この記事では今からジャスト40年前、1982年の経済を先ずは振り返ってみる。そこには結構興味深い所もあったりする。主要先進国の経済動向は停滞が続いていた。
1979年の第2次オイルショックに端を発する、インフレ対策にエネルギーを割く破目になり、金利は上昇を続けた。アメリカでは高金利の影響で民間住宅投資や設備投資は激しく落ち込み停滞した。対外輸出も高金利からのドル独歩高という流れで減退する等、ほぼ年間を通じて景気は停滞した。
西欧ではUKで後半に緩やかな景気回復過程にあった模様だが、西ドイツではほぼ年間を通じて景気停滞が続いた。フランスでは前半では積極的景気拡大政策がとられたが、インフレが進み悪影響が起きて、後半は緊縮政策への転換を余儀なくされた。(どこでも歴史は繰り返す)
これも翌83年にはUS、UK、西ドイツで景気回復の兆しが現れたが、フランスやイタリアが足を引っ張った。とはいえ、ベトナム戦争の失敗∔製造業の構造的行き詰まり∔第二次オイルショック→インフレという病を抱えたアメリカ経済の不振は70年代後半から10年を超える期間に渡り続く事になった。
原油市場の動向だが、80年代に入っての需給バランス緩和の流れは続いて、82年も消費国の石油輸入・消費が減少を続けた。非OPEC側で増産傾向でOPEC側で減産傾向だった。原油価格は低下傾向が続き、OPEC側で設定した価格と非OPEC側で作られた相場の間に乖離が生じ広がる傾向になった。
(この段は1982年の年次世界経済報告を参考)
この年、日本の災害はというと…
7月23~24日に長崎大水害が起きた。この年の梅雨入りは遅く、7月上旬までは雨量は少なく冷夏傾向でもあった。それが7月10日頃から一転、西日本を中心に大雨が続いた。7月中旬の10日間で積算雨量が1000㎜に達した地点もあった。23日から25日にかけては、低気圧が相次いで西日本を通過し、梅雨前線の活動が活発化した。長与では時間雨量187㎜、2時間雨量で286㎜6といずれも当時の記録を更新する雨量を記録、長崎海洋気象台で24時間雨量527㎜を観測する等の記録的豪雨となった。
その約1週間後にはこの年の台風10号(国際名はBess)が上陸した。上述の豪雨とこの台風で死者が合計400人に上った。この10号は7月23日に日本の南東海上で発生して発達を続け、29日には中心気圧900hPa・最大風速65m/sにまで成長。8月1日に紀伊半島東側を通り、日付が変わる辺りで渥美半島に上陸。東海・北陸地方を縦断して日本海に抜けて津軽海峡を東進し、道南・道東を掠めて太平洋に抜けていった。 石廊崎で10mを越える高波を記録し、近畿地方・北陸地方・関東地方で被害が大きく、全国の死者・行方不明者は95人、被害額は約6000億円(当時の金で)となった。
豪雨大水害なんて夏の風物詩みたいなモンだというであろう。夏から秋口の豪雨なんて昔からあったのだ。歩く西瓜みたいな奴等が殊更に騒ぎ立て恐怖を煽っているという部分が大きいと思わなければならないが、外面はエコ踊りして緑・環境と教条主義で叫んでおいて、中身は原始共産主義だったりする西瓜どもだが、そこにはユダヤ教やキリスト教のカルト的原理主義がベッタリガッチリくっ付いているので注意が必要だ。環境だ脱炭素だと現実的でない事でも教条主義的に叫び続ける人間が多い事にも納得が行く。カルトも共産主義も、教条主義と原理主義の塊みたいな所が抑々ある。
北海道・日高地域で大地震が起きた。浦河沖地震とも呼ばれ、3月21日午前11時32分、浦河町南西沖・深さ10㎞を震源とする地震が発生したマグニチュードは7.1。静内町(現・新ひだか町)から様似町にかけての地域で震度5以上となり、様似町では震度6を記録した箇所もあった。負傷者は167名、住宅被害は716棟。この本震の8時間後に起きたマグニチュード5.8(浦河で震度4)の地震が最大の余震だった。浦河・室蘭の両港湾に被害が出て、そこだけで被害額は3.5億円程になったという。
北海道では北海道炭鉱汽船子会社の北炭夕張炭鉱が運営する夕張新炭鉱が10月9日に閉山となった。この5年前=77年に夕張炭鉱は閉山、2年前=80年には清水沢炭鉱が閉山。夕張新炭鉱閉鎖の5年後=87年に真谷地炭鉱は閉山、更にその2年後に幌内炭鉱が閉山している。95年になると日本最後の炭鉱=空知炭鉱が閉山して日本から炭鉱が消滅した。
夕張新炭鉱では81年10月にガス突出事故が起きて、93人が死亡した。この炭鉱事故は戦後でも3番目に多い犠牲者を出している。そしてこれがこの炭鉱の事実上の死亡診断書となった。
運営者である北炭夕張炭鉱株式会社は閉山に先駆けて、同年末に会社更生法の適用を申請した。
三越事件というのを御存知か?当時は映画や小説の題材にされる様な事件だった。
老舗名門百貨店だった三越の社長に、創業300年という記念の年である1972年から座った岡田茂氏、自分に批判的な人物を次々と追い出して早々と独裁体制を築いて天皇と呼ばれる様になる。岡田氏の最大のライバルが、常務だった坂倉芳明氏だったが、同氏もパージを喰らい西武百貨店に移った。(1986年に三越へ社長として復帰)
そしてこの手の経営者にありがちなパターンだが、取引業者への不当な協賛金要求や押しつけ販売、社員派遣要求を行い・催し物の費用負担まで強要していた。これで結局、独占禁止法第19条=優越的地位濫用の審決を1982年6月に受ける事になった。
三越契約配送業者だった大和運輸(現・ヤマトHD)は映画前売券などの購入を強要された事に加えて、配送料金の値上げを拒否された事で、1979年2月に三越との配送契約を解除している。(復活したのは2010年)
そして不明瞭な経理処理によって会社を私物化し、結果として会社に大きな損失を齎した。
岡田社長の愛人になった竹久みち(小島未知子)女史も三越内で存在感を強め「三越の女帝」とまで呼ばれ、人事に口を出す所まで行った。この竹久という女性は、抑々服飾デザイナーだったが、銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し、上野松坂屋や銀座松坂屋などの大手百貨店とも取引きを始める。アクセサリーの専門家としてメディアにも露出する様になる。岡田氏の愛人にまでなったその馴初めはジャーナリストの恩田貢氏の紹介だったらしい。
岡田氏の寵愛を愛人として得るようにった同女史は、最初は三越本店にアクセサリーコーナーを持つだけだったのが次第にテリトリーを広げ、自身が経営する「アクセサリーたけひさ」は岡田の手引きで不当な多額の利益を計上する得ていた。この事件を最初に炙り出したのが、1982年4月の週刊朝日=「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事。
1982年8月、日本橋本店で「古代ペルシア秘宝展」が開催され、古美術47点が出品された。開幕直後からこれら美術品の大半が贋作であるとの非難の声が専門家から挙がった。 この展覧会を事実上仕切ったのは、岡田氏と親密な関係にあった国際美術の渡邊社長だったが、同氏はこの古美術のほぼ全てが贋作だと始めから知っていたのが明らかになっていた。この事実が朝日新聞社の報道により判明し、古美術の一部には億単位の価格が付けられていた事も相まって、大きなスキャンダルになった。
岡田氏は不祥事の引責辞任を迫られたが当然これを拒否。そうすると、当時の三井銀行相談役以下、三井グループの幹部や三越内部の反岡田派が結束して岡田おろしのムーヴメントを起こした。斯くして同年9月の取締役会で岡田氏の社長職・代表権を解く動議が出され、全員一致で可決成立し同氏は非常勤取締役に降格となった。解任が決定した後に呟いた「何故だ?」はこの年の流行語になった。
更に岡田・竹久の両名は特別背任容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、結局実刑判決を受けた。岡田氏は1審2審で懲役3年の判決を受けて最高裁に上告したが、上告中の1995年7月腎不全で死去して公訴棄却となった。享年80歳だった。
竹久女史も最高裁まで争ったが、結果的に懲役2年6月+罰金6,000万円の実刑判決が確定。栃木刑務所で18ヶ月服役し、出所後に新たな会社を設立しアートフラワーの販売を続けた。2009年7月に病死、享年79歳だった。
次回=Chapter 54へと続く!
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1979年の第2次オイルショックに端を発する、インフレ対策にエネルギーを割く破目になり、金利は上昇を続けた。アメリカでは高金利の影響で民間住宅投資や設備投資は激しく落ち込み停滞した。対外輸出も高金利からのドル独歩高という流れで減退する等、ほぼ年間を通じて景気は停滞した。
西欧ではUKで後半に緩やかな景気回復過程にあった模様だが、西ドイツではほぼ年間を通じて景気停滞が続いた。フランスでは前半では積極的景気拡大政策がとられたが、インフレが進み悪影響が起きて、後半は緊縮政策への転換を余儀なくされた。(どこでも歴史は繰り返す)
これも翌83年にはUS、UK、西ドイツで景気回復の兆しが現れたが、フランスやイタリアが足を引っ張った。とはいえ、ベトナム戦争の失敗∔製造業の構造的行き詰まり∔第二次オイルショック→インフレという病を抱えたアメリカ経済の不振は70年代後半から10年を超える期間に渡り続く事になった。
原油市場の動向だが、80年代に入っての需給バランス緩和の流れは続いて、82年も消費国の石油輸入・消費が減少を続けた。非OPEC側で増産傾向でOPEC側で減産傾向だった。原油価格は低下傾向が続き、OPEC側で設定した価格と非OPEC側で作られた相場の間に乖離が生じ広がる傾向になった。
(この段は1982年の年次世界経済報告を参考)
この年、日本の災害はというと…
7月23~24日に長崎大水害が起きた。この年の梅雨入りは遅く、7月上旬までは雨量は少なく冷夏傾向でもあった。それが7月10日頃から一転、西日本を中心に大雨が続いた。7月中旬の10日間で積算雨量が1000㎜に達した地点もあった。23日から25日にかけては、低気圧が相次いで西日本を通過し、梅雨前線の活動が活発化した。長与では時間雨量187㎜、2時間雨量で286㎜6といずれも当時の記録を更新する雨量を記録、長崎海洋気象台で24時間雨量527㎜を観測する等の記録的豪雨となった。
その約1週間後にはこの年の台風10号(国際名はBess)が上陸した。上述の豪雨とこの台風で死者が合計400人に上った。この10号は7月23日に日本の南東海上で発生して発達を続け、29日には中心気圧900hPa・最大風速65m/sにまで成長。8月1日に紀伊半島東側を通り、日付が変わる辺りで渥美半島に上陸。東海・北陸地方を縦断して日本海に抜けて津軽海峡を東進し、道南・道東を掠めて太平洋に抜けていった。 石廊崎で10mを越える高波を記録し、近畿地方・北陸地方・関東地方で被害が大きく、全国の死者・行方不明者は95人、被害額は約6000億円(当時の金で)となった。
豪雨大水害なんて夏の風物詩みたいなモンだというであろう。夏から秋口の豪雨なんて昔からあったのだ。歩く西瓜みたいな奴等が殊更に騒ぎ立て恐怖を煽っているという部分が大きいと思わなければならないが、外面はエコ踊りして緑・環境と教条主義で叫んでおいて、中身は原始共産主義だったりする西瓜どもだが、そこにはユダヤ教やキリスト教のカルト的原理主義がベッタリガッチリくっ付いているので注意が必要だ。環境だ脱炭素だと現実的でない事でも教条主義的に叫び続ける人間が多い事にも納得が行く。カルトも共産主義も、教条主義と原理主義の塊みたいな所が抑々ある。
北海道・日高地域で大地震が起きた。浦河沖地震とも呼ばれ、3月21日午前11時32分、浦河町南西沖・深さ10㎞を震源とする地震が発生したマグニチュードは7.1。静内町(現・新ひだか町)から様似町にかけての地域で震度5以上となり、様似町では震度6を記録した箇所もあった。負傷者は167名、住宅被害は716棟。この本震の8時間後に起きたマグニチュード5.8(浦河で震度4)の地震が最大の余震だった。浦河・室蘭の両港湾に被害が出て、そこだけで被害額は3.5億円程になったという。
北海道では北海道炭鉱汽船子会社の北炭夕張炭鉱が運営する夕張新炭鉱が10月9日に閉山となった。この5年前=77年に夕張炭鉱は閉山、2年前=80年には清水沢炭鉱が閉山。夕張新炭鉱閉鎖の5年後=87年に真谷地炭鉱は閉山、更にその2年後に幌内炭鉱が閉山している。95年になると日本最後の炭鉱=空知炭鉱が閉山して日本から炭鉱が消滅した。
夕張新炭鉱では81年10月にガス突出事故が起きて、93人が死亡した。この炭鉱事故は戦後でも3番目に多い犠牲者を出している。そしてこれがこの炭鉱の事実上の死亡診断書となった。
運営者である北炭夕張炭鉱株式会社は閉山に先駆けて、同年末に会社更生法の適用を申請した。
三越事件というのを御存知か?当時は映画や小説の題材にされる様な事件だった。
老舗名門百貨店だった三越の社長に、創業300年という記念の年である1972年から座った岡田茂氏、自分に批判的な人物を次々と追い出して早々と独裁体制を築いて天皇と呼ばれる様になる。岡田氏の最大のライバルが、常務だった坂倉芳明氏だったが、同氏もパージを喰らい西武百貨店に移った。(1986年に三越へ社長として復帰)
そしてこの手の経営者にありがちなパターンだが、取引業者への不当な協賛金要求や押しつけ販売、社員派遣要求を行い・催し物の費用負担まで強要していた。これで結局、独占禁止法第19条=優越的地位濫用の審決を1982年6月に受ける事になった。
三越契約配送業者だった大和運輸(現・ヤマトHD)は映画前売券などの購入を強要された事に加えて、配送料金の値上げを拒否された事で、1979年2月に三越との配送契約を解除している。(復活したのは2010年)
そして不明瞭な経理処理によって会社を私物化し、結果として会社に大きな損失を齎した。
岡田社長の愛人になった竹久みち(小島未知子)女史も三越内で存在感を強め「三越の女帝」とまで呼ばれ、人事に口を出す所まで行った。この竹久という女性は、抑々服飾デザイナーだったが、銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し、上野松坂屋や銀座松坂屋などの大手百貨店とも取引きを始める。アクセサリーの専門家としてメディアにも露出する様になる。岡田氏の愛人にまでなったその馴初めはジャーナリストの恩田貢氏の紹介だったらしい。
岡田氏の寵愛を愛人として得るようにった同女史は、最初は三越本店にアクセサリーコーナーを持つだけだったのが次第にテリトリーを広げ、自身が経営する「アクセサリーたけひさ」は岡田の手引きで不当な多額の利益を計上する得ていた。この事件を最初に炙り出したのが、1982年4月の週刊朝日=「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事。
1982年8月、日本橋本店で「古代ペルシア秘宝展」が開催され、古美術47点が出品された。開幕直後からこれら美術品の大半が贋作であるとの非難の声が専門家から挙がった。 この展覧会を事実上仕切ったのは、岡田氏と親密な関係にあった国際美術の渡邊社長だったが、同氏はこの古美術のほぼ全てが贋作だと始めから知っていたのが明らかになっていた。この事実が朝日新聞社の報道により判明し、古美術の一部には億単位の価格が付けられていた事も相まって、大きなスキャンダルになった。
岡田氏は不祥事の引責辞任を迫られたが当然これを拒否。そうすると、当時の三井銀行相談役以下、三井グループの幹部や三越内部の反岡田派が結束して岡田おろしのムーヴメントを起こした。斯くして同年9月の取締役会で岡田氏の社長職・代表権を解く動議が出され、全員一致で可決成立し同氏は非常勤取締役に降格となった。解任が決定した後に呟いた「何故だ?」はこの年の流行語になった。
更に岡田・竹久の両名は特別背任容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、結局実刑判決を受けた。岡田氏は1審2審で懲役3年の判決を受けて最高裁に上告したが、上告中の1995年7月腎不全で死去して公訴棄却となった。享年80歳だった。
竹久女史も最高裁まで争ったが、結果的に懲役2年6月+罰金6,000万円の実刑判決が確定。栃木刑務所で18ヶ月服役し、出所後に新たな会社を設立しアートフラワーの販売を続けた。2009年7月に病死、享年79歳だった。
次回=Chapter 54へと続く!
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