冒険の定義がわかりました。
2018/09/24 22:18
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投稿者:ら君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
冒険しないではいられない人が、いつの時代にも一定数存在するのだと思います。
冒険の定義を熱く語っている本です。
冒険しないではいられないのは何故なのか知りたかったです。
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2018/4/8 メトロ書店御影クラッセ店にて購入。
2020/8/20〜8/23
角幡さんの冒険とは何か、について、まとめられた本。「探検というのはシステムの外側にある未知の世界を探索することに焦点をあてた言葉であり、冒険の方はシステムの外側に飛び出すという人間の行為そのものに焦点を当てた言葉だ」という「はじめに」の一文の考察が素晴らしい。
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本屋で手に取り目次を見ると、本多勝一さんの名前や彼が展開していたパイオニアワーク論が目に入る。僕も学生のころ熱心に読んでいたので、著者がどう解釈して自身の冒険に投影してきたのか、大いに興味がわいた。
エベレストが初登頂された後は、ルートを変えたり、無酸素で挑戦したりとバリエーションを変えないと、それは冒険とは呼べない。『初』がつかないと冒険とは呼べないのだ。パイオニアワークとはそういうものと理解している。誰も行ったことがない『地理的空白』がなくなった現代で、冒険は難しい。極夜の北極圏を旅する冒険を『発見』した著者のうれしそうな顔をテレビで見た時、冒険で飯を喰うことの社会的な大変さを感じた。
展開されるのは本格的な冒険や探検についての考察だが、僕は社会人が休日に出かける『週末冒険』にあてはめて考える。彼の言う脱システム論は登山をベースに展開されるが、有名なコースやイベントに人が集まるサイクリングを取り巻く状況とよく似ている。同じ日本で起こっている現象なのだから当然の帰結だと感じる。
自由や創造性を求めた登山は結果を予測しにくく、つまらない登山に終わることも多いとの論旨には大いに同意する。事前に地図だけみて出かけるサイクリングも同じだ。路傍に何を見て、風に何を感じるかで面白さは変わる。
後に控えるのは著者の最新冒険行『極夜行』だ。さて、どんな冒険だったのか、読むのが楽しみだ。
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冒険とは脱システム、と言う著者の論展開はそれほど目新しいものではない。旅が日常からの脱出だというのと通底している。それでも、声を上げるのは現代社会があまりにもシステム化され管理されているからにほかならない。分かっているのにそのシステムから抜け出そうとしない、出来ない私であるから、著者の数々の冒険譚を愛読するのだ。
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20190120 著者の行動を説明する為の論文。理屈ではなく行動の裏付けが有るので読めるが理解できるかは各自の主義の問題。作者も理解される事は求めていないようにも思える。さて、この後、自分としてどんな行動を起こせるか。暖かくなったら考えよう。
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角幡くんの冒険、探検の定義がだいぶ深まってきたようで、なかなか読み応えがあった。昨今の著名な冒険家のやってることにも少ししっくりこないものを感じていたところとか色々自分の中のわだかまりをとくのに役立った。
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脱システムをし、自由を手に入れることの難しさ。普段意識を全くすることができないが、システムの中で生活をしているということ。一見自由のようだが、管理されている。
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地理的な未踏地帯がほぼ消滅し、テクノロジーの発達によってかつて命がけだった行為も容易になりつつある現代において、探検家である著者が、その活動領域を失い絶滅しつつあると見なされがちな「冒険」とは本来いったい何を意味するものであったのか、改めて問い直すことが本書の目的です。
筆者は冒険を行為そのものではなく、「脱システム」を目指す全ての試みとして捉えています。そのため未踏地帯のような具体的な対象は有限であっても、課題の設定によって対象は無限であるため「冒険」が消え尽きることはありえず、それを誰にでも挑戦することが可能な試みであることとし、「冒険」という言葉の新たな意味を「脱システムを目指す試み」として提示しています。
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■メインテーマ
冒険の本質とは?
■著者の主張
未知の領域に自力で向かうからこそ、見えてくる世界がある。
■学んだこと
冒険は、脱システムするからこそ日常を見直すきっかけになる。
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角幡唯介(1976年~)氏は、北海道生まれ、早大政経学部(早大探検部)卒のノンフィクション作家、探検家。
『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞(2010年)と大宅壮一ノンフィクション賞(2011年)、『アグルーカの行方』で講談社ノンフィクション賞(2013年)、『極夜行』で本屋大賞ノンフィクション賞(2018年)と大佛次郎賞を受賞。
本書は、自ら、チベット奥地の峡谷や極夜の北極などに挑む冒険を行い、それをノンフィクション作品として発表してきた著者が、「冒険とは何か?」、「人は何故冒険をするのか?」、「冒険の意義とは何か?」等について綴ったものである。初出は、季刊雑誌「kotoba」の2017~18年の連載。
私は、角幡氏の著作は、これまで、『空白の5マイル』、『探検家の憂鬱』、『旅人の表現術』、『アグルーカの行方』を読んだことがあるが、(一見)無謀な探検をする探検家としての側面と、理詰めで物事を捉える批評家的な側面を併せ持った、角幡氏の類稀な個性に惹かれており、本書も偶々新古書店で目にして手に取った。因みに、上記の講談社ノンフィクション賞の選考会で、小説家の高村薫氏は、「角幡という人はおそらく、人間的にも、探検家としても、あるいは文章家としても大変優れていると思う(が、それが整いすぎているという印象を持つ)」と語ったという。
本書で著者が言いたかったこと、私が印象に残ったことを列挙すると以下である。
◆日本の冒険論の嚆矢ともいえる、本多勝一のそれによれば、冒険の条件は、①明らかに生命への危険を含んでいること、②主体的に始められた行為であること、の2つ。更に、それが「パイオニアワーク」(=前人未到の行為=常識ではない行為)であると、より冒険的といえる。
◆人類史上最高の冒険は、(それ以前の国家プロジェクト的なものを除く)個人的な行動であることを前提にすれば、ノルウェーのナンセンが1893~6年に行った北極海横断探検。そのスケールと非常識ぶりは人類史上際立っており、驚異のひと言に尽きる。
◆冒険とは、一言で表せば、システムの外側に飛び出す行為、即ち「脱システム」的な行為のことである。しかし、現代では、①情報通信テクノロジー(GPSや携帯電話)の発達、②「登山」等のジャンル化、③人間の物の見方の変化(気付かぬうちにシステムを前提に行動をとるようになること)、により、冒険の現場のシステム化が進んでおり、脱システムが非常に難しくなっている。
◆現在冒険と称されている活動の多くは、システムの内側で行われているものであり、野外フィールドで肉体の優劣を競うだけの、疑似冒険的スポーツである。エベレスト登山ですら、今やマニュアル化されており、冒険とは言えない。
◆地理的・空間的観点からの「脱システム」の可能性がなくなった現代において、冒険をするためには視点の転換が必要であり、実例としては、狼の群れと暮らしたショーン・エリス、服部文祥のサバイバル登山、著者の極夜行等が挙げられる。
◆それでも冒険をする意義とは、①社会的には、脱システムした冒険者が、システムの外側から内側を見て、それを語ることよって、システム内部の常識・既成概念・価値観を見直すきっかけを与えられること、②個人的には、冒険者は、脱システムすることによって、自力で自分の命を維持管理するという、究極的自由を手に入れられること(その対価は死の危険)、である。
と、ここまでは、著者のいくつかの作品を読んでいれば、比較的容易に想像がつく内容なのであるが、目から鱗だったのは、「終わりに」に書かれた次の一節である。
「冒険とはあくまで身体的に脱システムすることに限定した言葉であり、身体的という条件をとり払えば、脱システム的価値観は冒険の境界を飛び越えてどこまでも広がる。文学でも芸術でも建築でも、何かを表現しようという世界では常に、予定調和的な決まりきった領域から飛び出して前人未到の領域をめざそうという営為がつづけられている。私は冒険の脱システム性をことさら強調することで、本書の議論に、冒険という狭い枠にとどまらない、人間の行動とか表現にかかわるより普遍的な強度をあたえられるのではないかと期待した。」
期待を裏切らない角幡・冒険論である。
(2024年1月了)