2021年に週刊少年ジャンプで連載が始まった歴史漫画「逃げ上手の若君」・・・その主人公は、実在の人物で、鎌倉時代末期、北条氏に生れた若君・北条時行です。




源頼朝の妻・政子の父・北条時政以来、将軍を補佐する執権の座につき、鎌倉幕府の実権を握ってきた北条得宗家・・・
その中で、最後の得宗となったのが、北条高時でした。
時行は、その高時と新殿との間に、1329年頃に生れたといわれています。
時行には、4歳年上の兄・邦時がおり、その邦時が跡継ぎとなるはずでした。
しかし、やがて、弟・時行に北条家の運命が託されることとなります。

時行が生まれる少し前に・・・父・高時は執権の座を降りていました。
その理由は、病によるものでしたが、一説に北条家の家臣・御内人に実権を握られて、次第に遊び惚け、人望を無くしてしまったからともいわれています。
そんな中、1331年、幕府に衝撃が走ります。
京都の後醍醐天皇が、倒幕を計画していることが発覚したからです。
元弘の乱の始まりでした。
そのたくらみは、鎌倉から派遣された20万を超える幕府軍によって鎮圧・・・後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐へと島流しになってしまいます。
それでもあきらめきれない後醍醐天皇は、翌年、隠岐を脱出すると現在の鳥取県に当たる伯耆国の船上山に入り、諸国の武士に対し幕府を倒すべく蜂起するように促したのです。
多くの武士たちが応じ、船上山に集結します。
後醍醐天皇の近臣の指揮のもと、幕府によって抑えられていた京都に攻め入ります。
一方幕府も鎮圧しようと鎌倉から京都に援軍を派遣!!
この時、幕府軍を率いていた大将のひとりは有力御家人の足利高氏でした。
足利家は、代々北条得宗家から正室を迎え、嫡子の名に一字与えられるなど、北条氏と近しい関係にあり、幕府御家人の中でも筆頭格の家柄でした。
高氏自身も、北条高時から”高”の字をもらっていたのですが・・・尊氏はその北条氏を裏切り、御醍醐側に寝返ってしまいました。
高氏が寝返ったのには・・・
京都に行ってみると、公然と鎌倉幕府に反抗する者がいました。
討幕の機運が高まっていたのです。
このまま鎌倉幕府が、北条が危ないとなったときに、足利家も潰されてしまう・・・と考えたのです。

高氏は後醍醐天皇の軍勢と共に京都を制圧、するとそれに呼応し、かねてから幕府に不満を抱いていた上野国で御家人・新田義貞が挙兵。
義貞は、鎌倉へと進軍します。
この時、義貞が狙っていたのは、長年実権を握り続けていた鎌倉幕府の象徴・北条得宗家でした。
時行の父・高時とその一族の首でした。
義貞軍のすさまじい勢いに押され、幕府軍は次第に劣勢を強いられていきます。
やがて高時の屋敷も危なくなり・・・高時は菩提寺の東勝寺に逃げ込みますが、もはや逃れられないと、800人以上の家臣と共に自害しました。
こうして、およそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
6000人以上の死者が出るなど、鎌倉の町は壊滅状態・・・
そんな中、高時の次男・時行は、見事に鎌倉から逃げ延びたのです。

「北条家が滅亡するのは、兄・高時が人望を失い、天に背いたからだ
 だが、これまでの善行の果報が当家に残っているならば、生き延びた者から滅びた一族を再興する者がきっと出るだろう
 なんとか時行を守り抜き、時が来たら兵を挙げ、北条家を再興して欲しい」by北条泰家

鎌倉幕府の実質的権力者であった北条得宗家に生れながら、幕府滅亡により5歳にして鎌倉を追われた北条時行・・・
北条家の御内人の諏訪盛高は、時行を連れ、諏訪家の本家がある信濃へ向かいます。
本家は諏訪大社上社の神官・大祝を務めていました。
諏訪大明神の氏人を集め、諏訪神道とと呼ばれる武士団を結成していました。
盛高は、そんな諏訪本家当主・諏訪頼重に、時行を預けます。
そして、時行は、その頼重と共にある決意を固めるのです。

「必ずや、北条家を再興して見せる!!」

幕府を倒し、晴れて京都に戻った後醍醐天皇は、倒幕の最大の功労者として足利高氏を重用します。
高氏は、後醍醐天皇の諱・尊治から一字賜り、高の字を尊の字に改名します。
そして、諸国の武士に対する軍事指揮権を与えられたうえ、正三位・参議に任命されるなど、上級貴族並みの待遇となりました。
また、後醍醐天皇は、自らが中心となって政権を運営。
次々に打ち出した斬新な政策は、建武の新政と呼ばれました。
ところが・・・後醍醐天皇政権発足直後から、各地で不満が爆発します。
2年半の間に、全国で20件以上の反乱が頻発。
北条氏側だった武士だけではなく、後醍醐天皇側の武士たちも希望通りに恩賞がもらえないことに不満を抱いていました。
北条氏の時代の方が良かったと発言する者もいました。
北条氏勢力と、御醍醐政権に不満を持つ武士たちが、共に反乱を起こしたのです。

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1335年6月、京都で反乱計画が発覚。
首謀者は名門貴族の西園寺公宗です。
かつて西園寺家は、朝廷と鎌倉幕府との連絡、意見調整を行う関東申次を代々務めていました。
その為、いつしか公宗は、鎌倉幕府や武士たちと親しい関係となっていき、幕府の・・・北条家再興の機会をうかがっていました。
そして、鎌倉幕府滅亡から2年後のこの時、ある人物を京都に呼び寄せていました。
鎌倉から逃れていた時行の叔父・北条泰家です。
公宗は、泰家をはじめとする北条家と共に、京都だけでなく鎌倉をも一気に制圧する計画を立てていました。
京都と鎌倉を奪還すべく、京都・関東・北陸で同時に放棄しようと考えていました。
京都の大将として北条泰家を、北陸の大将として名越時兼を、関東の大将として信濃に逃れていた北条時行が挙兵する計画でした。
公宗は、手始めに、後醍醐天皇を自分の別邸に招き、暗殺することを計画します。
しかし・・・公宗の弟の密告で、公宗は捕らえられてしまいます。
さらに、時行の叔父・北条泰家は京都から逃亡・・・計画は中止になるかと思われました。
ところが、公宗捕縛の報せを受けた時行が、諏訪頼重らと共に信濃で挙兵!!
この時、時行はまだ7歳ぐらいでした。

時行らは、挙兵後、信濃守護の小笠原貞宗らと激突しますが、ここで軍勢を二つに分け、別動隊が守護らの軍を押さえている間に時行は上野に入ります。
ここから鎌倉街道を一揆に南下し、鎌倉へと攻め込む計画でした。
時行軍は、全長140キロもの道のりを、わずか6日間ほどで踏破!!
そして、1335年7月24日、あっさりと鎌倉を奪還しました。

この時、後醍醐天皇の軍を率いていたのは、足利尊氏の弟・直義でしたが・・・
直義が鎌倉から送った軍勢は、ことごとく討ち取られました。
時行軍は、進軍のスピードが速かったうえに強かったのです。
御醍醐政権に不満を持つ多くの勢力が加わったことで、時行軍は大軍勢となりました。
そこには、時行というブランド・・・北条氏と鎌倉幕府の再興を期待する軍勢の思いが、時行軍に大きな勢いをもたらしたのでした。
その大きくなった時行軍に、後醍醐天皇軍が怖気づき、逃亡したため簡単に奪還できたのです。

この時行の反乱は、後に中先代の乱と呼ばれることになります。
この中先代とは、時行のことなのですが、室町幕府を開いた足利家を当御代、その前の鎌倉幕府で政権を担っていた北条家を先代・・・時行はその中間に当たることから中先代と称されました。
時行は・・・北条家と足利家と同格に扱われてたのです。
しかし・・・鎌倉を奪還した時行の前に、足利家が立ちはだかります。

尊氏の焦燥・・・
北条家の再興を目指していた時行は、1335年7月、鎌倉幕府を奪還。
その知らせを聞き、誰よりも強く危機感を抱いていたのは、後醍醐天皇政権の要職についていた足利尊氏です。
尊氏は、時行を討伐するため鎌倉への出陣を許可してもらうよう後醍醐天皇に願い出ます。
さらに尊氏は、警察権と軍事権を持った”総追補使”と、武士の棟梁”征夷大将軍”・・・二つの官職を与えてくれるよう強く求めました。
時行には、北条得宗家というブランドがありました。
そのブランドに対抗できる肩書が必要だったのです。
しかし、尊氏は、官職要求だけでなく、鎌倉への出陣さえ認められませんでした。

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後醍醐天皇は、時行を征伐した後、尊氏が新たな武家政権を作るのではないのか??と、疑ったのです。
尊氏が、頼朝と同じ官職を求めたことで、後醍醐天皇の中で疑念が生まれたからでした。
結果として尊氏は室町幕府を造ることになるわけですが・・・この時尊氏は、後醍醐天皇から好待遇を受けていたため、新たな幕府を開くことまでは考えていませんでした。
結局、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに勝手に鎌倉に向けて出陣します。

若君、再び逃げる・・・
京都を発った足利尊氏は、三河で弟の直義と合流し、鎌倉に向かいます。
一方、尊氏の進軍を聞いた鎌倉の時行らは、先手に出るべく軍を西へ向けて派遣することを決断します。
ところがその矢先・・・台風が鎌倉を襲い、強風により大仏殿が壊されます。
境内に避難していた時行の軍勢500人以上が下敷きとなって圧死してしまいました。
台風により鎌倉の町全体が、大きな被害を受けていました。

時行は、残った軍勢をなんとか西へ向かわせますが・・・
8月9日の遠江・橋本での敗戦を皮切りに、連戦連敗・・・
10日後には、尊氏らの軍に鎌倉を奪還されてしまいました。

尊氏軍の有力武将を討ち取るなど、時行軍は奮戦しました。
時行軍側に台風の被害が無ければ、どちらが勝ったかはわからない・・・そんな状況でした。
時の運に見放された時行軍は、奪還からわずか20日余りで鎌倉を明け渡すことになってしまいました。
さらに、この敗戦で、時行方の43人が自害。
人々は、時行もその中にいると思い込み、かつて鎌倉に君臨した北条得宗家・若君の早すぎる死に心を痛めたといいます。

しかし、時行は鎌倉から逃げ延びていました。
この時、自害したのは時行方の主だった武将43人。
その中には、時行の後ろ盾だった信濃の諏訪頼重もいました。
なんとか北条得宗家の嫡流・時行だけは逃げおおせるよう、彼等は自ら命を絶ったといいます。
さらに、京都から姿を消した時行の叔父・泰家は、この翌年に信濃で兵を挙げますが、その後、行方不明・・・戦死したと言われています。
北条得宗家の血をひく者は、時行ただ一人に・・・
そんな状況下で時行は足利尊氏と戦っていったのでしょうか?

若君の行方・・・
宿敵・足利尊氏により、再び鎌倉の地を追われることとなった北条時行は、その後しばらく足取りがわからなくなります。
時行はどこに逃れたのでしょうか?
確かな記録は残っていませんが、大きく二つの説が唱えられています。
①鎌倉から船に乗って伊豆国へ
船なら陸路より安全で、伊豆は北条得宗家の祖・時政が拠点としていました。
代々、北条家から手厚く保護されていたこともあって、安心して身を隠せたのかもしれません。
②一度目の逃亡の後、潜伏していた信濃国へ
その際、匿ってくれた諏訪頼重は鎌倉で自害していました。
しかし、孫は生きていたので、信濃国に潜伏していた可能性は高いと思われます。
信濃の伊那地方大鹿村に、時行が隠れていたという伝説が残っています。
桶谷という土地がりますが、王家谷が桶谷になったのでは??と言われています。
北条時行の子孫という人も、昭和まで大鹿村に住んでいました。
さらに、北条坂、北条道といった北条の名の地名まであったといいます。



打倒尊氏・・・
足利尊氏は、時行軍を破った後も、弟の直義と共に鎌倉に残り続けていました。
後醍醐天皇は、京都へ戻るように再三促しますが・・・尊氏たちはそれに応じません。
一説に、尊氏が鎌倉に残ったのは関東に潜む時行軍の残党の動きを見張るためだったと言われています。
僧とは知らず、尊氏の謀反を疑った後醍醐天皇は・・・尊氏らを討伐すべく、軍を鎌倉に派遣!!
ついに、後醍醐天皇と足利尊氏が決裂してしまいました。
やがて尊氏は京都を奪還!!
新しい天皇として光明天皇を擁立。
後醍醐天皇も大和国・吉野に新たな朝廷を開いたことで、二つの朝廷が対立する南北朝の内乱へと発展します。
鎌倉幕府を滅ぼした宿敵二人の分裂・・・
時行が大きな決断を下しました。
南朝の後醍醐天皇のもとに使者を送り、こう願い出ます。

”今までの我が罪をお許しいただいたうえで、南朝の軍勢に加えていただきたい”

時行は、鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐天皇の配下につくことを選びました。
父・高時が自害に追い込まれたのは高時自身に非があったからです。
尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人でした。
足利氏は代々北条得宗家から正室をもらっていました。
おまけに足利の当主は、嫡子の名に一字もらっていたのです。
足利家は、北条得宗家から目をかけられていたのに裏切った・・・そんな尊氏が許せなかったのです。

逃亡の果てに・・・
足利尊氏が打ち立てた京都の北朝と、後醍醐天皇が吉野に新たに開いた南朝が激しく対立する中、北条時行は打倒尊氏を胸に後醍醐天皇の配下につき、数々の戦に参戦。
その間、度々窮地に陥りましたが、持ち前の逃げ上手の才能を生かし、何とか生き延びていました。
この時、時行は9歳ぐらいだったと言われています。
しかし・・・1339年、後醍醐天皇が崩御すると、南朝は急速に弱体化。
併せて時行の動きも鈍くなり、やがて10年以上、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。



再び登場するのは、1352年、時行、24歳ごろのこと・・・。
この時、北朝方の室町幕府は、尊氏と弟・直義が対立、内乱状態にありました。
そんな中、尊氏が鎌倉にいる直義を討つべく出陣すると、その隙に南朝軍が京都を制圧。
南朝軍は同時に鎌倉を奪還すべく、進軍していました。
その鎌倉へ向かう南朝軍の中に、時行がいました。
南朝軍は、一度は鎌倉を制圧しますが、10日ほどで尊氏に奪い返され敗北!!
時行はこの時も、なんとか逃げ延びます。

1353年5月・・・逃げ上手な時行が、ついに尊氏軍に捕らえられてしまいました。
そして、5月20日、時行は家臣らと共に鎌倉郊外の刑場で処刑され、北条得宗家再興の夢はついえたのです。

鎌倉幕府滅亡から20年の歳月が経とうとしていました。

北条時行の起こした中先代の乱は、時代の大きなターニングポイントとなりました。
時行を討つために、足利尊氏が鎌倉に向かったことが、後醍醐天皇とたもとを分かち、やがて尊氏が新たな武家政権・室町幕府を開く大きなきっかけとなったからです。
打倒尊氏を掲げていた時行が、皮肉にも尊氏の世を作る原動力となってしまいました。
逃げ上手の若君は、悲運の若君でもありました。


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