!
この時、幕府軍を率いていた大将のひとりは有力御家人の足利高氏でした。
足利家は、代々北条得宗家から正室を迎え、嫡子の名に一字与えられるなど、北条氏と近しい関係にあり、幕府御家人の中でも筆頭格の家柄でした。
高氏自身も、北条高時から”高”の字をもらっていたのですが・・・尊氏はその北条氏を裏切り、御醍醐側に寝返ってしまいました。
高氏が寝返ったのには・・・
京都に行ってみると、公然と鎌倉幕府に反抗する者がいました。
討幕の機運が高まっていたのです。
このまま鎌倉幕府が、北条が危ないとなったときに、足利家も潰されてしまう・・・と考えたのです。

高氏は後醍醐天皇の軍勢と共に京都を制圧、するとそれに呼応し、かねてから幕府に不満を抱いていた上野国で御家人・新田義貞が挙兵。
義貞は、鎌倉へと進軍します。
この時、義貞が狙っていたのは、長年実権を握り続けていた鎌倉幕府の象徴・北条得宗家でした。
時行の父・高時とその一族の首でした。
義貞軍のすさまじい勢いに押され、幕府軍は次第に劣勢を強いられていきます。
やがて高時の屋敷も危なくなり・・・高時は菩提寺の東勝寺に逃げ込みますが、もはや逃れられないと、800人以上の家臣と共に自害しました。
こうして、およそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
6000人以上の死者が出るなど、鎌倉の町は壊滅状態・・・
そんな中、高時の次男・時行は、見事に鎌倉から逃げ延びたのです。

「北条家が滅亡するのは、兄・高時が人望を失い、天に背いたからだ
 だが、これまでの善行の果報が当家に残っているならば、生き延びた者から滅びた一族を再興する者がきっと出るだろう
 なんとか時行を守り抜き、時が来たら兵を挙げ、北条家を再興して欲しい」by北条泰家

鎌倉幕府の実質的権力者であった北条得宗家に生れながら、幕府滅亡により5歳にして鎌倉を追われた北条時行・・・
北条家の御内人の諏訪盛高は、時行を連れ、諏訪家の本家がある信濃へ向かいます。
本家は諏訪大社上社の神官・大祝を務めていました。
諏訪大明神の氏人を集め、諏訪神道とと呼ばれる武士団を結成していました。
盛高は、そんな諏訪本家当主・諏訪頼重に、時行を預けます。
そして、時行は、その頼重と共にある決意を固めるのです。

「必ずや、北条家を再興して見せる!!」

幕府を倒し、晴れて京都に戻った後醍醐天皇は、倒幕の最大の功労者として足利高氏を重用します。
高氏は、後醍醐天皇の諱・尊治から一字賜り、高の字を尊の字に改名します。
そして、諸国の武士に対する軍事指揮権を与えられたうえ、正三位・参議に任命されるなど、上級貴族並みの待遇となりました。
また、後醍醐天皇は、自らが中心となって政権を運営。
次々に打ち出した斬新な政策は、建武の新政と呼ばれました。
ところが・・・後醍醐天皇政権発足直後から、各地で不満が爆発します。
2年半の間に、全国で20件以上の反乱が頻発。
北条氏側だった武士だけではなく、後醍醐天皇側の武士たちも希望通りに恩賞がもらえないことに不満を抱いていました。
北条氏の時代の方が良かったと発言する者もいました。
北条氏勢力と、御醍醐政権に不満を持つ武士たちが、共に反乱を起こしたのです。

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1335年6月、京都で反乱計画が発覚。
首謀者は名門貴族の西園寺公宗です。
かつて西園寺家は、朝廷と鎌倉幕府との連絡、意見調整を行う関東申次を代々務めていました。
その為、いつしか公宗は、鎌倉幕府や武士たちと親しい関係となっていき、幕府の・・・北条家再興の機会をうかがっていました。
そして、鎌倉幕府滅亡から2年後のこの時、ある人物を京都に呼び寄せていました。
鎌倉から逃れていた時行の叔父・北条泰家です。
公宗は、泰家をはじめとする北条家と共に、京都だけでなく鎌倉をも一気に制圧する計画を立てていました。
京都と鎌倉を奪還すべく、京都・関東・北陸で同時に放棄しようと考えていました。
京都の大将として北条泰家を、北陸の大将として名越時兼を、関東の大将として信濃に逃れていた北条時行が挙兵する計画でした。
公宗は、手始めに、後醍醐天皇を自分の別邸に招き、暗殺することを計画します。
しかし・・・公宗の弟の密告で、公宗は捕らえられてしまいます。
さらに、時行の叔父・北条泰家は京都から逃亡・・・計画は中止になるかと思われました。
ところが、公宗捕縛の報せを受けた時行が、諏訪頼重らと共に信濃で挙兵!!
この時、時行はまだ7歳ぐらいでした。

時行らは、挙兵後、信濃守護の小笠原貞宗らと激突しますが、ここで軍勢を二つに分け、別動隊が守護らの軍を押さえている間に時行は上野に入ります。
ここから鎌倉街道を一揆に南下し、鎌倉へと攻め込む計画でした。
時行軍は、全長140キロもの道のりを、わずか6日間ほどで踏破!!
そして、1335年7月24日、あっさりと鎌倉を奪還しました。

この時、後醍醐天皇の軍を率いていたのは、足利尊氏の弟・直義でしたが・・・
直義が鎌倉から送った軍勢は、ことごとく討ち取られました。
時行軍は、進軍のスピードが速かったうえに強かったのです。
御醍醐政権に不満を持つ多くの勢力が加わったことで、時行軍は大軍勢となりました。
そこには、時行というブランド・・・北条氏と鎌倉幕府の再興を期待する軍勢の思いが、時行軍に大きな勢いをもたらしたのでした。
その大きくなった時行軍に、後醍醐天皇軍が怖気づき、逃亡したため簡単に奪還できたのです。

この時行の反乱は、後に中先代の乱と呼ばれることになります。
この中先代とは、時行のことなのですが、室町幕府を開いた足利家を当御代、その前の鎌倉幕府で政権を担っていた北条家を先代・・・時行はその中間に当たることから中先代と称されました。
時行は・・・北条家と足利家と同格に扱われてたのです。
しかし・・・鎌倉を奪還した時行の前に、足利家が立ちはだかります。

尊氏の焦燥・・・
北条家の再興を目指していた時行は、1335年7月、鎌倉幕府を奪還。
その知らせを聞き、誰よりも強く危機感を抱いていたのは、後醍醐天皇政権の要職についていた足利尊氏です。
尊氏は、時行を討伐するため鎌倉への出陣を許可してもらうよう後醍醐天皇に願い出ます。
さらに尊氏は、警察権と軍事権を持った”総追補使”と、武士の棟梁”征夷大将軍”・・・二つの官職を与えてくれるよう強く求めました。
時行には、北条得宗家というブランドがありました。
そのブランドに対抗できる肩書が必要だったのです。
しかし、尊氏は、官職要求だけでなく、鎌倉への出陣さえ認められませんでした。

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後醍醐天皇は、時行を征伐した後、尊氏が新たな武家政権を作るのではないのか??と、疑ったのです。
尊氏が、頼朝と同じ官職を求めたことで、後醍醐天皇の中で疑念が生まれたからでした。
結果として尊氏は室町幕府を造ることになるわけですが・・・この時尊氏は、後醍醐天皇から好待遇を受けていたため、新たな幕府を開くことまでは考えていませんでした。
結局、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに勝手に鎌倉に向けて出陣します。

若君、再び逃げる・・・
京都を発った足利尊氏は、三河で弟の直義と合流し、鎌倉に向かいます。
一方、尊氏の進軍を聞いた鎌倉の時行らは、先手に出るべく軍を西へ向けて派遣することを決断します。
ところがその矢先・・・台風が鎌倉を襲い、強風により大仏殿が壊されます。
境内に避難していた時行の軍勢500人以上が下敷きとなって圧死してしまいました。
台風により鎌倉の町全体が、大きな被害を受けていました。

時行は、残った軍勢をなんとか西へ向かわせますが・・・
8月9日の遠江・橋本での敗戦を皮切りに、連戦連敗・・・
10日後には、尊氏らの軍に鎌倉を奪還されてしまいました。

尊氏軍の有力武将を討ち取るなど、時行軍は奮戦しました。
時行軍側に台風の被害が無ければ、どちらが勝ったかはわからない・・・そんな状況でした。
時の運に見放された時行軍は、奪還からわずか20日余りで鎌倉を明け渡すことになってしまいました。
さらに、この敗戦で、時行方の43人が自害。
人々は、時行もその中にいると思い込み、かつて鎌倉に君臨した北条得宗家・若君の早すぎる死に心を痛めたといいます。

しかし、時行は鎌倉から逃げ延びていました。
この時、自害したのは時行方の主だった武将43人。
その中には、時行の後ろ盾だった信濃の諏訪頼重もいました。
なんとか北条得宗家の嫡流・時行だけは逃げおおせるよう、彼等は自ら命を絶ったといいます。
さらに、京都から姿を消した時行の叔父・泰家は、この翌年に信濃で兵を挙げますが、その後、行方不明・・・戦死したと言われています。
北条得宗家の血をひく者は、時行ただ一人に・・・
そんな状況下で時行は足利尊氏と戦っていったのでしょうか?

若君の行方・・・
宿敵・足利尊氏により、再び鎌倉の地を追われることとなった北条時行は、その後しばらく足取りがわからなくなります。
時行はどこに逃れたのでしょうか?
確かな記録は残っていませんが、大きく二つの説が唱えられています。
①鎌倉から船に乗って伊豆国へ
船なら陸路より安全で、伊豆は北条得宗家の祖・時政が拠点としていました。
代々、北条家から手厚く保護されていたこともあって、安心して身を隠せたのかもしれません。
②一度目の逃亡の後、潜伏していた信濃国へ
その際、匿ってくれた諏訪頼重は鎌倉で自害していました。
しかし、孫は生きていたので、信濃国に潜伏していた可能性は高いと思われます。
信濃の伊那地方大鹿村に、時行が隠れていたという伝説が残っています。
桶谷という土地がりますが、王家谷が桶谷になったのでは??と言われています。
北条時行の子孫という人も、昭和まで大鹿村に住んでいました。
さらに、北条坂、北条道といった北条の名の地名まであったといいます。



打倒尊氏・・・
足利尊氏は、時行軍を破った後も、弟の直義と共に鎌倉に残り続けていました。
後醍醐天皇は、京都へ戻るように再三促しますが・・・尊氏たちはそれに応じません。
一説に、尊氏が鎌倉に残ったのは関東に潜む時行軍の残党の動きを見張るためだったと言われています。
僧とは知らず、尊氏の謀反を疑った後醍醐天皇は・・・尊氏らを討伐すべく、軍を鎌倉に派遣!!
ついに、後醍醐天皇と足利尊氏が決裂してしまいました。
やがて尊氏は京都を奪還!!
新しい天皇として光明天皇を擁立。
後醍醐天皇も大和国・吉野に新たな朝廷を開いたことで、二つの朝廷が対立する南北朝の内乱へと発展します。
鎌倉幕府を滅ぼした宿敵二人の分裂・・・
時行が大きな決断を下しました。
南朝の後醍醐天皇のもとに使者を送り、こう願い出ます。

”今までの我が罪をお許しいただいたうえで、南朝の軍勢に加えていただきたい”

時行は、鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐天皇の配下につくことを選びました。
父・高時が自害に追い込まれたのは高時自身に非があったからです。
尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人でした。
足利氏は代々北条得宗家から正室をもらっていました。
おまけに足利の当主は、嫡子の名に一字もらっていたのです。
足利家は、北条得宗家から目をかけられていたのに裏切った・・・そんな尊氏が許せなかったのです。

逃亡の果てに・・・
足利尊氏が打ち立てた京都の北朝と、後醍醐天皇が吉野に新たに開いた南朝が激しく対立する中、北条時行は打倒尊氏を胸に後醍醐天皇の配下につき、数々の戦に参戦。
その間、度々窮地に陥りましたが、持ち前の逃げ上手の才能を生かし、何とか生き延びていました。
この時、時行は9歳ぐらいだったと言われています。
しかし・・・1339年、後醍醐天皇が崩御すると、南朝は急速に弱体化。
併せて時行の動きも鈍くなり、やがて10年以上、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。



再び登場するのは、1352年、時行、24歳ごろのこと・・・。
この時、北朝方の室町幕府は、尊氏と弟・直義が対立、内乱状態にありました。
そんな中、尊氏が鎌倉にいる直義を討つべく出陣すると、その隙に南朝軍が京都を制圧。
南朝軍は同時に鎌倉を奪還すべく、進軍していました。
その鎌倉へ向かう南朝軍の中に、時行がいました。
南朝軍は、一度は鎌倉を制圧しますが、10日ほどで尊氏に奪い返され敗北!!
時行はこの時も、なんとか逃げ延びます。

1353年5月・・・逃げ上手な時行が、ついに尊氏軍に捕らえられてしまいました。
そして、5月20日、時行は家臣らと共に鎌倉郊外の刑場で処刑され、北条得宗家再興の夢はついえたのです。

鎌倉幕府滅亡から20年の歳月が経とうとしていました。

北条時行の起こした中先代の乱は、時代の大きなターニングポイントとなりました。
時行を討つために、足利尊氏が鎌倉に向かったことが、後醍醐天皇とたもとを分かち、やがて尊氏が新たな武家政権・室町幕府を開く大きなきっかけとなったからです。
打倒尊氏を掲げていた時行が、皮肉にも尊氏の世を作る原動力となってしまいました。
逃げ上手の若君は、悲運の若君でもありました。


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武家政権による初めての幕府が開かれたのが鎌倉。
その海岸線で、1953年に驚くべく物が発見されました。
900体以上の人骨です。
骨は、14世紀前半のもので、刀傷や打撲痕があり、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者ではないか?と言われています。

1333年5月22日、鎌倉は討幕軍が放った火によって炎上・・・6000人以上の死者が出て、鎌倉幕府14代執権北条高時も800人以上の家臣と共に自害・・・
150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
どうして壮絶な最期を・・・??

鎌倉幕府は、「御恩と奉公」でした。
武士は領地を認め手柄によって新しい領地をもらい(御恩)、将軍のために命をかけて戦う(奉公)関係でした。
この信頼関係が、鎌倉幕府の基盤となっていましたが、これを揺るがす大きな事件が・・・!!
元寇です。
神風が味方して撃退しましたが・・・大きな問題が残りました。
国内の戦いに勝利したのであれば、奪い取った土地を恩賞として御家人たちに分け与えることができたのですが・・・モンゴル軍を追い返しただけでは得られる土地がなく、武士たちに満足な恩賞を与えることができませんでした。
それにもかかわらず、モンゴル軍の3度目の襲撃に備えて、九州北部の守りを備え、九州の御家人たちは大きな負担を強いられたのです。
十分な御恩を与えられないまま奉公だけを強要される・・・
御家人たちの不満は日に日に大きくなり、幕府に対する忠誠心も薄れていきました。
この頃の幕府の情勢はひっ迫していました。
鎌倉幕府は直接支配していたのは東国だけでした。
西国は、朝廷に任せるというのが基本姿勢でした。
しかし、元寇に当たってほったらかしだった九州の防衛を幕府が担うことになります。
鎌倉時代後半、幕府は組織面でも運用面でもパンクしてしまっていたのです。
そうした状況の中、1316年、北条孝時が14代執権に就任。
孝時は得宗という北条氏直流の当主一族のTOPでした。
しかし、「太平記」によると・・・政治に意欲がなく・・・つまり、得宗に政治力の行使を求めないようになっていたのです。
将軍もお飾り、得宗もお飾りだったのです。
御家人たちの不満は爆発寸前・・・!!
新しく即位した後醍醐天皇が幕府転覆を画策し、時代は大きく動きます。

どうして後醍醐天皇は討幕を・・・??
この頃、朝廷は持明院統と大覚寺統の二つに分かれていました。
幕府の取りなしによって、交互に皇位を継承する両統迭立となっていました。
しかし、これに納得できない後醍醐天皇は両統迭立を原則とする幕府が不満で、天皇を中心とする政治体制を望んでいました。
襲撃先に定めたのが、朝廷の監視役・六波羅探題でした。
襲撃の日は1324年9月23日!!
この日は北野天満宮でまつりが開催されることとなっていて・・・そこでは毎年激しい喧嘩が・・・!!
喧騒に紛れて・・・と思っていたのに失敗!!
同士のひとりが、計画を漏らしてしまったのです。
窮地に立たされた後醍醐天皇はしらを切り、処分を免れます。
が・・・幕府からの監視がきつくなってしまいました。

後醍醐天皇の妃が妊娠・・・安産祈願のために、天皇は延暦寺や仁和寺などを参詣・・・
さらに奈良でも寺社もうでをして穏やか・・・??
しかし、安産祈願はただの口実で、再び倒幕に向けて寺社勢力を味方に付けようと画策していました。
皇子のひとり・護良親王を比叡山に入れ、僧兵相手に武芸の訓練をさせていたといいます。
ついに挙兵・・・??
またしても側近の一人が密告!!
二度目とあって幕府の怒りは大きく、後醍醐天皇の側近たちは斬首刑に・・・。
後醍醐天皇は、三種の神器を携えて京を脱出!!
笠置山に逃げ込むと、山中に立つ寺院を皇居とし、討幕の狼煙をあげるのです。
これに呼応するように、幕府に不満を持っていた武士たちが挙兵!!
その中に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたとされる楠木正成も・・・!!

「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし、策略を巡らせれば勝喜もあるでしょう。」by正成

後醍醐天皇との謁見を済ませた正成は河内の国に戻り、赤坂城で挙兵!!
1331年9月2日、笠置山の戦い!!
天皇軍3000に対し、幕府軍7万5000!!
地の利を生かし善戦する幕府軍!!

赤坂城でも開戦!!
楠木軍500に対し、幕府軍20万!!
兵力の差は歴然で、敗北は確実と思われましたが・・・
正成の奇策が幕府軍を苦しめます。
城の中から丸太や巨石を投げつけます。
熱湯を浴びせたり、巨大な藁人形で敵を混乱。

鎌倉幕府は武士の集団で、大軍を派遣して押しつぶせると思っていました。
正成は山岳ゲリラ戦で、幕府軍は精神的に追い詰められていきます。
笠置山の天皇軍が力尽き、後醍醐天皇が捕らえられると状況は一転・・・
笠置山の幕府軍が赤坂城攻めに合流し、城を取り囲み持久戦に持ち込みます。
籠城を余儀なくされた正成に策はなく・・・
すると正成は、城に火を放ち、その混乱に乗じて行方をくらませました。
幕府がいくら探しても正成は見つかりません。
捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐島に流されてしまいました。
しかし・・・死んだと思われていた正成が赤坂城を奪還!!
河内・和泉を制圧し、新たに千早城を築き、幕府軍を迎え討つ準備を整えます。
護良親王も吉野で挙兵!!
奈良・吉野から討幕の命令を発布!!

千早城での戦い・・・相手は100万??
それでも蹴散らす正成!!
1333年2月・・・後醍醐天皇が幕府軍の隙をついて隠岐島を脱出!!
鳥取県の船上山で挙兵!!
全国の武士に、討幕の綸旨を出します。
鎌倉幕府は制圧しようと関東の有力御家人を西国に派遣します。
そのうちの一人が足利高氏です。
これは、元服の際に、北条高時から一時もらっていました。
幕府の命を受けた高氏は、京に入り、船上山に出陣。
しかし・・・その道中で立ち寄った丹波の篠村八幡宮で耳を疑うような宣言をします。
「勅命に従って討幕の兵を挙げる!!」
どうして幕府を裏切ったのでしょうか??
高氏は、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受け取っていました。
足利家を守るため、北条氏を裏切る準備は以前からしていたのです。
再び上洛した尊氏は、六波羅探題に攻め入り、そして怒涛の攻撃によって僅か1日で敵を壊滅!!

そして、新田義貞も挙兵!!
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした翌日の5月8日、関東でも討幕の狼煙があがります。
上野国を本拠地とする御家人・新田義貞が、地元の生品神社で挙兵しました。
義貞が討幕を決意した理由は・・・当時、新田氏が置かれていた状況にありました。
源氏名門の出でしたが、始祖が頼朝と不仲だったので、足利氏の方が立場が上で、新田氏の方が格下でした。
30歳を過ぎた新田義貞が無位無官だったのに対し、足利尊氏は従五位下・治部大輔に任ぜられていました。

新田は単独で挙兵したのではなく、高氏が義貞挙兵のうらにいたと思われます。
新田氏は足利氏の中に組み込まれていたのです。
挙兵を決意した義貞でしたが、兵の数は僅か150.
ところが、生品神社から鎌倉街道を進み続けると・・・越後国の新田一族2000、甲斐源氏・信濃源氏の一派5000が参陣!!
太平記によれば翌日には足利尊氏の嫡男・千寿王が合流。
新田・足利連合軍となったことで、東国の武将たちが次々と参陣し、その夜には20万の大軍勢となりました。
一方、義貞挙兵の知らせを受けた幕府は、鎌倉に近づけまいと6万の兵を差し向けます。
5月11日午前7時ごろ・・・両軍は、現在の埼玉県所沢市小手指で激突!!
戦いは、一進一退!!多くの死者を出しましたが、この日は決着がつかず!!
12日、夜明けとともに再び激突!!
幕府軍は左右に広がって挟み撃ちにしようとしますが、義貞は逆手にとって手薄になった本陣を攻撃!!
「勝利は見えた」そう考えた義貞は、翌日、翌々日を休息日にあてました。
しかし、その間に・・・北条高時の弟・泰家の10万の援軍が合流していました。
そうとは知らない義貞は、翌日、幕府軍の猛反撃を受けて苦戦!!
義貞の本陣も総崩れとなってしまいました。
その時、幕府の本拠地である相模の武将たち6000が新田軍に参陣!!
相模は、御内人とよばれ、将軍ではなく北条得宗に仕える武士でした。
そこの人までも暴れ出した・・・それは、潜在的な幕府の不満が大きかったのです。
義貞軍は、幕府軍に奇襲をかけて圧勝!!
討死寸前で家臣に救われた泰家は、鎌倉に逃げ帰りました。
鎌倉に南下した新田軍・・・次々と武士たちが合流し、鎌倉の手前では60万人になっていました。

鎌倉は、相模湾と三方を山に囲まれた自然の要害。。。
出入口は、鎌倉七口しかありません。
そこで義貞は、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しの三方から侵入しようとします。
幕府軍は守備を固めます。
鎌倉幕府存亡をかけた最後の戦いが始まりました。
5月18日、午前6時ごろ・・・
新田義貞が地鳴りのような声と共に60万の兵で鎌倉攻めが始まりました。
義貞率いる本隊は、化粧坂で幕府軍と激突!!
全軍の2/3が投入されたといいます。
対する幕府軍は3万!!
巨福呂坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍6万!!
幕府軍の大将は、16代執権赤橋守時で奮闘しました。
極楽寺坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍5万!!
幕府の猛攻を受けますが、果敢に突撃!!

なかなか落とぜず、焦る新田義貞・・・!!
地の利を生かして守りを固め、新田軍の侵入を防ぐ幕府軍に対し、策を講じます。

「陸路が駄目ならば海からじゃ!!」by義貞

稲村ケ崎の先端から鎌倉の市街地へ入ろうとしました。
切り立った崖は容易に進むことtができませんが・・・??

義貞は、稲村ケ崎の難所を、5月22日に突破しようと考えていました。
その理由は、この日が大潮だったからです。
午前4時ごろ・・・兵を進め、歩いて回り込んだと考えられます。
自然現象を巧みに利用して、由比ヶ浜への上陸を成功させた新田軍は、周辺の民家に次々と火を放ちます。
そして、その火が浜風に乗って広がるのに乗じて市街地に攻め入ったのです。
思いもよらない海側からの攻撃に慌てる幕府軍!!
鉄壁だった切通の守りも次々と破られます。
最早、幕府軍の敗北は決定的でした。
しかし、幕府軍は最後まで鎌倉武士の意地を見せます。
火は燃え広がって、北条執権邸にまで・・・。
高時は、側近らと共に菩提寺だった東勝寺に逃げ込みます。
鶴岡八幡宮の南東600mのところにあったとされる東勝寺・・・ここが、鎌倉幕府終焉の地となったのです。
「もはやこれまでか・・・」
皆、最後の時を覚悟していました。
するとそこへ、最前線で戦っていた高時の側近・長崎高重がこう告げます。
「敵の手にかからぬうちにご自害すべき時ですが、最後の御奉公として今一度敵を蹴散らしてまいります。
 どうかそれまでお待ちください。」
そう言って駆け出すと、150の兵と共に新田軍に突撃!!雷神のごとく戦った高重は、東勝寺に戻ると、

「敵はそこまで迫りつつあります。ご自害ください。
 この高重が、切腹の手本をお見せして、冥途の先導を致しますゆえ」
皆がこれに続き切腹!!
側近たちの見事な切腹に高時も・・・高時もこと切れると皆も自害・・・その数 870人に及んだといいます。

武家政権が生まれ変わるための産みの苦しみだったのかもしれません。
150年続いた鎌倉幕府は終わりを告げたのでした。
鎌倉での死傷者は6000人以上・・・幕府滅亡に心を痛めた後醍醐天皇は、足利尊氏に命じて執権の屋敷跡に寺院を建立し、北条氏の霊を弔いました。

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室町幕府初代将軍です。
二度の裏切りによって大悪人のレッテルを張られてしまいました。

鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺された後・・・幕府は実権を握った北条氏を中心として有力御家人たちが動かしていくようになりました。
開府から100年余り・・・足利尊氏は源氏直系の家柄・・・幕府筆頭の御家人・足利貞氏の子として生まれました。
15歳で元服し・・・当時の執権・北条高時から”高”の一文字をもらい高氏としました。
北条氏と足利氏は代々婚姻による深いつながりがありました。
足利氏の当主は、北条氏から正室を迎えていたのです。
つまり・・・足利家の代々の当主も北条の血が流れていました。

そして高氏もまた北条久時の娘・登子と結婚。
1330年には嫡男・義詮が誕生します。
翌年、父・貞氏の死によって当主となった高氏。。。27歳でした。

太平記によると・・・この時代は、天下国家は乱れに乱れ一日として安穏な日はなく、民の多くが天寿を全うすることが出来なかった。。。とあります。
富と権力をほしいままにした北条高時によって、政治は乱れていたのです。
幕府に対する不安が高まる中事件が・・・!!
京都の後醍醐天皇が、討幕をかかげて挙兵します。
幕府は朝廷軍討伐のために近畿に大軍勢を・・・!!
高氏も、幕府軍対象の一人として出陣することになりました。

天皇家の復権を目指した後醍醐天皇の軍勢は、山城国・笠置山に立てこもりました。
高氏たちは大軍勢で臨みますが・・・大将・楠木正成が立ちはだかります。
正成は、地方で一党を構える新興の武士の棟梁で、鎌倉幕府への不満から後醍醐天皇の呼びかけに応じ参戦していました。
正成の戦術は・・・敵に岩や大木を落としたり、熱湯をかけたり・・・奇想天外なもので、高氏率いる幕府軍は一時苦戦を強いられますが・・・圧倒的な数で反撃し、乱を鎮圧しました。
追いつめられた楠木正成は、城に火を放って姿を消し、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、隠岐に流されて幽閉の身となりました。

ところが・・・1333年後醍醐天皇、隠岐を脱出!!
再び兵を挙げます!!
北条氏はこれを討つべく高氏に出陣を命じます。
天皇討伐に西へと向かう高氏・・・心は揺れ動いていました。
高氏、一度目の裏切り・・・
所領であった丹波国で神社に立ち寄り、家臣たちに尋ねます。
「朝廷ではなく、幕府を討つべきなのだろうか・・・??」
「一同、高氏さまのそのご決断を、今か今かとお待ちしていました!!」
「今こそ、北条を討つべし!!」
高氏は、幕府を裏切って朝廷につくことを決断したのでした。
どうして幕府に反旗を翻したのでしょうか??
一度目の出陣の際、父・貞氏の喪中で出陣を控えたいと申し出たのですが、認められませんでした。
そのうえ、今回の出陣では、妻と子を人質として残すように命じられました。
”梅松論”には、これを恨みに思って裏切ったと書かれています。

高氏は源氏の代表・・・北条は一目置いていて、かなりの干渉をされていました。
しかし、人質に取ることは当たり前の時代・・・鎌倉幕府が倒れそうなこと・・・後醍醐天皇の隠岐脱出や楠木正成を簡単に治められない・・・幕府の弱体化で北条氏打倒が可能だと判断したようです。
幕府側につく武士は少なかったのか・・・??
表立って反旗を翻す人はないにしても、命を懸けて楠木正成を討つものなどいなかったのです。
そんな武士が全国に広がっていたことを高氏は感じていたのです。
幕府のエリート化が進み、一般の武士は、幕府に軽んじられていました。
そんな時代だったのです。
北条氏を倒し、足利氏が支配する鎌倉幕府を造る・・・そんな感じに思っていました。
打倒北条!!
後醍醐天皇のもとへ使者を送り、鎌倉幕府討幕の許しをえます。
そして、全国の武士に密書を送ります。

この呼びかけに幕府に対し不満を抱いていた御家人たちが集結!!
3000騎だった高氏の軍勢は、5万騎に!!
1333年5月7日、今日に入った高氏は、六波羅探題を攻略!!その翌日には、高氏に呼応した関東の武士・新田義貞が鎌倉に攻め込み、追い詰められた北条高時以下一族郎党は、鎌倉の山奥で集団自決しました。
高氏が謀反の意を表明してからわずか1か月のことでした。
ここに、150年近く続いた鎌倉幕府は滅亡!!
この時、天皇や上皇は洛外に避難しており、京都は無政府状態に!!
高氏は幕府軍が去った六波羅に独自の奉行所を儲け、混乱回避に努めます。

手柄を立てた者たちに、恩賞を約束する証明書を発行!!
新しい幕府のリーダーとして政治を立て直そうとしたのですが・・・そこに後醍醐天皇が立ちはだかります。
京に戻った後醍醐天皇は、建武の新政・・・朝廷を中心とする新しい政治を始めます。
高氏は討幕の功労者として30カ所の所領を与えられ、天皇の諱から一字与えられ”高氏”から”尊氏”へ!!
しかし高氏は、政権内の要職にはつけません。。。
後醍醐天皇が目指していたのは、平安時代の天皇を中心とした国を治める朝廷を目指していたのです。
天皇に権力を集中させる独裁政治でした。
後醍醐天皇は、鎌倉時代の土地の所有関係をなくし、天皇自らが決定するとします。
しかし、これが大きな問題となりました。
この時代の武士の精神は”一所懸命”。。。武家政権下では、幕府と武士の間には”御恩と奉公”があり、武士たちは戦で働く代わりに所領を保障されていたのです。
幕府の恩賞となる土地が無くなるかもしれない・・・
武士たちは、土地の支配権の確認のために京都に殺到!!混乱を招きました。

鎌倉幕府を引き継ぐことなどできなかったのです。
しかし、後醍醐天皇に従順に働いていた尊氏でしたが・・・。
再び武家政権を・・・と、尊氏のもとに人々が集まり始めました。


尊氏二度目の裏切り・・・
1335年7月、尊氏が31歳の時、北条高時の子・時行が鎌倉幕府再興を目指し挙兵!!
鎌倉を占拠したのです。
この時、鎌倉を守っていたのは尊氏が最も信頼してた弟・直義でしたが、北条時行に敗北し、尊氏に助けを求めます。
尊氏は、後醍醐天皇に、反乱を鎮圧するために鎌倉に出陣したいと・・・征夷大将軍の官位を求めましたが許されませんでした。
というのも、後醍醐天皇は、武士に政権を与えることは絶対にしないと考えていたからです。
武士政権の否定が後醍醐天皇の理念だったのです。
尊氏は、弟のために天皇の許可を得ないまま都を出発し、わずか2週間で鎌倉を奪還しました。
反乱を鎮圧すれば、功績が認められると思っていたのです。
そして旧幕府軍の反乱を鎮圧した後も、帰京命令を無視して鎌倉に留まったのです。
ちなみに、帰京を止めたのは直義だと言われています。
直義は、武士として建武政権に見切りをつけていたようです。
さらに・・・征夷大将軍を勝手に名乗り、武士たちに恩賞を与え始めました。
この尊氏の暴走に激怒した後醍醐天皇は、尊氏討伐を命じるのでした。

朝敵となってしまった尊氏・・・尊氏は苦悩します。
「今回の事態は、決して自分の望むところではない」
尊氏は、天皇に恭順の意を示すために、元結を切り落とします。
そして、鎌倉の寺に引きこもり、戦いを放棄しました。

1335年11月、朝廷軍が尊氏討伐のために鎌倉に進軍。
尊氏のいない軍の指揮を執ったのは直義でしたが、三河・駿河で敗北し、壊滅寸前!!
直義は箱根山を要害として立てこもると、兄・尊氏に出陣を求めます。

武士は永遠に公家に使われるだけのものになってしまう・・・!!

立ち上がる尊氏!!
朝廷軍と戦うことを決意し、2000に兵とともに箱根へ。。。
討伐軍を撃破し、快進撃を続け、京都に攻め入り、朝廷軍を制圧します。
しかし、2週間後・・・朝廷を支持する奥州武士団に敗北し、都を追われてしまいます。
摂津国では楠木正成に敗北し・・・追いつめられる尊氏!!
しかし・・・武士達は負けた尊氏についていきます。。。

朝廷軍に敗れ、九州に敗走した足利軍でしたが、尊氏は挽回の布石を打っていました。
”建武の新政によって後醍醐天皇に取り上げられた土地を返還する”という文を全国の武士に送っていました。
おまけに朝敵では負けるので、後醍醐天皇と敵対関係にあった光厳上皇に院宣を要請します。

後醍醐天皇VS光厳上皇となるのです。
これで朝敵となることはなくなりました。

官軍となり、土地を保障してくれるという尊氏のもとへ、武士たちが集まってきます。

1336年4月、大船団を率いて九州を出発し京を目指します。
5月、摂津国に上陸すると、楠木正成軍と対立!!”湊川の戦い”です。
尊氏軍の猛攻に、楠木正成軍は散り散りに・・・もはやこれまで!!敗戦を覚悟した正成は、戦場で命を絶ちました。
開戦からわずか6時間・・・尊氏の圧勝に終わりました。
後醍醐天皇は、吉野に逃れます。
京都奪還に成功した尊氏は、上皇の弟・光明天皇を擁立。
1336年11月、室町幕府創設。
尊氏は、幕府を京都に移すことにこだわりました。

それは・・・土地が生命線と言ってきたものの・・・お金なしでは成り立たなくなっていたからです。
お金が集まるのは京都・・・経済的利権を握りたかったのです。
室町幕府は征夷大将軍である尊氏が軍事面を、弟の直義が政務を務める二頭体制で始まったのです。

武士政権を蘇らせた尊氏でしたが、将軍という地位よりも望んだのが”隠居”でした。
政務を直義に譲り、出家したかったのです。
しかし、弟が政務を取り仕切るのを快く思わなかったのが・・・高師直です。
政権構想を巡り、直義と対立するようになった師直。
直義は尊氏に師直の罷免を要求し、尊氏はそれを承諾しました。
師直は怒り、将軍邸に抗議に行きます。”観応の擾乱”です。

すると尊氏は、弟・直義を罷免し、溺愛していた義詮に政権を譲ることにしました。
尊氏と直義の対立・・・ついには・・・戦いとなり、結果は尊氏の勝利に終わりました。
直義は鎌倉の寺に幽閉され、その後、謎の死を遂げるのです。
人々は、尊氏が暗殺したと噂しました。

その後の幕府は・・・240年にわたり、足利政権が続くこととなるのです。
公家文化に武士文化が融合して、生け花、茶の湯、能楽・・・今に至る日本の伝統文化が確立されていきます。
これは、幕府を京都に置いた尊氏の大きな功績といえます。

1358年、動乱の世を生き残るために、裏切り者をの汚名を着、生きた男は、54年の生涯を閉じるのでした。

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神奈川県藤沢市にある清浄光寺には・・・
異形と呼ばれた天皇の肖像画があります。
頭上に中国皇帝の冠、両手には密教の法具、袈裟を身に着けています。
このような天皇の肖像は全く存在しません。

godaigo

この天皇こそ、後醍醐天皇です。

これは、後醍醐天皇が崩御されてから35日目の抱擁の際に開眼されました。
後醍醐天皇が生きている時の姿・・・そのものであると言っていいといえます。




1333年、後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒し、足利尊氏、楠木正成を従えて、天皇中心の政治・・・建武の新政を成し遂げました。

”朕が新儀は、未来の先例たるべし”

わずか3年で終わった建武の新政・・・世界最先端の新しい中国の政治システムを日本に取り入れようとしていたことが解ってきました。

古の世に・・・天皇中心の国造りを推し進めた聖徳太子・・・後醍醐天皇の理想は、この天皇中心の国造りを推し進めることでしたが・・・
それを妨げていたのは・・・150年続く鎌倉幕府。
武士が軍事力を元に朝廷と同じような権力を持っていました。

当時の鎌倉幕府執権は北条高時。
闘犬や田楽にうつつをぬかし、政務を顧みない毎日を送っていました。
当時、朝廷は、この幕府の証人が無ければ、皇位継承もままならない状態でした。

後醍醐天皇は・・・鎌倉幕府の事を・・・
「関東は戎夷なり 天下管領然るべからず」
と評しています。

masasige
1331年、ついに後醍醐天皇は、討幕の狼煙をあげます。
楠木正成・名和長年などの新興勢力がつきます。
足利尊氏、新田義貞などの鎌倉幕府に不満を抱いていた有力武士たちも参加していきます。
1333年・・・鎌倉幕府の打倒に成功します。
天皇中心の政治を確立します。これを建武の新政といいます。

”今後、綸旨のないままに土地の権利を主張するものがいれば、勅断(天皇の裁断)によってこれを捕えてよい”

綸旨とは・・・天皇の意志を直接伝える文書の事で・・・
後醍醐天皇は、幕府が行ってきた土地の管理を天皇が直接行うとしたのです。
このような綸旨は、武士の恩賞や税の催促にまでおよび・・・天皇の絶対化を成そうとしていたのです。


朝廷内の組織改革にも取り組みます。
これまでの政治体制は・・・世襲の公家が・・・太政官・中央八省・・・行ってきました。
しかし、天皇は、直属機関を設置します。
恩賞方・武者所・記録所・雑訴決断所・・・討幕に功績をあげた武士を登用するという異例の人事を行います。
河内の一豪族だった楠木正成を抜擢・・・要職に就け、摂津・河内を与えます。

”官銭を造り、須く天下に頒つべし”
10世紀以降途絶えていた通貨を作らせたのです。

中国では、皇帝が度量衡をすべて統一して制定するという考え方がありました。
これは、世界最先端のシステムで、日本でもそれを取り入れようとしていたのです。
当時、中国はモンゴルの元・・・
貨幣の鋳造によって東アジアの経済を活性化させ、皇帝による専制政治を盤石化していました。
さらに・・・紙幣まで流通させていたのです。
後醍醐天皇も、日本初の貨幣を作ろうと考えていたようですが・・・
天皇中心のこの政治は、混乱を招きます。
土地を安堵してもらおうという綸旨を求めて、全国の武士が天皇の元へ殺到します。
政務に滞りが・・・安堵しても後から没収ということも・・・。
そんな中・・・落書が・・・

「このごろ都にはやる物
     夜討 強盗 謀綸旨」

都の混乱は、頂点に達していました。

takauji
そして・・・武士の期待を一身に集めていたのが・・・足利尊氏。
幕府に於いて、北条氏に次いで高い家格だったから・・・
鎌倉にいた尊氏は・・・武士たちの不安を取り除くべく、天皇の許可なく土地を恩賞として与えはじめました。

都でこれを伝え聞いた後醍醐天皇は・・・”逆鱗!!”


1335年11月・・・遂に後醍醐天皇VS 足利尊氏。
最初は負けていた後醍醐天皇も、楠木正成たちの活躍によって都を奪還します。
足利軍は、九州にまで逃げ落ちます。が・・・その4か月後、九州で軍勢を立て直した足利尊氏が攻め上ってきました。
動揺した後醍醐天皇!!どうする??

京を一時撤退して京で兵糧攻めにする??
当時の戦いでは、遠征・長期戦・大規模戦の増加によって「食料の確保」が最大の課題となっていました。
つまり、兵糧攻めで敵を弱らせるのが、新しい戦い方になってきていました。
楠木正成は、この兵糧攻めによって足利軍を壊滅させようとしていました。

一戦も交えないまま京を逃れてもいいのか??
絶対的な天皇を否定するのか??
迎撃する??
その頃、足利尊氏は、九州に落ちのびる間にも援軍を催促していました。
院宣・・・後醍醐天皇の敵対する光厳上皇の権威を持ちだして、それを大義名分としたのです。
九州を味方につけていく尊氏。。。

和睦する??

どうする??後醍醐天皇??

1336年5月25日・・・
兵庫・湊川に陣を張った後醍醐天皇の軍勢・・・しかし、そこに現れた足利軍・・・海上には大船団が・・・陸上には雲霞のような軍勢が現れたのです。
どうして尊氏はこれだけたくさんの軍勢を集めることができたのでしょうか??
尊氏は、院宣に加え、武士たちを結集させる策・・・
後醍醐天皇に没収された所領の返す約束をしていたのです。
武士が最も望んだものは・・・土地の安堵。。。
それを約束することで、加勢した兵たちの士気を高め。。。
これによって後醍醐天皇の軍勢は・・・壮絶なまでの戦いをすることになり・・・尊氏の大勝利に終わるのです。

敗戦の報を受けた後醍醐天皇は、比叡山へ逃亡!!
京はあっけなく尊氏の手に落ちるのです。
そして尊氏は、光厳上皇の弟・光明天皇を即位させ・・・室町幕府を開くのです。

天皇を追われた後醍醐天皇は・・・足利軍に捕えられ・・・
京で幽閉されることになるのです。

しかし、皇位を奪われた後醍醐天皇の戦いは終わることはありませんでした。
1336年12月・・・幽閉されていた公家の邸宅から、女装して脱出!!
向ったのは・・・現在の奈良県吉野山。
この地で、後醍醐天皇は新たな朝廷を立ち上げ、ここに・・・南北朝の動乱が始まったのです。

再起を図るために・・・新しい軍勢を獲得するために、皇子たちを各地に派遣、地方から火の手をあげようとしますが・・・。
皇子たち・・・新田義貞、北畠顕家・・・信頼していた家臣たちが次々と破れていきます。
後醍醐天皇自身も病に・・・
1339年8月16日、後醍醐天皇崩御。

「太平記」の後醍醐天皇は・・・右手に剣・・・死の間際まで戦うことを信念としていました。
吉野山にある後醍醐天皇の陵墓・・・歴代天皇の陵墓のほとんどが南向きなのに対し、後醍醐天皇の陵墓は、都のある北を向いています。
死の間際・・・後醍醐天皇が残した言葉・・・

「玉骨は たとひ南山(吉野)の苔に埋もるとも 魂魄は常に 北闕(京)の天を望まん」

天皇中心の政治を求めて、始終戦い続けた後醍醐天皇は、後の世に大きな影響を与えていくことになるのです。

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感想(1件)


かつて・・・天皇が二人いる前代未聞の時代がありました。
南北朝時代です。
京都の北朝と、吉野の南朝・・・二つの朝廷の存在する時代が60年も続きました。
動乱の引き金を引いたのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏です。
南朝と北朝の原因は、尊氏の三度の裏切りにありました。
最初の裏切りは、武家政権の鎌倉幕府。
尊氏の裏切りで幕府は滅亡。。。
二度目の裏切りの相手は、尊氏に裏切りを耳打ちした後醍醐天皇、最後は最愛の弟に対する裏切りでした。

戦前の人には、天皇に弓を引く”逆賊”として有名な尊氏。。。
戦前はタブーな人でした。

kou




足利尊氏と言えばこの肖像画で有名です。
猛々しい姿に逆臣、朝敵として記録されてきました。






ホントはこちら・・・

takauji

勇猛な武将というよりも高貴な感じ。。。
清和源氏の直系なのです。
鎌倉幕府の筆頭御家人でした。
そんな尊氏がどうして???



鎌倉幕府は、頼朝が開いて以来、承久の乱・蒙古襲来・・・負けたことがありません。
東国政権だった鎌倉幕府は、六波羅探題、鎮西探題を置いて支配を広めていきました。
そんな最強の鎌倉幕府に反旗を翻したのが、後醍醐天皇です。

鎌倉時代後期、北条氏は富と権力を独占し、時の第14代執権・北条高時は栄華を極めて政務を顧みませんでした。
「野蛮な東国武士は勅書には応じないだろうから武力で征伐しようと思う」
1331年後醍醐天皇挙兵!!
しかし、朝廷軍3000VS幕府軍7万5000。。。圧倒的な幕府軍に完敗。
1332年には後醍醐天皇は隠岐に配流となり一件落着の筈でしたが・・・
ところが、護良親王が引き継いで挙兵!!
武士達に令旨をばらまきます。

おまけに後醍醐天皇は隠岐を脱出し、船上山に立て籠もります。
幕府は再び討伐軍を作り、その大将を任されたのが足利尊氏でした。

太平記には・・・

「父の喪中で悲しみも癒えず、その上私は病に冒されている。
 高時の出兵命令は実に恨めしい。」

天皇の討伐よりも父の喪中。。。
その上、
「自分は清和源氏の一族。。。血統の後期は我々の方が上なのだ。」

家格が低い北条氏に恨めしさが。。。
尊氏は、心の内を人には見せませんでした。

裏切りの決定打は”楠木正成”だったという説も。。。
尊氏が出兵する1か月も前から楠木軍は千早城に入城。
1333年2月~5月・千早城の戦い。。。
数万の幕府軍にわずか1000の兵で立ち向かいました。
奇想天外な戦術で・・・千早城を落とせない幕府軍は厭戦気分になり。。。
それが尊氏の背中を押したと言われているのです。
尊氏が西へ向かう間に、千早城から離脱してきた兵士たちに遭って。。。
幕府に対する不満、西での出来事を聞きながら、時代の流れが変わるのを肌で感じていたのかも知れません。

「後醍醐天皇が世の中を救うために綸旨を発せられたので、勅命に従い正義の兵を挙げる」

幕府を裏切り後醍醐天皇を選んだのでした。
1333年5月7日、尊氏は六波羅探題を攻略。
それをきっかけに、全国の武士が討幕に鞍替えしたのでした。
北条一族は鎌倉の山奥で集団自決し、150年続いた鎌倉幕府は尊氏が裏切りを決意してからわずか2週間で滅亡したのでした。

どうして挙兵したのか?
そこには血筋の問題がありました。
当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統の二つに分かれており、交代に順番で即位し・・・両統迭立だったのです。
後醍醐天皇は、本当は天皇になる立場ではなかったのですが若くして兄が死に、天皇が回ってきたのです。
一代限りの天皇でした。
兄の血筋も持明院統も倒さなければ、自分の血筋には天皇の座が行くことはない。。。
両統迭立という仕組みを作った鎌倉幕府自体を倒さなければ!!
という発想の飛躍があったのです。
そして、後醍醐天皇の側近たちも、次男など・・・位につくことが出来ない寂しい人生を送るための人たちだったのです。
後醍醐と同じような不満を持っていた人たちだったのです。
過激になり討幕へと向かい・・・みんなで煽っていくのでした。
最強だった鎌倉幕府が崩壊した直接の原因は蒙古襲来・・・3度目がある・・・
非御家人を動員してまでも国を守ろうとした結果が、旧来からの御家人たちに不満を持たせ・・・御家人、非御家人たちからもそっぽを向かれたのでした。
当時は得宗専制体制で、北条一門が所領をたくさん持っていて・・・つまり、北条一門を倒せば莫大な所領が手に入る!!
足利尊氏も次男坊でした。長男が死ななければ、文学青年として一生を終えていたのかもしれない尊氏。。。
そんな英雄的でない尊氏が立ち上がるのです。

鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立した後醍醐天皇・・・。
それに最も貢献した足利尊氏。。。しかし、2年後に後醍醐天皇に刃を向けることになります。
朝廷を再興したい後醍醐天皇。。。
1334年建武の新政が始まりました。
とにかく天皇の独裁政権でした。
例えば六月令・・・

”今後の土地所有権の変更は、一々後醍醐自身の裁断を経なければならない”

その結果、討幕に参加した武士達が恩賞欲しさに天皇の元へ殺到します。
対応しきれない後醍醐天皇は・・・
七月令・・・

”一々来られては、政務が煩雑になるので、現在持っている土地をそのまま治めるように”

としました。
武士達の恩賞への期待は失望えと変わっていったのです。
新政権始まってすぐの初歩的なミスでした。

そんな尊氏の立場は・・・???
武士達と天皇の間にはいり、仲介者として関東八国を治めていました。
後醍醐を支えていたのです。
しかし・・・
1335年7月北条時行挙兵!!
建武政権に不満を持つ御家人達を結集させ、一時鎌倉を制圧しました。
この時鎌倉を治めていたのは弟の足利直義でした。
命からがら鎌倉を脱出!!
尊氏は挙兵にあたり、征夷大将軍と恩賞を与える権利を認めてくれるように後醍醐天皇に進言します。
しかし、簡単には許可が下りなかったのです。

8月、尊氏は許可なく京を出発し、鎌倉へ・・・。
そして、制圧するとまだ天皇の宣旨が下されていないのに征夷将軍を自称し、手柄を挙げた武将たちに恩賞を与えたのです。
と・・・尊氏の現場判断は、弟・直義が下したものでした。
政権に見切りをつけ、新しい武家政権の構想を立てていたのです。
尊氏は、天皇に弁明しようとしますが既に信頼は失墜し。。。
天皇は新田義貞・北畠顕家の追討軍を出したのです。
天皇と弟の間で板挟みに・・・浄光明寺に引きこもってしまいました。

直義は駿河で尊氏追討軍と対決するもあえなく敗走、箱根まで帰ってきました。
そこで・・・あくまで弟の為に・・・闘う尊氏は、見事追討軍を破って京へ・・・!!
後醍醐天皇を比叡山に押し込めて1336年1月京都を制圧したのでした。

後醍醐天皇は、何をしたかったのでしょうか?
それは徳治主義。
徳のある人間が王座になる。。。というもので、
米価の調整、関所の撤廃、民の為になることをするという志は立派なのですが、それが理解されなかったのです。

幕府を裏切り天皇を裏切った尊氏・・・。
日本中を激しく動いた将軍でした。
京都と鎌倉、博多・・・その総距離は5000㎞以上!!
どうして尊氏はそこまで動き回らなければならなかったのでしょうか?

1336年1月27日、尊氏は北畠顕家軍に敗れ、京都を追われます。
尊氏絶体絶命の大ピンチ???
しかし、不思議なことが・・・。
「負けたはずの尊氏に、在京武士がついて行ってしまう。。。」
「朝敵を追悼する合戦の筈なのに、皆の士気が上がらないのはどうも変だ」
西日本敗走中に・・・元弘没収地返付令を出していた尊氏。
天皇によって没収された所領を返給するというものでした。

尊氏は武士の利益を守るための建武政権打倒を掲げていたのです。
敗戦の理由を朝敵になったことだと考え、新たな天皇を擁立することを考えます。
持明院統からの光明天皇。。。大義名分を得ようとしたのでした。
天皇同士の戦いに次々と集結し、都にあがる尊氏は、5月湊川の戦いで宿敵・楠木正成・新田義貞軍を破ります。
6月入京。。。京都奪還に成功しました。
そして8月15日功名天皇践祚。
名実ともに天下を取った尊氏。。。
早く遁世したいと言い出しました。仏門に入りたいと。。。
しかし、その願望は瞬く間に破られました。
12月後醍醐天皇は吉野に朝廷を開きました。
正当な皇位は自分にあると!!!
京に北朝、吉野に南朝。。。そして、後醍醐天皇は1339年8月16日亡くなりました。
尊氏は大きく落胆し、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を造営。。。巨額な費用が使われたのでした。

尊氏最後の裏切りの相手は、最愛の弟・直義でした。
直義こそが室町幕府を治めていました。
長い間源頼朝と思われてきた肖像画が直義だという説があります。

naoyosi


























尊氏の絵(↑)と共に奉納されたとも言われています。
1336年11月建武式目制定。
幕府を鎌倉から京都に移して室町幕府が始まりました。
尊氏は政務の一切を弟・直義に任せ

「私は将軍という器ではないから、これからは軽々しく振る舞って武士たちの人気を得ていこうと思う。
 お前は重々しく振る舞って、無駄なことに時間を使わないでくれ」

と言っています。
真逆な性格で10年以上も幕府を支えてきた足利兄弟。

ところが・・・この肖像画の人物が・・・足利家の執事・高師直が原因で二人の仲が裂かれてしまうのです。
政権構想の違いで起こった観応の擾乱。
高師直を罷免した直義、将軍に直訴に行った高師直。。。あろうことか尊氏は直義を追放し、長男・義詮に政務を譲ろうとしました。
1351年12月、薩埵山の戦いで・・・
直接対決、尊氏3000、直義が50万で包囲しましたが、戦いは尊氏の勝利。
直義は鎌倉の寺に幽閉され・・・その後、謎の死を遂げるのでした。
太平記には・・・
”病死と公表されたが、本当は敵(尊氏)に毒を盛られて亡くなったと人々は噂している”

そして尊氏は些細な病気で54歳で亡くなります。
長らく逆賊とされてきた尊氏。

そんな尊氏の詠んだのがこの一句。

「よしあしと
  人をば言ひて
    誰もみな
 わが心をや 
   知らぬなるらむ」

足利尊氏は・・・イデオロギー的な歴史観におさまりきらない男。
人間としてのリアリティーのある誰の中にもある一面を持っていて、現代人に一番近い人なのかもしれません。
人間というのはいつの時代も不条理な存在で、その象徴が尊氏なのかもしれません。

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足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書

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