イギリスモダニズム文学の傑作
2025/01/14 08:04
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投稿者:キェルケゴ - この投稿者のレビュー一覧を見る
河出書房新社から出ていた池澤夏樹個人編集の世界文学全集から文庫化。
20世紀前半を代表する上流階級知識人作家のモダニズム小説。日常系の物語ということで、筋が不鮮明で読みづらい。
文庫化に際し最近のケアやフェミニズム研究に基づいた訳者の新解説を付けてほしかったが、別の小説家のエッセイが追加されているのみで少し物足りない。
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感想
いつの時代も変わらない。光を目指して足掻き続ける。今がどれだけ暗くても。先が見えなくても。ひたすら手を伸ばし続けなくてはいけない。
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ヴァージニアウルフの本を一度読んでみたいと思い、9月に新訳で文庫化されたこともあり購入。前知識なく読んだので、正直、第一部は読むのがすごくしんどかった。あまりにもしんどかったので一体、どういう本なのか調べたら、「意識の流れ」という手法であることが分かり、そこから文体の流れに思考を任せるつもりで読み進めると不思議と読みやすくなった。最後はキャムやリリーの意識の中にいるような不思議な気持ちになり、爽快な気持ちで読み終えた。訳者あと書きもとても興味深かった。
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Twitterで見かけることが多く手を出した。著者の名前はみすず書房などで目にしていた。これはどうかなあ。率直な感想を書いておくと、ストーリーが全く展開しないということと、とにかくさらっと読んでいたのでは誰が考えていることかが分からず、人物も全然浮き上がってこないということ、そんなことがあって読むのはかなりしんどかった。「百年の孤独」はまだ話がどんどん展開するので読み応えがあった。ただ、父親と子どもの関係だけは身につまされた。自分も子どもたちからするとこういう父親になっているのかもしれない。「刺そう」とまでは思っていないかもしれないけれど。そう願っている。訳者のあとがきなどを読むと、当時こういう書き方は画期的だったのかもしれない。だけれど、それが受け入れられたかどうかは別問題で、芸術的かもしれないけれど、万人受けはしないのだろうと思う。ただ、夏目漱石にしろ、なんにしろ、古典作品を読むときは最初の50ページくらいは退屈でしんどくても、絶対おもしろくなるから読み続けるようにと言ってきた手前、放り出すこともできずなんとか最後まで読み通した。まあ、こういう書き方もあるのだということを知れたのは良い体験であった。前評判を見ていて、実質2日分くらいの話であるというのは知っていた。きっと、心情描写がずっと続くのだろうと思っていた。そういう心構えがあった上での読書だった。そういう設定にはとっても興味があったのだけれど、結局、10年くらい時代は飛んでいるし、両親以外は誰が誰だか分からないし、灯台にはたどり着く寸前で終わってしまうし、次の日は本当に雨で船は出なかったのかどうかも分からずじまいだし、まあ、いろいろと不満は残ったのでした。マルケスは次の作品も読んでみようとは思うのだけれど・・・
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文学史上の傑作として名高い、ヴァージニア・ウルフの代表作。今回新潮文庫より鴻巣友季子による新訳版が刊行されたことを機に読んでみたが、個人的にはこの小説を読みこなす能力を持ち合わせておらず、ハッキリいってよくわからなかった。なにが難しいかといえばなによりもまず、ストーリイらしいストーリイがないことである。表題にもなっている「燈台」をめざすところが物語のクライマックスであるとは思うが、そこに至るまでにわかりやすい起承転結もない。普段読み慣れているような小説の構造とかけ離れていることとも相俟って、余計に読みづらかったのだと思う。登場人物も多く、ラムジーには8人も子供がいるが、「意識の流れ」という手法を用いて書かれているため、多くの登場人物のあいだをいつのまにか視点が移動してゆく。テクニックとしては素晴らしいのかもしれないが、たんにリーダビリティだけを考えるならば、この表現方法もまた本作を読みづらいものとしている。しかも登場人物個個人の描写についても、なんといつのまにか「ナレ死」する人物がいるなど、十分に描き切れているとは思えなかった。その人物にかんする理解が不十分なまま視点が移動してしまい、まるで食物を消化しきれていない状態の胃の中につぎつぎとあらたに食物が摂取されてゆくような感覚を味わった。帯には「小説にはこんなことができるんだ。」とあり、まさにこういう技法もあるのだということを知れたことは学びになったが、わたしにとってはおもしろい読書体験とはいえなかった。
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読み進めるのが難しい本だった。
場面転換が少ないなかで登場人物が多く、人と人の心理描写がいつの間にか移り変わる。で、その心理描写もやたらとレトリカル。
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自分の読解力の乏しさに悲しくなった
とにかく読みづらくてページを捲るのがしんどかった…
内容も全く入ってこない
これを楽しんで読める人尊敬する
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あちらこちらに海や舟に関わるたとえが散らばって表題がリフレインして、2部へと繋がっていくのが好きだった
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表紙のデザインがキレイで、文の作り方が変わってるなぁと興味で購入し読み始めました。ここに出てくるキャラクター達の頭の中を覗き込んでいるような、各キャラクターの頭の中に次々移り住むようなそんな感じの文。ただどのキャラクターがどこにいてっていうのを理解してないとついていけない。確かに革新的な文なのかもしれないけれど、読みにくい。
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最初は退屈な物語かも、と思った。
登場人物がお互いに心に思ってることをひたすらモノローグで繋いでいって、一向に何か起きる気配がないから。
悪人も完璧な人もいない。
美しい母親と、ちょっとエキセントリックなお父さん。尊敬もされてるけど面倒くさい。
子供たち、書生、家庭教師。
登場人物同士の愛憎入り混じる感情、自己愛と愛。
モノローグでお互いの気持ちをふわふわと漂っているうちに、いつの間にか登場人物とともに歳をとって、彼らをお屋敷の物陰から覗いている、そんな感じ。
三部の美しさ、悲哀はちょっと筆舌に尽くしがたい。
あと、めちゃくちゃ共感したフレーズ。
「どうやら本というのはひとりでに増殖するものらしい」
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とにかく夢想と回想がたくさん描写され、一人の人間が様々な思いを巡らしているかと思っていたら、いつのまにか別の人物へと視点が変わりその人の心に入り込んでいるのだが、訳文がとても読み易くて「今、誰が語っているんだっけ?」と見失うことはなかった。読むのに時間かかちゃったけど。
一人の人間には多くの感情や考えが入り混じっており、そんな多くを抱えた複雑な人間同士がコミュニケーションするのだから、そう易々とうまくいくわけがない。こうしてほしい、褒めて欲しい、あの人と仲良くしてほしい等、様々な思惑があり、誰かの言葉や態度が憎くて許せなくて長年恨むようなこともある。あの人のあそこが許せないにおける“あの人”とは、現在目の前のあの人か。それともかつてのあの人か。はたまたあの人を纏った何かか。
一瞬の想いは幻のようで儚いもの。しかしその一瞬があるときふと呼び覚まされて心に焼き付き永遠となる。背景に溶け込むかのように離れていく想いと、魂の礎となる想い。いろんな想いの中をたゆたいながら、灯台の光へと目指すように自分というものを得る。
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イギリスの1920年代の"現代小説"。タイトルは知っていたけど、今回文庫化したのを機に初めて手を伸ばせた作品。充実の読後感。何の話を読まさせられてるの?という気持ちから、だんだん小説の全貌が分かるにつれ、心にくるものがあった。読み終わったあと、もう一度最初から読み直したくなる。生きている間の一日一日、人との関係性はすべて一期一会の奇跡の邂逅。人は決して理解し合えないけど愛に満ちている。そういう気持ちになる。
今まで読んだことがないような文体。最初はしばらく読みづらい。セリフも思考もカギ括弧なしで入り交じっている。たまに、誰かと誰かの思考の継ぎ目すらなく、読み進めていたらいつの間にか違う登場人物の思考だったこともある。それが不思議と面白い。考えてみたら、我々だって日常的に、何かを誰かに話しながら全然別のことを頭の中で考えていたりする。誰かと接しながら、思考はどこかへ漂っていたりする。それがそのまま文体に表れてる。
さらに面白いのは、登場人物それぞれの思考はすれ違いが多いこと。きっと普段から人は、相手について大いに誤解しながら会話を続け関係性を続けているのだろうな。
物語は3章からなる。
1章目「窓」は、8人の子供を持つ夫婦とその友人たちが、スコットランド沖にあるスカイ島に休暇に来ており、翌日晴れたら灯台に行こうと話し、夕飯を共にするシーンである。100-200ページほどが費やされるが、それ以外に事は起きない。午後〜夜にかけての間の、それぞれの登場人物の心の内の描写がほとんどである。そしてことごとく互いについての理解や思考はすれ違っていることが読者にはわかる。女主人であるラムジー夫人が印象的。
2章目「時はゆく」はとても短い。フラッシュバックのように、パッ、パッ、と、ロンドンに戻ったラムジー家のメンバーのその後が示唆される。時代は世界大戦をくぐりぬける。
3章目「灯台へ」は、10年後、再びスカイ島の別荘に、ラムジー家のメンバーと友人が集まっている。この10年の間に、家族の何人かは亡くなっている。喪失感がぬぐえない中、一行は、もう一度灯台を目指す。この章では、10年前もゲストであったオールドミスの絵描きのリリーの思考が大半を占める。
3章の中でリリーは、亡き人、過ぎた日を思い出しながら、この場所全てにいかに恋していたかという思考にふける。「愛には一千もの形がある。この世の中には、物事のなかからある要素を選び出して、それらを一つに並べ、そこに現実とは違う完成度を与える」ことがあるもので、「そうした思い出に人はいつまでも思いを巡らせ、そこに愛は戯れる」と気づく。
本当はどうだったかなんて、相手が生きていてもわからないもので、ましてやその人が死んでしまったらわかることなんて永遠にない、それでも、(本当のところはどうであれ)あの人はこうだったと思い出すことは愛である。それでいいのだ。生きている人でも亡き人でも、知ろうとすること、思い出し想いを巡らせることが、愛なのだ。
そういう小説だった。諸行無常であるが、想い馳せる限り愛はずっとそこにある。そして生きている人の人生やあり方や考えは様々あっ���いい。
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複数の翻訳を読むことでいろいろな解釈が読み手の中で重なり〜と訳者あとがきにもあったことだし、岩波版も読んでみようかな
掴みきれなかった、で終わらすのはもったいないような気がするんですよね
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最初の2ページめまで読んだだけで、あまりの日本語の美しさに読むのがもったいないぐらいの気持ちになり、原文も読んでみたくなり、Amazonへ行って原書を買い物かごに入れてしまった。
小説のモデルは作者ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)自身の子供時代の家族。
哲学者ラムジーとその妻、ラムジー夫人と8人の子供たちがスコットランドの別荘で過ごしている。家族だけでなく、ラムジーを崇拝している学生?のタンズリー、ラムジーの親友バンクス、老人のカーマイケル、オールド・ミスの画家リリー、近所?の若者、ミンタとポールも別荘に招待されて一緒に過ごしていた。
「ええ、いいですとも。明日晴れるようならね。」
というラムジー夫人の言葉で小説は始まる。
「灯台へ行きたい」という末っ子のジェイムズ(6歳)に答えたのだ。その母の言葉を聞いてすっかり舞い上がった息子。しかし、父親のラムジーはそんな小さな息子に冷たく現実を突きつける。
「そうは言っても、まず晴れそうにないがね」
たった6歳の息子の前でも自分の判断の正しさを突きつけたい、鼻持ちならないインテリ親父に息子は手斧か火かき棒で殺してやりたいくらい腹がたった。夫人もそんな夫に苛立ち、「でも晴れるかもしれませんよ。なんだか晴れる気がしますね。」と言いながら「灯台守りさんにプレゼントする靴下」を編んでいた。
また、ラムジーを崇拝するタンズリーもわざわざラムジーの横に立って「この分だと明日の灯台行きはなしですね」と言う、イケスカナイ若者で、子供たちから「ちびの無神論者」と言って嫌われている。
ラムジー夫人はそれぞれ個性的な8人の子供たちに寄り添いながら、夫やタンズリーの自尊心も上手に「ヨイショ」し、ミンタとポールという若いカップルの誕生を横目で見守り、更に画家のリリーと男寡のイケオジ、バンクスもちょっといい感じなのでそれとなく近づけておくという、なかなかやり手?の女性なのだ。みんな揃っての晩餐会では、とっておきの「ブフ・アン・ドーブ」という料理で客人をもてなし、そんな時間を「邪魔くさい」と思っていた男性陣も絶妙に会話を回すラムジー夫人の作り出す和やかなひとときと夫人の美しさに魅了されるのだ。
また、ラムジー夫人とは全くタイプの異なる画家のリリーも「女はやっぱり結婚よ」という夫人の言葉には反感を覚えつつも、夫人の美しさ、優しさ、その存在が作る美しいオーラのようなものに慕い、同性でありながら思わずその膝にすがりつきたい衝動にかられるのであった。
さて、この小説、「何が起こるか」と言えば、特に何も起こらない。「灯台に行けるか、行けないか」の会話で始まる、ある海辺の別荘での半日での人々の意識の流れ、それだけで第一部「窓」(216p)は終わるのである。
だけど、特に何も大きなことが起こらない意識の流れだけの構成で、どれだけ人間が愛おしくなることか。
小さな子供もいるとはいえ、もう50代のラムジー夫人。人生経験豊富な彼女が、娘のローズが晩餐会に母親が付ける宝石選びをしてくれる時に思うこと
「自分の過去から推すに、ローズの年頃の女子が母の対して、口には出さず心の奥でどん��深い感情を抱くものか、ずばり分かるではないか。人が自分にむける気持ちを思うときの常で、なんだか悲しくなる。夫人は思う。こちらからはとてもそれに見合う気持ちを返せないもどかしさ。しかもローズときたら母の実像にはひどく不釣り合いな深い気持ちをもってくれている。この子もやがて大人になる。こんなに情が深くては苦しむこともあるだろう。」
ただ、「優しい」とか「感激した」とか「心温まる」とか単純な言葉では言い表せない。嬉しさと悲しさ、人生の喜びと無情など裏腹の気持ちが常に一瞬一瞬、表と裏を見せながら瞬いているのだ。
インテリでイケスカナイ権力者のラムジーが夫人と腕を組んで散歩している時に「きれいなもんだな」と突然話しかけ、花に見とれているような顔をしたシーンも好きだ。「本気で花に見とれているわけではないし、私を喜ばせようとしているだけ」だと夫人は承知しているのだが、実はラムジーの親友のバンクスは意外とラムジーが小動物を愛でたりするタイプであるのを見抜いていた。夫人の存在は「ドライな学者」肌のラムジーから意外な側面をホロっと引き出してしまうのだった。
第一部でたった半日のことが216pを使って書かれているのに対し、第二部の「時はゆく」はその後の10年間のことをたった30ページほどで書いている。その間に夫人は亡くなり、息子の中のアンドルーは第一次世界大戦で戦士し、娘のプルーも産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまった。例の別荘には誰も訪れず、本はカビ、家の中に燕が巣を作り、キノコも生えていた。まるで、風か家が語るような10年間。そしてある日、「別荘に行くから使えるようにして」と掃除婦のところに手紙が来て、マクナブ婆さんは大慌てで片付ける。
第三部「灯台へ」は第一部から10年後。第一部で登場したメンバーのうち、画家のリリーと詩人のカーマイケルとラムジー氏と一番末っ子のジェイムズと下から二番目の娘のキャムが別荘をおとづれた。
ジェイムズとキャムは突然「灯台へ行くぞ」という父に無理やり連れてこられたのだ。10年前のあの時には「この天気では灯台には行けない」と無神経に子供の夢を壊した父が、今度は自分の権力で子供を灯台に連れて行くのだ。70代になっても頑固な権力者の父親に子供二人は渋々ついて来たが、心の中では反抗を決め込み、ジェイムズとキャムは「父には反抗する」という協定を結んでいた。しかし、キャムは弟とのこの協定を破ってしまう。だって「そこに父さんがいる」という揺るぎない。安心感があったから。そして、ジェイムズもついに「父への反抗心」が折れてしまった。だって灯台に到着したとき、ずっと船尾で船を操ってきたジェイムズに「よし、よくやった」と褒めてくれたから。
子供の時に別荘の窓から見ていた、白くてボォっと一つ目の灯がともり、幻想的だった灯台。至近距離で見ると白黒の縞模様でゴツゴツと無骨な感じだった。人間もその人を見る距離と角度によって全然違って見えると感じさせた。
ヴァージニア・ウルフはフェミニストとして有名だが、彼女の愛についての考え方について、画家のリリーが次のような言葉で表している。
「愛には一千もの形がある。この世の中には、ものごとの中からある要素を選び出して、そ��らをひとつに並べ、そこに現実とは違う完成度を与えるというのか、ちょっとした場面や人との出会い(みんなすでに亡くなられているか離れ離れになっても)を、あの円かで凝縮された世界にまとめあげるというのか、とにかくそんな資質に恵まれた恋人たちもいるのだろう。そうした思い出に人はいつまでも想いめぐらせ、そこに愛は戯れる。」
現代のLGBTが何%いるとかそんな議論は陳腐に思えてくる。「愛には何千もの形がある」。「どんな愛を肯定するか」ではなく、「どんな愛を選んでどんな形で生きていく」ではないか。
また、フェミニズムというと男性と同じような女性の生き方を主張しているようだが、「良妻賢母」という従来の女性の生き方で、周りの人に高感度のアンテナを巡らせ、緻密で絶妙な気配りをして、沢山の人を幸せにするラムジー夫人のような女性の能力も自立した画家のリリーのような生き方も両方をウルフは賞賛していると思った。
第三部で灯台についたとき、パルプ紙に包んだいくつもの「灯台守りへのお土産」をラムジー氏は持っていた。その中身が何かは書かれていなかったが、私は包み紙の中身はラムジー夫人が編んでいた「靴下」だったと思う。そう、ここではもうラムジー氏は「亡くなったお母ちゃん(夫人)の気持ちを届けたいおとうちゃん(夫)」ではないか。昔、高名な哲学者で自尊心が高いラムジーだったが、角が取れ、どっしりと安心感のある灯台のようなお父さんになったのであった。