投稿元:
レビューを見る
感動させてんじゃねーよ!
んもお読み進めるうちにことばにできやんぞくぞく感が・・・。
自分の目で、心で、胃で知っている。
ほんまそれにつきる。ひとことひとことが深。
投稿元:
レビューを見る
自らの生を全肯定する、他者や世界をも全肯定するという
考え方をシッダールタの生涯から学ぶ。
実存に関して、その無根拠、存在のあまりの頼りなさに苦悶し、
あらゆるものごとに対してその存在や価値性を再考していた際に
ある面で救った本とも言える。
投稿元:
レビューを見る
この本は素晴らしかった。
自分はインドの宗教や思想に興味があったわけでも、ヘッセのファンだったわけでもなく、この本を知り興味を持ったのはたまたまだったけれど、手に入れてからは夢中になって読んでしまった。宗教というよりも、一生涯をかけて生きる事を学ぶという感じで、そこに自分も学ぶべきところが少なくない。何度も読み返したい本。
投稿元:
レビューを見る
瞑想とは何か。肉体からの離脱とは何か。断食とは何か。呼吸の停止とは何か。それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦節と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない。
世界は美しかった。
自分自身が真我であること、梵と音字永遠なものであることを知っていた。しかし思想の縄で自分自身を捉えようと欲したがゆえに、ついぞ本当にそれを見出さなかった。たしかに肉体は自分自身ではなかった。間隔の戯れはそうではなかった。そのおうに思索も、知性も、習得した知恵も結論を引き出し、すでに考えたことから新しい思想をつむぎだす習得した技術も、自分時寸ではなかった。
オーム!そして梵を知った。あらゆるバラモンの祈りの古いはじめの文句と終わりn文句、完全なもの、あるいは完成というほどの意味を持つ神聖なオームだった。
深い瞑想の中に、時間を止揚し、いっさいの存在した生命を同時的なものと見る可能性がある。そこでは全てがよく、完全で、梵である。それうえ、存在するものは、私には良いと見える。
投稿元:
レビューを見る
バラモンの息子という高い位に生まれたシッダールタは悟りを開くための修行に出る。世尊のもとで修業をするより、俗世に身を任せる決意をした彼だったが、その後悟りとは無縁な汚い俗世に見事に染まり、絶望する。死ぬ間際彼はオームの声を聞き、渡り舟の仕事を手伝うことにする。シッダールタは渡り舟の仕事を手伝いながら、川から多くのことを学び、旧友に会い、ついに悟りを開く。
シッダールタの子育てを船乗りの友人が咎めるところが非常に良い。自分が寛大であることを息子に示しているだけではだめなのだ。自分が空っぽであることを子にすぐに見抜かれてしまう。子に圧力をかけていたのはシッダールタ自身だったのだ。
言葉より物、行動。要は自分の経験したことしか意味はない。偉い人の話ばかり聞いてもなんにもならない。自分で行動して気付いて初めてそれは血肉になるのだ。という、行動主義的な話に帰属できる。
大人になった僕はもう一度読み直した時、さてどう読み解くのか。
投稿元:
レビューを見る
たぶん4度目の再読。
だけど、毎回リセットされてしまっている作品。
ヘッセの哲学的な小説。
シッタールタという名前は使っているけど、お釈迦さんとは違います。フィクションです。
ヒンズー教的であり、禅宗的であり、キリスト教的であり、宇宙的であり、またそのどれでもない。
信仰の問題は全く無い。あくまで、、、、言葉で表すのは難しいの。
たった151ページの本なのに、何とまぁ読み応えのあることでしょう。
そして、どうして私は完全に内容を忘れ去ってしまっていたのでしょうか?
とても大切な本の一冊です。
煩悩の輪廻。いいじゃないですか。
また忘れきった頃に読みましょう。
(H22.2 自)
投稿元:
レビューを見る
著者ヘルマン・ヘッセはノーベル文学賞受賞者であり、「車輪の下」で世界の多くの人々が(少なくとも)名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか?
愛、精神の幸福をうたう作家は、しっかりと、非戦論を通した人で、両大戦の間は、社会的にはもちろん、自身の精神的安定という意味でも、かなり辛い思いをしたそうです。
本著、「シッダールタ」は、1919年、第一次世界大戦後まもなく、という著者にとって負荷の大きい時期に描き始められたことを知って読むと、より感慨深いです。
ヘッセにとって、"解脱者"でなく、"求道者"としての「シッダールタ」の体験を描いたこの作品は、ヘッセの生きるテーマ、小説を描くテーマそのものの直球勝負であり、ヘッセの真髄を余すところなく発揮した作品の一つだと思います。
「悟り」は伝えることができない、けれども「悟る」までの体験を伝えることはできる。そこから、すこしでも、読者自身の人生を照らすものがあればいいのに、とヘッセが語っているようです。
幼いときに読むと「当たり前だわ」と流してしまうかもしれない内容なのだけれど、歳を重ねてから読むと、自分の体験に照らしやっと"腑に落ちて"きて、ヘッセがこの著作を描いてくれたことに感謝したくなります。時間をおいて繰り返し読むことをオススメします。
投稿元:
レビューを見る
なんでだか毎日の変る事変わらない事に対して見逃さない様にしていきたい気持ちになった。
変化したものにもしていない事実にも敏感に新鮮さを感じて自分の中に取り込めたら、多分色々な事に誠意を忘れずにいられる事を思い出させてくれる本。
投稿元:
レビューを見る
私は考えることができます。待つことができます。断食することができます
この隠喩が素晴らしくて忘れられない本。
投稿元:
レビューを見る
何度も何度も読み返すことが必要。
そのたびに発見があります。
主人公シッダールタが、人生の様々な経験の中で、一体何を得たのか、何に至ったのか。
それは誰しもが感じることの出来るもので…何かにぶつかった時、この本を読んでいれば考える勇気が出てくる。
投稿元:
レビューを見る
ヘッセのシッダールタ。仏教の元祖、仏陀となる前の苦行者・ヨギーの姿を、旅人ヘッセが人間像として物語に仕上げている。宗教というよりは歴史人物という小説に思える。けど、ところどころ詩的で感銘をウケル。
投稿元:
レビューを見る
ブッダの生涯を描いたフィクションだと思い込んで、主人公シッダールタがお釈迦様ともゴータマ=シッダールタとも関係ない架空の人物だということに読み終わるまで気づかなかった。不覚・・・・・・
投稿元:
レビューを見る
特別にすきな小説にゃ。
人間が生み出した言葉の美しさをきわめた作家―ヘッセが、人間が生み出した思想の美しさをきわめた男―シッダールタの半生を描きだす。
にゃんこはこんなに美しいレトリックをみたことがなかったから、なんだかただの文字をみているだけなのに、不思議と涙がでてきた。なんで泣いてるのか、よくわからない。涙の性質も、わかっていなかったのだなあ、とおもいながら。
白と黒の紙面から、原色の山林、河、富、飢え、苦痛、快楽、街、金、欲、女、老い、平和…すべてがくっきりとした色と形をもって浮かび上がってくる。
たぶん、自分のはだかを本当になにも考えずにみたら、涙がでてくるんだとおもう。
でもそういうことにはならない。
この本をよむと、自分のはだかの映像を裸眼に突き刺されたようなきがして、それこそタマネギの刺激にさらされたように、涙がでてくる。
投稿元:
レビューを見る
ゴリラ顔のチャラ男おすすめな本は
「古い作品やけど、ヘルマンヘッセの、“春の嵐”か“郷愁”」。
海外の小説って、映画もそやけど、日本語に訳されるとニュアンスが微妙に変わっちゃったりする。
日本語の「もったいない」みたいに訳せない言葉とかあると思うし、
文化の違いで、感じることのできない理解のできない空気、みたいなものもある気がする。
やからあんまし読む気にならないんやけど、せっかくのご縁だし読んでみようと思った。
amazonのレビューを見てみたら、どっちも恋愛系青春系の小説みたいで、「ゴリラみたいな顔して案外ロマンチストなのね・・・ププ!」なんて思いつつ、その2冊には興味持てなかったから、面白そうだった“シッダールタ”をチョイス!
主人公、シッダールタが一生を通じて人生の目的と生き方を追い求める物語。
内容はなかなか面白かった!
主人公は、仏教と共に生きた人で、仏教色の強い内容だけど、仏教の素晴らしさを説くわけではなくて、あくまでわき役。
主人公の生き様を描いた作品。
この本を読んで、日常生活の中に仏教用語が溢れてるってことを知った。
たとえば、“ニルヴァーナ”や“ブラフマン”。意味は忘れたけど。
オウム真理教の“オウム”もそうで、“聖なる句、音”とゆう意味で、
物語の中でも重要な役割を果たすほど、仏教では神聖な言葉でした。
とっても話は変わるし、本に無関係やけど、仏教繋がりで思いだしたことが。。
ばあちゃんの葬式と通夜でお経をよんでくれたお坊さんは
ちょっと変わった人やった。
はっきり言ってキライ。
お経の後に小話をしてくれたんだけど、それがとっても納得できなかった。
とにかくその人が仏教ラブ!!なことは分かったけど、
それを出家してないうちらにも求めるのはどーかと思う。
みなさんは仏教のこと分かってるよね、みたいな呈で話す坊主。
坊主は、仏教を分からない人はダメなやつだと決めつけてた。
以前、「仏教とは何ですか?」って70歳くらいのおじさんに聞いたんだって。
「その人は“分からない”、なんて言うんです。
そんな歳になってそんなことを言うなんて信じられませんでした」
みたいなことを言うの。
「仏教とは●●●です!」
なんて言えるような人やったらあんたみたいに出家しとるわい。
仏教のことが分かってるんはあんたが出家しとるからやろ、勉強したからやろ、それが仕事やからやろー!!
あと、“神に食べることを許されてない生き物である鯨”を食べることに対して、
過激な反対運動をするシーシェパードを非難しとったんやけど、キリスト教自体も非難してるように聞こえた。
日本は無宗教だと外国からバカにされるが、仏教という立派な宗教を持っている!とか。
人間には5つの欲望があって、「食欲」「性欲」「睡眠欲」「物欲」「出世欲」これらの欲を捨ててありのままで生きることが仏教の教え。波阿弥陀仏と唱えましょう、だって。
そういうあんたは「みなもっと仏教愛せ欲」持ちまくりだろー!
ば���ちゃんの式なのに全く関係ないことを、しかも心に響かないことをツラツラと言い続ける坊主を睨み続けました。
もっとましなことを語ってほしかったわ。
以下は、今後うちが「シッダールタ」ってどんな本やったっけー?って振り返る際に眺めるためのもので、
読みながらメモっただけやからうまくまとまってないし、
よう分からんとこもある
まとめよーと思ったけど、読んだ時そのままを残したかったから&めんどかった!
****************************************************
迷子になった気分。ヘッセはロマンチストなんじゃないの?
人を愛せないルタは全てにおいて「完璧」な人。
他の作品も読んでみよう、今度は恋愛青春ものを。
ルタは沙門がいつも世人に対して持っているような軽蔑の気持ちで接していた、
自分が彼らより優れていると。
傲慢さが目立つ。まあ無理もないかな、と思うけど。
作者は、俗世間の人々を「子供のように幼稚」と表現。幼児人間、と呼ぶ。
主人公は軽蔑する一方でうらやましくも思っていた、
自分たちの生活を大切にし、不安を覚えたり幸福を感じたりすることに。
ルタは自分の生活を客観視している、どこか違うところに立っている。
そんな彼が俗世間で生きることを選んでみた。
「輪廻」にて。徐々に変わっていくルタは、友と別れた時の“覚醒”は埃を被ったという。
悟りとは追い求めることそのものなのかもしれない。
いつのまにか欲にまみれるようになり、ある意味やっと人間くさくなった。同じように不安を抱え、悩む、ルタ。
誰もがおちいる人間らしさ。やっと身近に感じた。
(物語を読む時、自分の姿を無意識に重ね合わせてるのかな?最初に感じた迷子の感覚は重ねれないことに対する不安な思いからかな。)
自分が「幼児人間」となんら変わりない存在になり、自分を見失っていることに気付いた彼は、全てを捨てた。その潔さは鳥肌もの。
湖に身を投げようとした、そこまで落ちた。
自ら命を絶つことは仏教では(どの宗教も?)ありえないこと。でも「オーム」で引きとめられた。
そして長い眠りにつき目覚めた時にまた「自分」に出会った。
昔とは違う、何もない自分に。幼児人間になる前の自分とも違う。
白髪にもなり、年老いた体。生きた年月に関わらず、何も持たずに何も知らずにそこに立つ自分。そのことを大喜びする。
いくつになっても人生探り探り、27歳は十分に大人だと思っていたけど、昔と何も変わっていない気がしてる自分。
そんな自分で良いんだ、きっとずっと30代も40代も50代も死ぬまでずっと探り探りは続くのだ!!!
自分は悟りを開いた、という瞬間がきたとしても、追及することをやめてはいけない、
もし立ち止まってもまた必ず歩みだす、歩みだす時の不安も必然、何も恐れることはない。
人はなんのために生きているのか。
生きたこと��何か結果が生まれるわけではない。
その質問自体が成り立たない。
何のためでもなくただ「生きる」こと。
それだけで尊い、それだけでいい。
曲がりくねっても、すすめなくても、暗くて辛くても、それは人生そのもので、生きることそのもの。
目は口ほどにものをいい、経験はさらにさらにものを言う!!苦しめが苦しむほどに良い。失敗は成功のもと。
自分の生きざまを渡し人に語り、そのことに幸せを感じる彼、なんて人間くさいんだろう。
今までは自分の内面を誰にもさらけ出したことはなかった。
以前の高慢で全てを下に見ていた彼とは全く別人。
自分の全てを話せるような相手が現れたらこのうえなく幸せだな。
相手次第?自分次第?
「あなたほど人の話を聞ける人は稀です」という。
彼自身が心を開いたからじゃないのかな、まあでもお互いの気持ちが大事だし、両想いだったってことかな。
もしいろんな人から打ち明けられる人であるのなら「モテモテ」な人なんでしょう。
河から学ぶことは「聴き入ること」・・・?
今まで求めて求めて探求していたけど、足りなかったのは心を静めて耳を傾けること・・・
人生は川。
過去も未来も隔たりはなく、なにものも過去にあったのではなく、なにものも未来にあるのではない、全て現在にある!
p158
煩悩で、輪廻で、濁った水でも無価値でなく必然。そこは普通の宗教本ではない。
ルタは無条件に人を愛し、冷静さをなくし、正しさをなくした。
幼児人間となり、同じく幼児人間を理解し、無縁の存在でなくなった。
衝動や欲望があってこそ、人間は生きていける。
投稿元:
レビューを見る
ヘッセの「シッダールタ」読了。
いい本読んだ。最近「アタリ」が続いて嬉しい(´・ω・`) +
題名からして、ゴータマ・シッダールタ(ブッダ)が悟りを開くまでのお話だろう & ヨーロッパの人から、仏教的な思想がどのように描写されてるんだろう?と思って、本屋で何気なく手にとって購入したわけですが、
ブッダの話ではないです。
あらすじ
父親、母親、友人…全ての人からの寵愛を受けるシッダールタは、それらの物から自分の幸福を満たす事は出来ない事を悟り、沙門の道を選ぶ。沙門の先達とともに行動をともにするが、多くのことを経験したのち、沙門道では自分は救われないと感じる。その頃、涅槃に達した仏陀という人がいるという話を聞き、仏陀のところへ赴く。仏陀が悟りに達していることは認めながら、教えの中に一点の不完全さを指摘し、弟子になる道を選ばず、衆生の中へ入っていく。遊女カマーラを知り、事業に従事して成功するが、満足を得られず、川にたどり着く。川から学んだシッダールタは一切をあるがままに愛する境地に到達する。
(wikipediaより)
(´・ω・`)はい、あらすじだけ聞くとまったくおもしろくなさそうですね。笑
でも本当におもしろい本です。ラスト3分の1ほどが、特に秀逸。
あくまで小説なので、すらすら読めてしまいます。160ページほどしかないし。
***
上述のように、読む前は、仏教にはなじみがあるはずの日本人であっても理解できない「悟り」について、どのように描写されているのか、疑問だったのだけども。
読後、その懸念は一掃されたどころか、その描写の深さに唸るしかなかった。ものすごくよく研究されている。
仏教の悟りの一側面というだけでなく、世界に関するなにか普遍的な理解のようにも思えたよ…!(°Д°)
以下、私の印象に残った部分の抜粋を。
ひとつめは、シッダールタが本当に悟りを得た瞬間の描写。
シッダールタはもっとよく聞こうと努めた。父の姿、むすこの姿が流れ合った。カマーラの姿も現われて、溶けた。ゴーウィンダの姿やほかのさまざまな姿も現われ、溶け合い、みんな川になった。みんな川として目標に進んだ。慕いこがれつつ、願い求めつつ悩みつつ。川の声はあこがれにみちてひびき、燃える苦しみに、しずめがたい願いに満ちてひびいた。目標に向って川はひたむきに進んだ。川が急ぐのをシッダールタは見た。川は彼や彼の肉親や彼が会ったことのあるすべての人から成り立っていた。すべての波と水は急いだ。悩みながら、目標に向って、多くの目標に向って、滝に、湖に、早瀬に、海に向って。そしてすべての目標に到達した。どの目標にも新しい目標が続いて生じた。水は蒸気となって、空にあがり、雨となって、空から落ちた。泉となり、小川となり、川となり、新たに目標をめざし、新たに流れた。しかし、あこがれる声は変った。その声はなおも悩みに満ち、さぐりつつひびいたが、ほかの声が加わった。喜びの声と悩みの声、良い声と悪い声、笑う声と悲しむ声、百の声、千の声がひびいた。
(ヘッセ/高���健二訳「シッダールタ」p142, 新潮文庫)
シッダールタは、川からいろいろなことを学んだのだけど、そのひとつが、「時間というものは存在しない」ということ。
川は上流から下流へと、滔々と流れているけれど、そのどの部分にも過去・現在・未来などは存在しない。
ただ流れる。
人間も同じ、ということだね(´・ω・`)
何か目標に向かって、ただ流れる。
プロテスタントの運命論(予定説?)にも似てないことはないけど、何者かの意思が働いているか否かの点で違うよね。
**
ふたつめ、シッダールタが旧友でありブッダの弟子であるゴーウィンダに対し、自らの悟りから得た思想につき語った際の言葉。
これもまた、ひどく納得させられた一文。
だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは、内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。
(ヘッセ/高橋健二訳「シッダールタ」p152, 新潮文庫)
そのとおり笑
以上の私の言葉では、悟りどころかヘッセの描いたことですら、まったくいいところが伝わっていないものねー(´ー`)
(私の筆致力が極度に拙いからだという反論は受け付けない方向で…w)
悔しい。クヤシス(´・ω・`)
とにかく、読む価値のある本です。
中途半端に「自分探し」とかやるんなら、これ読んでくださいw
ぜひ。