Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

2022年09月

この記事では今からジャスト40年前、1982年の経済を先ずは振り返ってみる。そこには結構興味深い所もあったりする。主要先進国の経済動向は停滞が続いていた。
1979年の第2次オイルショックに端を発する、インフレ対策にエネルギーを割く破目になり、金利は上昇を続けた。アメリカでは高金利の影響で民間住宅投資や設備投資は激しく落ち込み停滞した。対外輸出も高金利からのドル独歩高という流れで減退する等、ほぼ年間を通じて景気は停滞した。


西欧ではUKで後半に緩やかな景気回復過程にあった模様だが、西ドイツではほぼ年間を通じて景気停滞が続いた。フランスでは前半では積極的景気拡大政策がとられたが、インフレが進み悪影響が起きて、後半は緊縮政策への転換を余儀なくされた。(どこでも歴史は繰り返す

これも翌83年にはUSUK西ドイツで景気回復の兆しが現れたが、フランスイタリアが足を引っ張った。とはいえ、ベトナム戦争の失敗∔製造業の構造的行き詰まり∔第二次オイルショック→インフレという病を抱えたアメリカ経済の不振は70年代後半から10年を超える期間に渡り続く事になった。

原油市場の動向だが、80年代に入っての需給バランス緩和の流れは続いて、82年も消費国の石油輸入・消費が減少を続けた。非OPEC側で増産傾向でOPEC側で減産傾向だった。原油価格は低下傾向が続き、OPEC側で設定した価格と非OPEC側で作られた相場の間に乖離が生じ広がる傾向になった。
(この段は1982年の年次世界経済報告を参考)


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この年、日本の災害はというと…
7月23~24日に長崎大水害が起きた。この年の梅雨入りは遅く、7月上旬までは雨量は少なく冷夏傾向でもあった。それが7月10日頃から一転、西日本を中心に大雨が続いた。7月中旬の10日間で積算雨量が1000㎜に達した地点もあった。23日から25日にかけては、低気圧が相次いで西日本を通過し、梅雨前線の活動が活発化した。長与では時間雨量187㎜、2時間雨量で286㎜6といずれも当時の記録を更新する雨量を記録、長崎海洋気象台で24時間雨量527㎜を観測する等の記録的豪雨となった。


その約1週間後にはこの年の台風10号(国際名はBess)が上陸した。上述の豪雨とこの台風で死者が合計400人に上った。この10号は7月23日に日本の南東海上で発生して発達を続け、29日には中心気圧900hPa・最大風速65m/sにまで成長。8月1日に紀伊半島東側を通り、日付が変わる辺りで渥美半島に上陸。東海・北陸地方を縦断して日本海に抜けて津軽海峡を東進し、道南・道東を掠めて太平洋に抜けていった。 石廊崎で10mを越える高波を記録し、近畿地方・北陸地方・関東地方で被害が大きく、全国の死者・行方不明者は95人、被害額は約6000億円(当時の金で)となった。

豪雨大水害なんて夏の風物詩みたいなモンだというであろう。夏から秋口の豪雨なんて昔からあったのだ。歩く西瓜みたいな奴等が殊更に騒ぎ立て恐怖を煽っているという部分が大きいと思わなければならないが、外面はエコ踊りして緑・環境と教条主義で叫んでおいて、中身は原始共産主義だったりする西瓜どもだが、そこにはユダヤ教やキリスト教のカルト的原理主義がベッタリガッチリくっ付いているので注意が必要だ。環境だ脱炭素だと現実的でない事でも教条主義的に叫び続ける人間が多い事にも納得が行く。カルトも共産主義も、教条主義と原理主義の塊みたいな所が抑々ある。

北海道・日高地域で大地震が起きた。浦河沖地震とも呼ばれ、3月21日午前11時32分、浦河町南西沖・深さ10㎞を震源とする地震が発生したマグニチュードは7.1。静内町(現・新ひだか町)から様似町にかけての地域で震度5以上となり、様似町では震度6を記録した箇所もあった。負傷者は167名、住宅被害は716棟。この本震の8時間後に起きたマグニチュード5.8(浦河で震度4)の地震が最大の余震だった。浦河・室蘭の両港湾に被害が出て、そこだけで被害額は3.5億円程になったという。

北海道では北海道炭鉱汽船子会社の北炭夕張炭鉱が運営する夕張新炭鉱が10月9日に閉山となった。この5年前=77年に夕張炭鉱は閉山、2年前=80年には清水沢炭鉱が閉山。夕張新炭鉱閉鎖の5年後=87年に真谷地炭鉱は閉山、更にその2年後に幌内炭鉱が閉山している。95年になると日本最後の炭鉱=空知炭鉱が閉山して日本から炭鉱が消滅した。

夕張新炭鉱では81年10月にガス突出事故が起きて、93人が死亡した。この炭鉱事故は戦後でも3番目に多い犠牲者を出している。そしてこれがこの炭鉱の事実上の死亡診断書となった。
運営者である北炭夕張炭鉱株式会社は閉山に先駆けて、同年末に会社更生法の適用を申請した。


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三越事件というのを御存知か?当時は映画や小説の題材にされる様な事件だった。
老舗名門百貨店だった三越の社長に、創業300年という記念の年である1972年から座った岡田茂氏、自分に批判的な人物を次々と追い出して早々と独裁体制を築いて天皇と呼ばれる様になる。岡田氏の最大のライバルが、常務だった坂倉芳明氏だったが、同氏もパージを喰らい西武百貨店に移った。(1986年に三越へ社長として復帰)


そしてこの手の経営者にありがちなパターンだが、取引業者への不当な協賛金要求や押しつけ販売、社員派遣要求を行い・催し物の費用負担まで強要していた。これで結局、独占禁止法第19条=優越的地位濫用の審決を1982年6月に受ける事になった。
三越契約配送業者だった大和運輸(現・ヤマトHD)は映画前売券などの購入を強要された事に加えて、配送料金の値上げを拒否された事で、1979年2月に三越との配送契約を解除している。(復活したのは2010年)


そして不明瞭な経理処理によって会社を私物化し、結果として会社に大きな損失を齎した。
岡田社長の愛人になった竹久みち(小島未知子)女史も三越内で存在感を強め「三越の女帝」とまで呼ばれ、人事に口を出す所まで行った。この竹久という女性は、抑々服飾デザイナーだったが、銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し、上野松坂屋や銀座松坂屋などの大手百貨店とも取引きを始める。アクセサリーの専門家としてメディアにも露出する様になる。岡田氏の愛人にまでなったその馴初めはジャーナリストの恩田貢氏の紹介だったらしい。


岡田氏の寵愛を愛人として得るようにった同女史は、最初は三越本店にアクセサリーコーナーを持つだけだったのが次第にテリトリーを広げ、自身が経営する「アクセサリーたけひさ」は岡田の手引きで不当な多額の利益を計上する得ていた。この事件を最初に炙り出したのが、1982年4月の週刊朝日=「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事。

1982年8月、日本橋本店で「古代ペルシア秘宝展」が開催され、古美術47点が出品された。開幕直後からこれら美術品の大半が贋作であるとの非難の声が専門家から挙がった。 この展覧会を事実上仕切ったのは、岡田氏と親密な関係にあった国際美術の渡邊社長だったが、同氏はこの古美術のほぼ全てが贋作だと始めから知っていたのが明らかになっていた。この事実が朝日新聞社の報道により判明し、古美術の一部には億単位の価格が付けられていた事も相まって、大きなスキャンダルになった。

岡田氏は不祥事の引責辞任を迫られたが当然これを拒否。そうすると、当時の三井銀行相談役以下、三井グループの幹部や三越内部の反岡田派が結束して岡田おろしのムーヴメントを起こした。斯くして同年9月の取締役会で岡田氏の社長職・代表権を解く動議が出され、全員一致で可決成立し同氏は非常勤取締役に降格となった。解任が決定した後に呟いた「何故だ?」はこの年の流行語になった。

更に岡田・竹久の両名は特別背任容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、結局実刑判決を受けた。岡田氏は1審2審で懲役3年の判決を受けて最高裁に上告したが、上告中の1995年7月腎不全で死去して公訴棄却となった。享年80歳だった。
竹久女史も最高裁まで争ったが、結果的に懲役2年6月+罰金6,000万円の実刑判決が確定。栃木刑務所で18ヶ月服役し、出所後に新たな会社を設立しアートフラワーの販売を続けた。2009年7月に病死、享年79歳だった。


次回=Chapter 54へと続く!



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チュウ獄の奴隷であるリンホウセイ(林芳正・自称外務大臣)が、安倍晋三元首相の国葬儀から台湾を排除した。「台湾有事は日本有事」として築いた緊密な日台関係は安倍政権の重要レガシィの一つ。それを自民党政権を担う一員でありながら、完全にちゃぶ台返し。
今日の国葬儀は安倍晋三元首相の国葬、なのに故人の業績と遺志を正面から堂々と蹂躙するこの行為を許す事など絶対に出来ないテメェこそ今直ぐ斬奸喰らえ!と言いたい。
「一つの中国」を厳守するという美名を付けるのであろうが、チュウ獄に阿り、台湾の総統=蔡英文(Ts'ai Ing-Wen)女史及び副総統=頼清徳(Lai Ching-Te)氏に対し事実上の訪問禁止を通達し、指名献花には入れるものの名前は読み上げない。台湾代表の訪問者は国葬儀後の迎賓館での懇談会からは完全に排除という、今や事実上の同盟国の一つとも言える台湾の代表者相手にこの上ない非礼。


外務大臣を自称する、国賊クソブタのリンホウセイはハニトラ・マネトラに嵌りまくって、チュウ獄狂惨党の事実上の工作員になって長い。Lai氏は7月に安倍氏の弔問に来日した、その際にもこのクソブタは、台湾からお越しになった副総統について「御指摘の人物」と名前肩書すら呼ばないという非礼極まりない表現をした。リンホウセイとかいう売国奴は人間として腐り過ぎているとしか言い様がない。

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安倍氏を国賊と言った、村上誠一郎代議士のその発言は反党行為であろう。本来なら最低でも党員資格停止、離党勧告や除名でもおかしくないレベル。
第一、国賊の下で選挙に勝って議席を得ているテメェも十分に国賊という事になる。(因みに、村上氏の義弟がジャスコ岡田こと岡田克也氏)
どうして自民党は媚中だらけで、悪貨が良貨を駆逐してアタオカの塊に成り下がり、しかも左傾化しているのか?
これは失われた30年が深く関与していると指摘されてもいる。岩田温氏の指摘を基に書くと、日本は戦後の復興から一時は世界一の経済大国になったが、アメリカにバブルをやらされて「Japan as No.1」なんて浮かれていたら、その後に潰されて未だに立ち直れない。こういう流れの中で、自民党では一気に反米媚中が広がったというのだ。


アメリカからは自称副大統領というゴキブリが来てしまった。左翼に操られるしかないボケ爺と無能のゴキブリが大統領・副大統領なのである。アメリカ社会の左傾化∔共産化∔劣化堕落は深刻であるとしか言い様がない。。
そんな中、スウェーデンでは与党だった社会民主労働党その他の左派が総選挙で僅差ながら敗れて、政権を失う公算が高い。(首相のMagdalena Andersson女史は既に辞意表明)
イタリアでも戦後一貫して政権を獲ってきた左派が遂に政権を失った。グローバリズム+全体主義+「リベラル」の塊でしかない欧州共同体が、ここから崩壊に向かう流れが加速するなら非常にめでたい!それが人類のためである!
今こそマジで、Stop!共産化である。


昨日26日の時点で、新宿辺りでは左翼系の集団が、国葬反対の集会を開いていた。27日当日に国葬反対の悪足掻きデモ集会も計画されていた様だ。そしてもう御存知であろうが、本日27日、国会前・日比谷公園・武道館周辺等々都内各地で「弔意の強制だ」「税金使うな」といって、とてもアベガー(Abeger?)な国葬反対デモ行進が行われてしまった。
中でも国会前で14時頃から行われたデモには狂惨党のC和夫委員長が参加して、「国民の6割以上が反対を声を挙げているにもかかわらず国葬を強行している」「戦いはこれからだ」「国葬は憲法違反だ。法の下の平等に反して、死者を最悪の形で政治利用するものであって、絶対に許す訳にいかない」「安倍政権こそが戦後最悪の政権だ」「戦いはこれからだ。理不尽なことは理不尽だと声を上げ続けよう」等々と、とてもアンポンタンな事をほざいていた。

その一方、九段坂公園に設けられた一般向けの献花台には午前中から長蛇の列が出来て、その長さは最大で5㎞を超えた。受付終了予定16時という所が、最終的に20時頃まで延長された様である。待ち時間は最大で5時間を超え、献花に訪れた一般弔問客も5万人を楽に超えた模様。
運営側もこれは想定外だったと思われるが、献花の場所が九段坂公園だけだったというのはまずかった。竹橋御門跡や千鳥ヶ淵辺りに最低でももう1箇所2箇所は設けるべきだったのではないか?
国葬儀の弔辞は。友人代表という事で前総理のガースー氏が読み上げた。(弔辞の内容も載せたいが、記事が長くなってしまうので略する。)

安倍氏を偲んで、今度の国会で追悼演説を行うなら、そこはDonald J. Trump氏しかない!トラ様においで願う、それ一択である!トラ様は畏くも前職のアメリカ大統領、これで一気に解決である。
元総理と前大統領は、保守を以てそれぞれの国、更には自由と民主主義を護り、全体主義・凶産主義に対抗しようと力を尽くした盟友同士である。世界で自由と民主主義を希求し、それぞれの国と民族を愛し誇りを持つ人々の良心を揺さぶるスピーチが生れる予感しかない


※この記事は、岩田温氏・改憲民主党氏・及川幸久氏・チャンネルくらら・闇のクマさん世界のネットニュースその他のソースを参考にさせて頂く形で書いている。



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1982年というとどんな世相だったか?
実は70年代からの校内暴力の嵐がまだまだ吹き荒れていた時期だった。この年も3月の卒業式シーズン、全国637の中学・高校で警察官の立ち入り警戒が行われた。
1960年代を中心に、安保闘争を中心とした新左翼運動・学生運動の中で「革命という美名」の付いた暴力肯定の潮流が勃興蔓延した後に、70年代中盤以降は大学に蔓延した暴力至上主義みたいなものが、下の年代に移って行ったのが、校内暴力の源流の一つであったと言われる。大学が大人しく静かになって行ったのと引き換えに、高校以下が暴力化したとも言えるだろうか?


目の前の現実が少しでも気に入らないなら、それを変えるなら暴力で人を殺めても全然OKという風潮が、高校生~中学生~小学生とドンドン広がったのが校内暴力の基盤にあったと見られ、それはレーニン主義・スターリン主義・毛沢東主義なんてあたりにガチャコーン!という具合に上手く野蛮にピッタリ接続していたと思われる。
左翼は暴力で現実を変える事に生き甲斐を求めている生き物であるから。


70年代から続いていたといえば、ロッキード事件で1月26日に全日空ルート公判の判決が言い渡され、若狭得治・渡辺尚次の両氏含めて全日空役員だった6人に有罪判決(執行猶予あり)。6月8日には同ルートでの政治家被告人に初の判決公判。橋本登美三郎・佐藤孝行の両氏に有罪判決。(こちらも執行猶予あり)
国鉄・電電・専売という3公社の分割・民営化や省庁の統廃合などが、第3次臨調の答申にて提言されたのはこの年。


6月16日には厚生省が清涼飲料水の容器にPET樹脂の使用を認可して、今では当たり前になったペットボトルが誕生
この年、SONYとPhilipsが共同開発したデジタル化した音楽媒体のフォーマット、つまりCDが陽の目を見る。8月17日、西ドイツはHannover(ハノーファー)のPolyGram(ポリグラム)の工場で初の音楽CDが生産される。(商用CDとして最初に生産されたのはABBAの「The Visitors」)
10月1日には日本のメーカーが世界初のCDプレイヤーをリリースした。その時出されたのはSONYのCDP-101、日立(Lo-D)のDAD-1000、DENONのDCD-2000である。CBSソニー・EpicソニーからCDも発売となった。


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11月には鈴木善幸内閣が退陣、中曽根康弘氏が首相に就任し、ここから87年秋まで5年間政権を守った。
鈴木内閣は鈴木行革、緊縮財政の徹底を推し進めたものの、目覚しい成果は得られず、アメリカとの関係も悪化させた事もあり、人気が上がらなかった。後述するが、インフレと経済停滞に加えて緊縮財政と来たら、政権は2年程で詰んだ。鈴木善幸氏は社会党から政界入りして、自民党に移って宏池会のメンバーになった。
それから40年の今、宏池会+インフレ+経済停滞+緊縮財政って、歴史は繰り返すとしか言い様がない。


自民党では9月28日にこの年の総裁選の日程が発表された。10月頭の時点で鈴木氏再選は固いと言われていたが、10月12日に鈴木氏が不出馬を表明した。そこで田中角栄氏が同日夜記者会見を開き、「後継者は中曽根だ。3日後の15日、両院議員総会を開いて決定する」と発表した。自民党内でこれに反対する勢力は即座に臨戦態勢を敷いた。

この後、選挙は避けて話し合いで後継を決めるという方向で党幹部の協議は一致し、最高顧問会議での議論を経て鈴木善幸氏・二階堂進氏=党幹事長、最高顧問代表=福田赳夫氏という3名で話し合いが始まったが、結論は出ずに告示日=16日を迎えた。斯くして中曾根康弘・河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎の4氏による総裁選がスタートしたが、告示後も調整(話し合い)を進める事を優先し、告示後最初の1週間は選挙活動を禁止するというアタオカワケワカな展開に。

約1ヶ月の選挙戦を経て、11月24日に予備選挙が行われ、その結果中曽根・河本・安倍の3氏で本選挙が行われる筈だった。しかし、河本・安倍の両氏は本選を辞退し、中曽根氏の当選が本選挙を行う事なく決まった。予備選の段階で中曽根氏が57%という過半数を大きく超える得票率を得たのでこの時点で勝負ありだった。田中角栄というキングメーカー及び田中派の影響力の凄さは相も変わらずだった。

総理と官房長官は同一派閥というのが普通だが中曽根内閣では田中派の後藤田正晴氏が官房長官になった。(82年11月~83年12月並び85年12月~87年11月)
第1次内閣の法務大臣にも田中角栄に近くロッキード裁判に批判的だった秦野章氏(元・警視総監)を起用する等、田中角栄氏の影響力が鈴木内閣以上に増したと批判されて、鈴木内閣が「角影内閣」と揶揄されたのに対し、中曽根内閣は「田中曽根内閣」「直角内閣」と揶揄されるのであった。


次回=Chapter 53へと続く!



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この記事では日本の野球以外のスポーツから取り上げる。

ラグビーでは1月15日に旧国立競技場で行われた日本選手権で新日鉄釜石(現・釜石Seawaves)が明治大学を30対14で下し、日本選手権4連覇、最終的には7連覇まで伸ばす。この試合残り6分の時点で明大は15-14と1点差に迫っていたが、そこから釜石は5分間で2T∔2G∔1PG=15点を追加し一気にケリを付けた。
この時代の「北の鉄人」と称えられた新日鉄釜石は、松尾雄治、洞口孝治、千田美智仁、森重隆、小林日出夫、石山次郎、高橋博行といった辺りのタレントを擁して無双していた。


大相撲では千代の富士時代になっていた。6場所中、初場所は北の湖敏満、秋場所は隆の里俊英が制したものの、他の4場所は千代の富士貢が制して、年間トータルでも74勝16敗と安定した強さを示していた。北の湖が秋場所で通算勝ち星を873に伸ばし、当時の歴代最多記録を更新した。

日本のゴルフでは男子ツアー賞金王は中嶋常幸、女子ツアー賞金女王は涂阿玉

1982年というと日本のサッカーはプロ化の約10年前で、70年代のブームが終った後、人気が盛り上がらずまだまだマイナーだった。
サッカー元日決戦=天皇杯全日本サッカー選手権・決勝は旧・国立競技場で行われ、81年のJSL2部を制していた日本鋼管読売クラブを2-0で下して初優勝した。
JSL(日本サッカーリーグ)1部は三菱重工(浦和の前身)が優勝。2部はヤマハ発動機(磐田の前身)


第15回全日本バレーボール選抜男女リーグ(要するに日本リーグ)は81年12月から82年3月に掛けて行われ、男子の優勝は富士フィルム、2位は新日鐵、3位は専売広島(専売なんて懐かしい!)。女子は日立が優勝、2位はユニチカ、3位は東洋紡だった。MVPに輝いたのは男子=山田修司、女子=江上由美


ここからは海外のスポーツに目を転じる。
この年は先ずは何と言ってもFIFAワールドカップ・スペイン大会
Golden Quartet(黄金のカルテット)=Roberto Falcão・Zico・Toninho Cerezo・Sócratesを擁し本命視されたブラジルだが、2次リーグ止まりだった。この2次リーグのグループCはイタリアブラジルアルゼンチンという組み合わせになり、イタリアが2勝0敗で準決勝に進んだ。
準決勝=7月8日ではイタリアがポーランドを、西ドイツフランスをそれぞれ下した。3位決定戦=7月10日ではポーランドフランスを下した。決勝戦=7月11日はイタリア西ドイツを下して3回目の優勝、Paolo Rossi(パオロ・ロッシ)が得点王∔MVPになった。


この年はバレーボールの世界選手権も行われ、男子の大会はアルゼンチンで開催され、女子の大会はペルーで開かれた。
男子の優勝はソヴィエト連邦、2位はブラジル、3位はアルゼンチン。日本は惜しくも4位だった。
女子の優勝はチュウ獄、2位はペルー、3位はアメリカ。日本はこちらも4位だった


プロテニスでは、Mats Wilander(マッツ・ヴィランデル)が18歳でFrench Open(全仏オープン)を制した。Jimmy Connors(ジミー・コナーズ)がWimbledon(ウィンブルドン選手権)及びUS Open(全米オープン)の2冠に輝いた。Australian OpenはJohan Kriek(ヨハン・クリーク)が制し、連覇を達成した。



ゴルフ界では2月28日に、岡本綾子がLPGA公式戦初優勝を達成。
メジャータイトルとその覇者は次の通りである。
The Masters・PGA賞金王=Craig Stadler(クレイグ・スタドラ―・2冠)、The Open・U.S. Open=Tom Watson(トム・ワトソン・2冠)、PGA Championship=Raymond Floyd(レイモンド・フロイド)
Women's PGA Championship=Jan L. Stephenson(ジャン・スティーブンソン)、U.S. Women's Open=Janet Anderson(ジャネット・アンダーソン)、La Canadienne=Sandra Haynie(サンドラ・ヘイニー)、LPGA賞金女王=JoAnne Carner(ジョアンヌ・カーナー)



NBAでは1月31日のオールスターゲームはEastが120ー118でWestに勝利、Larry Bird(BOS)がMVPを獲得した。5月27日に開幕したThe Finalsに於てはLA Lakersが4勝2敗でPhiladelphia 76ersを下して8回目のNBAチャンピオンに輝いた。(Minneapolis時代からの通算)

NHLでは、Stanley CupでNY IslandersがVancouver Canucks相手に4勝0敗=スウィープ。このチームにとって80年代前半は唯一の黄金期無双状態で、スタンレーカップも4連覇していた。

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日本プロ野球では西武ライオンズが時代を変える快進撃を見せたが、アメリカのNFLでもゲームチェンジャーが新たな時代の幕を開けたと言える。そのゲームチェンジャーの名は、Joe Montana(ジョー・モンタナ)様を擁したSan Francisco 49ers(サン・フランシスコ・フォーティーナイナーズ)である。

1982年1月24日にMichigan州はPontiac(ポンティアック=Detroit近郊にある)のSilverdome(シルヴァードーム)でSuper Bowl XVI(スーパーボウル16)が行われ、SF 49ersCincinnati Bengalsを26ー21で下した。MVPは勿論モンタナ様だった。因みにこれがアメリカでも北部寒冷地域で行われた最初のスーパーボウルだった。(季節柄、南部で行われる事が多い)又、伝説の指導者だったJohn Madden(ジョン・マッデン)氏が初めてSuper BowlのTV解説をしたのもこの試合。

この試合だが、SFが2Q終了時点で(Halftime)20対0とリードした。後半はベンガルズの猛反撃に遭ったが、4Qに2本のFGを追加して何とか逃げ切った。TD数は49ersが2に対し、Bengalsは3と上回ったが、4つのFGで12点を稼いだSFが勝利。Super Bowlに於て、TD数で上回った方が敗れるというケースはこれが唯一の模様。

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ここからSF 49ersは"Team of the 80s"という称号を手にする所まで登り詰めたのである。チャンピオンになる2年前のシーズンは2勝14敗という惨憺たる成績で、1年前のシーズンも6勝10敗だった。そんなチームがSuper Bowl初出場まで辿り着くだけでも驚きを以って見られたのだが、更に勝利してSuper Bowl初制覇というのだからアメリカどころか世界がビックリというものであった。
49ersは80年代の内にSuper Bowl16・19・23・24と4回のスーパーボウル制覇、80年代のこのチームには攻守で秀逸なタレントが揃っていた上に、非常にシステマティックなフットボールを行っていた。ショートパスを多用する戦術を採る事も多かったと小生は記憶している


1989年1月のSuper Bowl XXⅢの土壇場で見せつけた、あの"The Montana Drive"を筆頭に、数多くのMontana Magic→「逆転の49ers」は神の一言しかない!
小生の世代にとってフットボールというと、何と言っても「神様・仏様・モンタナ様」なのである!

ここからは更に他のスポーツの話をする。
モータースポーツの事を纏めると、
Indy Car SeriesではシリーズチャンピオンはRick R. Mears(リック・メアーズ)、新人王(Rookie of the Year)はRobert Rahal(ボビー・レイホール)
Indy 500を制したのはGordon Johncock(ゴードン・ジョンコック)
WRC(World Rally Championship)のチャンピオンはドライヴァーはドイツのWalter Röhrl(ウォルター・ロール)、マニュファクチャラーはAudiだった。
24 Heures du Mans(ル・マン24時間)では、Jacky Ickx(ジャッキー・イクス)+Derek R. Bell MBE(デレック・ベル)のコンビが、24hの間に4899.086kmを平均速度204.128km/hで走って優勝した


F1ではChapter 47~49でも述べた通りに、16戦で11人のウィナーが出て、最高でも2勝という異常な展開の中で、Keijo Erik Rosberg(ケケ・ロズベルグ)がチャンピオンになった。獲得ポイントは44、勝利数は1勝。
この年に複数勝利を挙げたのは3人だったが、奇しくも全員がフランス人=Alain ProstDidier PironiRené Arnoux



チャリの世界に目を転じると、Leicester(レスター)で行われたUCI World Championships(世界選手権自転車競技大会)・トラックレースの、プロ・スプリント競技で中野浩一が6連覇を達成した。国際競輪がスタートしたのもこの年で、日本の競輪に外国人選手が出場する様になった。
ロードレースでは、Giro d'Italia(ジロ・ディタリア)並びLe Tour de France(ル・トゥール・ドゥ・フランス)の2冠に輝いたのがフランスの英雄の1人であるBernard Hinault(ベルナール・イノー)
因みに彼はそのキャリアに於てジロは3回優勝、Tourは5回も優勝して、La Vuelta Ciclista a España(ラ・ブエルタ・ア・エスパニャ)も2回制しているので、そこら辺の糞チャリカスとは無論訳が違う。


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MLBの話をすると、この年はSaint Louis Cardinals(セントルイス・カーディナルズ)が頂点に立った。
ALCSは東地区のMilwaukee Brewers(当時はALにいた)対西地区のCalifornia Angelsの対戦となったが、Milwaukeeが3勝2敗で制した。NLCSは東のSt. Louis Cardsと西のAtlanta Bravesが闘って、St. Louisが3勝0敗とスウィープした。


そして迎えたWorld Seriesは4勝3敗でSt. Louisが勝利した。
Cardsのキャッチャー=Darrell R. Porter(ダレル・ポーター)がNLCSとWSの両方でMVP獲得した
Milwaukee側では、Paul L. Molitor(ポール ・モリタ―)、Robin R. Yount(ロビン・ヨウント)というレジェンダリーなメンツに加え、この年ホームラン王のGorman Thomas(ゴーマン・トーマス)、後に近鉄バファローズに加わるBenjamin A. Oglivie(ベンジャミン・オグリビー)とかDonald W. Money(ドン・マネー)なんていう名前があった。
St. Louis側ではBruce Sutter(ブルース・スーター)、Willie D. McGee(ウィリー・マギー)、Ozzy E. Smith(オジー・スミス)、Thomas M. Herr(トム・ハー)といったタレントがいた。後にやはり近鉄でプレイしたDavid Green(デイヴィッド・グリーン=今年2月死去)もこの中にいたから近鉄密度の濃いWSっだと言えるか?。この時代のSt. Louisの野手は俊足好打系が多く、そこに加えて投手力で少ない点を守り勝つ試合も得意にしていた様な印象がある。


Calvin E. Ripken Jr.(カル・リプケンJr=BAL)の2632試合連続出場の世界記録は1998年9月20日に達成されるが、その始まりがこの年の5月30日だった。6月のドラフトではDwight Gooden(ドゥワイト・グッデン)、Mike Greenwell(マイク・グリーンウェル=後に阪神)、José Canseco(ホセ・カンセコ)、Patrick Borders(パット・ボーダーズ)、Vince Coleman(ヴィンス・コゥルマン)、Alvin Davis(アルヴィン・デイヴィズ=後に近鉄)、James C. Jones(ジミー・ジョーンズ=後に巨人軍)といった所が指名を受けてプロ入りした。
7月のオールスターゲームでは2-1でナショナルリーグが勝利し、MVPはDavid I. Concepción(デイヴ・コンセプシオン=CIN)だった。
MLB.comの記者・Matt Monagan(マット・モナガン)の2021年10月の投稿によると、2021年シーズン終了時点で、1982年以降のWSには毎回John Smoltz(ジョン・スモルツ)のチームメイト経験者が出場している。スモルツは1988年プロ入りだが、これはWSに出場した後でSmoltzのチームメイトを経験する人間も含んでという話である。J. Smoltsは既に殿堂入りしている名投手で、22シーズンで213勝+154S+3084奪三振を記録している。


最後に両リーグのタイトルホルダーを挙げて行く
ナショナルリーグ:首位打者・最多安打=Albert Oliver, Jr.(アル・オリヴァー=MON)、ホームラン王=David A. Kingman(デイヴ・キングマン=NYM)、打点王=Dale Murphy(デイル・マーフィー=ATL)・Albert Oliver, Jr.、最多勝・最多奪三振=Stetven N. Carlton(スティーヴ・カールトン=PHI)、最優秀防御率=Stephen D. Rogers(スティーヴ・ロジャーズ=MON)、セーブ王=Bruce SutterSTL


アメリカンリーグ:首位打者=Willie J. Wilson(ウィリー・ウィルソン=KC)、ホームラン王=J. Gorman ThomasMIL)・Reggie M. Jackson(レジ―・ジャクソン=CAL)、打点王=Harold A. McRae(ハロルド・マクレー=KC)、最多安打=Robin R. YountMIL)最多勝=D. LaMarr Hoyt(ラマー・ホイト=CWS)、最多奪三振=Floyd Bannister(フロイド・バニスター=SEA→後にヤクルト)、最優秀防御率=Richard L. Sutcliffe(リチャード・サトクリフ=CLE)、セーブ王=Daniel R. Quisenberry(ダニエル・クイゼンベリー=KC

次回=Chapter 52へと続く!



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この企画、大台に乗るChapter 50からはスポーツの色々な事を取り上げて行くが、先ずは日本国内の野球の話から。(※この記事=全て敬称略

セントラルリーグでは中日ドラゴンズが最終戦でリーグ優勝を決めた=10月18日
10月9日の時点で巨人軍が最終戦で横浜大洋ホエールズ相手に敗戦し、中日に残り8試合でマジック5になった。そこから残り8試合全部使って漸くリーグ優勝を決めた事になる。優勝決定試合は横浜で行われたホエールズ戦だったが、この試合では田尾安志の5打席連続敬遠という事も起きた、これで彼の首位打者の夢は潰えたが、最多安打と最高出塁率には輝いた(首位打者は長崎啓二
この年のドラゴンズは64勝しかしていないのに、66勝の巨人軍を退けて優勝出来たのはこの年19回という引分の異様な多さが原因だった。(1986年の同リーグでも非常に似た事が起きた)
セントラルリーグMVPは中尾孝義


プロ野球では何と言っても、時代の変わる大きな波がこの年訪れた。超強力なゲームチェンジャーとしてその波を作ったのは西武ライオンズ
福岡野球(クラウンライター・ライオンズ)を国土計画が買収し、1979年に西武ライオンズとしてリスタートして4年目の事だった。監督を前任の根本陸夫(管理部長に転身)から広岡達朗にスウィッチして管理野球を徹底、主食を全て玄米にする等した。その効果もあって?球団移転後の初のリーグ優勝、更には日本シリーズも制した。斯くしてここから90年代前半まで10年を超える、伝説の黄金時代を迎える事となった。この年の広岡達朗は正力松太郎賞を受賞。

前期優勝となった西武ライオンズは後期優勝の日本ハムファイターズ(前年リーグ優勝)相手にプレイオフを戦った。当時日公のクローザーだった江夏豊を2試合連続で攻略する事にも成功し、3勝1敗でプレイオフを制してリーグ優勝を先ずは達成した。
その後の日本シリーズでは、先ず名古屋で連勝したが本拠地所沢で連敗。その後の「石ころ事件」の起きた第5戦は勝って、名古屋での第6戦、4点を先行したが追い付かれた。終盤に鈴木孝政その他を打ち込んで勝利した。名古屋では3勝0敗だった。第5戦の「石ころ事件」で中日側の当事者だった田尾安志(ランナー)・平野謙(バッター)共々後に西武のメンバーになって日本一も経験しているのはironicというか皮肉である。


この時のライオンズのメンバーというと…
先ずオリジナルメンバーとも呼ぶべき、田淵幸一・山崎裕之・太田卓司・立花義家・行澤久隆・鈴木葉留彦・東尾修・森繁和・永射保・柴田保光という所に、Steve Ontiveros・Terry Whitfieldの外国人、この年新加入の片平晋作・黒田正宏・高橋直樹。
若手・中堅どころで石毛宏典・広橋公寿(現・岩隈久志のウト)・西岡良洋・岡村隆則・蓬莱昭彦・松沼博久/雅之・杉本正・小野和幸・小林誠二、更にここに加えてルーキーだった金森栄治・伊東勤・工藤公康という辺りだった。


西武ライオンズはこの翌年=1983年の日本シリーズで念願の相手だった?巨人軍と対戦。今でも伝説となっているこの対決を4勝3敗で制して2年連続の日本一を達成。時代を一気に引き寄せた形になった。


この時代のオールスターゲームは3試合制で、この年は3試合ともパシフィックのホームゲーム。結果は1勝1敗1引き分けと綺麗に揃う形になった。

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今やYoiuTuber石毛宏典氏のサインボール・40年の歳月で色あせてかなり黄ばんでいる

この年4月には山田久志が200勝を達成。5月には松永浩美がプロ野球で日本人選手初の左右打席ホームランを記録、大杉勝男が450HR達成、有藤通世が300HRに到達。6月に山本浩二が400HRに到達。7月には江夏豊が200勝達成。8月には横浜スタジアムで審判集団暴行事件が勃発(やらかしたのは阪神タイガースのコーチだった島野育夫・柴田猛

この年引退した主だった選手は、星野仙一竹之内雅史山口高志白石静生柳田俊郎高井保広佐々木恭介木俣達彦富田勝上田次郎福士敬章渡辺秀武奥江栄幸という所。

落合博満が自身初の3冠王獲得+最多安打∔リーグMVP、但し前年に首位打者獲得した時より打率とホームランは数字が下がった。(1981年=.326・33HR・90RBI、1982年=.325・32HR・99RBI)
この年の年俸は実質800万程度でタイトル料200万を足して1000万、5年活躍しないと年俸が上がらないという時代だったらしい。(本人のYouTubeでの証言)(ただ、この年の年俸は1600万円とする記述は多い)
この部分については40年前の事とはいえ、1600万でも安過ぎなのに、若し1000万円だとしたらそれはさすがにあり得ないと思われるので、本人の記憶違いではないかとも考えられる。
彼はこの1度目の3冠王で、5400万円程(推定)に到達。さらに数年後に年俸1億を達成し、日本人初の1億円プレイヤーという称号を手に入れて、この大台が当たり前になるきっかけを作った。


この年の新人王は津田恒美大石大二郎、セントラルでは掛布雅之が3冠王こそならなかったが、ホームラン∔打点の2冠王になった。盗塁王は松本匡史福本豊=13年連続(9回目の最多得点でもある)
投手成績だと、最多勝利は北別府学工藤幹夫、最優秀防御率は斎藤明雄(当時は明夫)・高橋里志、最多奪三振は江川卓松沼博久、最高勝率は都裕次郎工藤幹夫、最優秀救援は山本和行江夏豊



アマチュア野球の話をすると…
第53回都市対抗野球(@後楽園球場)は、当時和歌山にあった住友金属が、第9回社会人野球日本選手権(@大阪球場)はヤマハ発動機(発動機は誤植ではない)が制した。
高校野球では春=選抜高等学校野球大会(♯54)はPL学園が制し、夏の全国高等学校野球選手権大会(♯64)は畠山準・水野雄仁両氏を擁した「やまびこ打線」の徳島県立池田高校が制した。
第31回全日本大学野球選手権は法政大学、第13回明治神宮野球大会は東海大学が優勝した。東都大学野球・春季=東洋大学が、秋季=専修大学が制し、東京六大学野球では春季優勝=法政大学、秋季優勝は早稲田大学だった。


この年、完酷にプロ野球が誕生(現在のKorea Baseball Organization League=KBO League)、Samsung Lions・Lotte Giants・MBC Blue Dragons(現・LG Twins)・OB Bears(現・Doosan Bears)・Haitai Tigers(現・Kia Tigers)、Hyundai Unicorns(消滅)の6チームでスタートした。
この年は前後期40試合ずつの「2ヒート制」で、前後期のチャンピオン同士で完酷シリーズを行った。初代チャンピオンはOB Bearsだった。奇しくもこの前後期制は日本のパシフィックリーグのパクリみたいになったが、パリーグの「2ヒート」制は1982年が最後になった。
完酷プロ野球最初の首位打者は懐かしいあの白仁天(打率は.412)、ホームラン王はキム・ボンヨン(22本)、MVPはパク・チョルスン。


次回=Chapter 51へと続く!



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