天使のくまさんのレビュー一覧
投稿者:天使のくま
ガザに地下鉄が走る日
2023/04/07 11:21
虐げられたものが虐げるやりきれなさの向こう
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アラブ文学の研究者である岡による、パレスチナをめぐるエッセイ集。とはいえ、パレスチナが置かれた現状は重い。
虐げられたものが、一転して虐げる側にまわる。そういった物語は、少なくない。悪の親玉が実はかつて差別され虐待されてきた存在だった、とか。そんな小説やマンガも、いくらでもあげることができる。けれども、現実においてそれに近い存在というのは、ユダヤ人社会だと言っていいと思う。
第二次世界大戦において、ドイツによって大量のユダヤ人が虐殺された。そして戦後、ユダヤ人国家を建設するために、パレスチナ人が住んでいた土地を、約束の地として、そこにイスラエルを建国し、パレスチナ人を排除し続ける。
岡は、学生時代から何度もアラブ世界に足を運び、ヨルダン川西岸も訪れる。ただし、ガザに足を運べたのはかなり後になってからではあるが。そして、そこで見たこと、アラブの友人から伝えられること、が語られていく。時に、現在進行形で。
パレスチナ人は、イスラエルで二級市民として暮らし、レバノンなどで難民となり、ヨルダン川西岸で土地を奪われたまま暮らし続ける。亡命するものもいれば、ガザ地区に閉じ込められる人々もいる。とりわけ、ガザを表した言葉、「無期懲役、ときどき死刑、罪状はパレスチナ人であること」というのが痛々しい。
イスラエルはパレスチナ人の大量虐殺は行わない。増えてきたときに、刈り取るように攻撃する。殺すのではなく、生きる気力を奪うように。人数ではなく、長い時間をかけた虐殺、ということになる。
難民キャンプがどういうものかも語られる。テント暮らしではない。それなりの建物があり、世代が交代していく。それはキャンプに見えないかもしれない、という。けれども、人が長く暮らしていく過程で、キャンプはそうしたものになっていくという。
岡は、同じ状況が日本にもあるという。かつて、半島から移住せざるを得なかった朝鮮人が住み着いた大阪の地域。違法建築に住むため、行政の支援は得られない。とはいえ、そこから出ていくこともできない。
パレスチナは遠い話ではなく、日本という国が沖縄や北海道で同じことをしていない、とはいえないのではないだろうか。そうしたことも、考えてしまう。
登山と身体の科学 運動生理学から見た合理的な登山術
2024/06/18 08:48
登山をする人は読んでおいた方がいい
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ゆる山上りが趣味なのですが、健康や体力、筋力みたいなことと登山で使う身体との関係が理解できるので、とても役立ちました。
登山はわりと全身運動なので、地上でウォーキングやランニングをするだけじゃだめだし、水泳や筋トレだけでもだめで、いろいろなトレーニングをした方が効果があるということ。毎日のウォーキングに対し、長時間になる登山を週一で行うは十分に一か月あたりの運動量を確保してくれること。
登山で主に使う筋肉の鍛え方。
登山を安定してできる体力の作り方と登山の目安、など。
一か月あたりで上りと下りで合計2000メートルくらいが目安なので、毎週、500メートルくらいのゆる山を歩くのは、けっこう理想。
まあ、毎週登山というわけにもいかないので、そこでもう少し高低差のある山をまぜる、とかね。月イチで2000メートルというのも非現実的だし。
あと、継続は力なり、2か月も休むと、登山の筋肉が落ちる。
おすすめの筋トレは、まずはスクワット。腿の筋肉を鍛えよう。
とまあ、そんな感じで、いろいろ学べます。
何より、何が無理な登山なのかも指摘してくれていること。事故は防ぎたいですよね。
登山は何歳になってもそれ相応に楽しめるスポーツなので、長く楽しみたいです
知の果てへの旅
2023/06/06 10:40
知の果てノセンスオブワンダー
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デュ・ソートイといえば、これまで「素数の音楽」「シンメトリーの地図帳」といった数学ノンフィクションを書いてきた数学者だ。「素数の音楽」では、素数における規則性に関するリーマン予想をめぐる内容だし、シンメトリーの地図帳は対称群の分類をめぐる内容だった。とはいえ、数学の専門書などではなく、また一方的に解説していくというわけでもない。素数や群論をめぐる旅をしているような、そんな本だ。外国文学のブランドである新潮社のクレストブックスから刊行されているというのも、そうした文学性を持った本だからというのがある。
一点して、本書では、数学以外の世界にも足を踏み込む。無限に小さい世界、無限に大きい世界、宇宙の果て、時間の始まり、意識とは何か、カオス、量子物理・・・・・。
こうした分野にまで足をつっこむことになったきっかけは、デュ・ソートイがオックスフォード大学の数学の教授に加えて「一般の科学へのためのシモニー教授職」というポストを得た。どういうポストなのかよくわからないけれど、どうやら一般の人に対して科学を伝えるという立場らしい。前任者は「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスだという。
ということで、生物学や物理学や化学のこともちょっとは知らなきゃいけなくなった。そこで、それぞれの分野の知の果てはどうなっているのか、ということを書いたのが、本書である。
例えば、この世界を構成する物質をどんどん小さくしていくとどうなるのか。原子、それを構成する電子と陽子と中性子、そして陽子や中性子を構成するクォーク。さらにその先、大きさの限界は、プランク長という長さにたどりつく。
こうしたことが、専門的な知識がなくても読める、というかデュ・ソートイによって無限に小さくなっていく世界への旅に連れていかれ、まさにその風景としてこれらを見ているからだ。そして、文学的なことを言えば、本書はある種の世界の真実に入っていくことで、読者自身のあり方にも何かしらの本質を伝えているからだ、ということになる。
そうそう、コインを投げて表が出る確率と裏が出る確率は同じではないらしい。表と裏は同じではないから。そんなエピソードも紹介される。
本当に、現在における知の果てのセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる以上の本だと思う。
2024/11/06 10:59
政治的にスリリングな近代史
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たかだか200年もない期間が、歴史として扱われるというのは、けっこう学ぶことが多いかもしれない。そんなわずかな昔のことでさえ、正確には記憶が伝承されていないから。
東京オリンピックひとつをとっても、何となく1964年は成功したけど、2020年(の翌年)はさんざんだったなあ、くらいに思うかもしれない。でも、1964年ですら、さんざんだったことがたくさん。どれだけホームレスを排除したか、無理な新幹線の工事でどれだけ死んだか。
日本は戦争はもうしないと思われているけど、戦後復興に朝鮮戦争がどれだけ寄与したか。
関東大震災の復興と太平洋戦争の復興はどうだったのか。東京のどこが郭町だったかも。
荒川放水路の掘削なんかも、遠い話。
結局のところ、そういう歴史の上にぼくたちがいるわけで、もちろん平安時代も江戸時代もあるけれども、近代史もある。というか、ひょっとしたら、タチが悪いことに、近代史は捏造され続けてきたのかもしれない。明治時代以降のものが、なんとなく日本の伝統にされているし。
という意味で、近代史は政治的にスリリングだとも思うのです。
2024/09/27 14:33
釣った魚を料理しておいしいお酒と合わせるだけですてきです
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魚を釣ってきちんと料理をしてしかもお酒と合わせるというだけで、ぼくにとってツボ。
釣った魚を食べるのって、作品中でもワイルドってあるけれど、狩猟生活って現代でがなかなかすることがないので、それだけでも貴重。
魚の調理の仕方もきちんと解説されているし、紹介されるお酒もわりといい感じの、知る人ぞ知るお酒だし。
まだタイとアジだけれど、いろいろな魚を紹介してほしいです。
もちろん、主人公たちも好感がもてます。
2024/07/23 06:19
プロレス愛にあふれた本
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2巻で完結してしまうのがもったいないと思う。
プロレス愛にあふれた作品。人を癒すためのプロレス、という点がなかなか大事なところなのではないだろうか。
徹底解説GX時代の電力政策 電気事業のいま 続
2024/06/17 15:40
電気事業に関わる人は通読するといい
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電力システム改革とか、ぐだぐだになりながら進んでいます。毎日のように審議会が開催されています。
そんななかで、どんどん複雑なしくみになっている電力制度ですが、本書を通読すると、それがどのようなものなのか、良く整理されています。現在だけではなく、今後の見通しまで書いてあるので、とても便利です。
ただし、あくまでも制度の解説であり、現場がどのように対応しているのかは、わかりません。また、基本的には政策の解説ですから、その政策が間違っている可能性も十分にあります。誰も取得しなかった配電ライセンスはその一例です。その上で、まずはこの本とその前の本を2冊通読することで、改革にはついていけるし、審議会ウォッチにも手助けになります。いずれにせよ、電気事業に関わる人は通読しておくといいと思います。
いま語りえぬことのために 死刑と新しいファシズム
2023/11/28 10:42
天皇制と死刑制度の共通性
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本書を読んでいて、最初に感じることは、天皇と死刑囚の共通性。
思い出すのは、昨年秋、園遊会で山本太郎参議院議員が天皇に直接手紙を渡したことが事件になったということ。政治利用だとかヤンキー的好意だとか、山本もいろんな方面からさんざん批判されていた。でも、この事件でもっとも違和感があったのは、その手紙をすぐに宮内庁の職員が回収し、天皇には届けられなかったということだ。そして、それがわりとあたりまえのことのようにスルーされてしまったことにも、強い違和感があったのだけれども。
なぜ違和感があったのか。一般的に、自分宛ての手紙が、自分の承諾もなしに届けられないということについて、問題ないと思うことがあるだろうか。もちろん、その後、山本に届けられた銃弾の入った手紙を届けるということは論外だけれども、少なくとも、差出人が明確であり、危険性のない手紙が届けられないということは、あり得ないはずだ。
けれども、日本において、自由に手紙を受け取れない人間がいる。それが、天皇と確定死刑囚だ。本書において、辺見は死刑囚で俳人である大道寺将司との交流を通じて、手紙に同封した犬の写真も、句集の受賞のお知らせも届いていないことを明らかにする。さらに、辺見から届いた手紙が黒くぬりつぶされた箇所が多くあり、しかもとりたてて思想的なもののない俳句が塗りつぶされているとも。
そして読み進めていくと、辺見は「見えない」ものとして政治利用されているという点で、天皇と死刑囚が共通しているという。死刑囚がどこでどのように殺されていくのかは、明らかにされなかったし、明らかにされない、すなわち見えないことによって、死刑囚に対する想像力は人々の間で働かなくなり、憎悪の声だけが拡大する。天皇もまた、皇室のさまざまな行事は非公開で行われており、実際に人々の目に見えず、神格化される。天皇の人格がどのようなものなのか、どのような意思を持っているのか、死刑囚と同様に知られていない。
とても奇妙なことだけれども、天皇の政治利用はタブーとされているにもかかわらず、「見えない」ことによって、容易に政治利用できるものとなってしまっている。意思を明確にすることがない天皇とその一族を出すことによって、簡単に権威づけることができる。死刑囚もまた同様に、見えない憎悪の対象とすることで、本質的な問題(たとえば、なぜ殺人事件が起きたのか、社会制度における不備など)から人々の目をそらすことができる。
こうしたことが、現在の国粋主義的な政権につながっているのだと思う。集団で憎悪を抱える人々が新しいファシズムの担い手になっていく。そのことが、オウム真理教という狭い教団の中で起こったことの相似形として、日本で起きている、ということだろう。
辺見は、こうした点から、集団であるということに対して絶望すらしている。個人として戦え、と。個人として、屈するな、と。何だか、「ぼっち」であることの方が、よほどまともなんじゃないか、とでも言うように。
ぼく自身の考えからすれば、この国で死刑制度が存在すること、このことを「国民」の過半数が支持しているということで、この国の集団はダメなんじゃないかって思っている。死刑制度を自明のもののように支持すること自体が、日本国憲法における「基本的人権」について、それがいかなるものなのか考えていないことの証左だと思う。そして、そうした国民が過半数の状況で、「基本的人権」をないがしろにするような法律の成立は容易だとも思う。
未明の闘争
2023/10/30 14:34
保坂和志が小島信夫の「残光」みたいな小説を書くとこうなる
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保坂の小説をいろいろ読んできたし、ドラマがないのはいつものことなんだけれども。ここでは、保坂は意欲的に、小島信夫の「残光」みたいな書き方をしている感じがする。あ、「残光」は小島の最後の長編で、90代となった作者のあやしい記憶が、としよりらしいくどさで書かれた作品。
で、本書はどんな感じで書かれているのかというと、ある時点から追想に進み、そこからまた別の追想の場面へと続く。現在はいつなのか、ということがまったく意識されない。そんな風に小説は進んでいく。でも、だからといって、話のすじが追えないような難解な小説でもない。というか、すじはそもそもないし。
この小説は、死んだ友人が道路を歩いているという光景からはじまり、病気の猫の死で終わる。保坂の「世界を肯定する哲学」では、自分が死んでも世界はある、ということが述べられていたけれども。この小説では、誰もが死ぬ、けれども世界は続いていくし、残された者は生きていく、そうした哲学が、感覚として伝わってくる、そういうものなのだと思う。それを、どのように闘争というのかは、なかなかうまく言えないのだけれども。
稲妻
2023/10/30 14:31
テスラのこだわりの内面
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ジャン=フィリップ・トゥーサンのような、ちょっとずれた感じのするフランスの小説は好きだ。ジャン・エシュノーズもそんな小説を書く作家の一人。ポストモダンといえば、そうなのかもしれない。
本書は、「ラヴェル」にはじまる三部作の三作目とのこと。邦訳のある「ラヴェル」は、忌の際の主人公を通じて、モーリス・ラヴェルの人生の断片を描いた作品。二作目では陸上競技のアスリート、エミール・ザトペックが主人公らしい。そして本書はニコラ・テスラが主人公。もっとも、本書に限っては、グレゴールという別の名前がつけられている。
「稲妻」というタイトルが示すように、テスラは電気工学の発明家。同じ時代のトーマス・エジソンとよく比較される。エジソンが実業家として成功する一方、テスラはすっかり狂人扱い。おかげで、けっこうSF小説にも登場する。発明王エジソンは、本書ではすっかりダークなGEの創業社長、例えばユニクロの柳井正みたいな悪役として登場する(柳井は正確には創業者じゃないけど)。
本書の軸は、エジソンとの確執。直流にこだわったエジソンに対し、交流の有用性で技術開発を進めたテスラの方が、技術的には後に影響を残している。けれども、テスラの人生は実業家のそれではない。自分の仮説に対するこだわりをつらぬき、ある意味で不遇な人生。そのこだわりの内面が、短い小説の中で描かれる。テスラの人生が簡単に要約できるものだとは思わないけれども、チャールズ・ユウの「SF的な宇宙で安全に暮らす、っていうこと」になぞらえれば、エシュノーズは人生の特異点を取り出してくれるっていうことになる。その特異点がずれてしまった人生の一部、それがこの小説の魅力なのだな。
惡の華 11 (週刊少年マガジンKC)
2023/09/15 17:21
アジフライがおいしそう、佐和の視点から物語の読み直しが求められる。
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物語は中学校でスタートする。主人公の春日高男は、ボードレールの詩集「悪の華」を愛読する中学生だ。クラスメイトの佐伯奈々子のことが気になっている。ある日、誰もいない教室で彼女が置き忘れた体操着を見つけ、これを盗む。モラルに対して自分の欲望を正当化する「悪」の行為を、だが、同じクラスの仲村佐和に見つかってしまう。
仲村さんはクラスの中でも浮いた存在。勉強する気もなく、教室を、学校を、自分の住む町を軽蔑している。教師のことを「くそむし」と思っている。
その仲村佐和は、春日高男の姿を見て、自分と同類の人間を発見したと感じる。そこから、彼女は、体操着の窃盗をねたにして春日高男に変態的な行為を要求する。同時に、仲村佐和は群馬県の桐生市とおぼしき町を心底嫌っている。父親との二人暮らしだが、父親への愛情はない。早く町を出て行きたいと思っており、そのために春日高男を連れて行こうとする。殺風景な部屋に住む仲村佐和は、ネガティブな綾波レイといった感じすらする。
1巻から7巻まで続く中学校編は、佐伯奈々子を巻き込み、破滅に向かって突き進んでいく。春日高男は、地獄に道連れしてくれる仲村佐和から離れることができない。最後、町を出ようとしてもどこにも行けないこと悟った仲村佐和は、祭りの舞台で春日高男とともに焼身自殺を試み、失敗する。火をつける直前に、仲村佐和は春日高男を押し倒し、自分一人で死のうとするが、それを父親に防がれる。この事件を契機に、それぞれが町を離れていく。
埼玉県のどこかとおぼしき町で、高校編がスタートする。春日高男は事件以来、すっかりぬけがらのようになっている。それでも、「悪の華」が好きな文学青年であることは変わっていない。物語は、文学少女で小説をこっそりと執筆している常盤文と出会い、再び動き出す。
こうした中、春日高男は町で佐伯奈々子を見かけ、彼女が普通の女子高生としてどうにか自分を取り戻していることを知る。そして、祖父の葬儀で故郷に帰ったとき、佐伯奈々子の友人だった木下亜衣から仲村佐和の居場所を知る。千葉県で母親が営業する食堂を手伝っているという。
一方、常盤文は小説を書き上げる。最初の読者は春日高男になるはずだった。だが、春日高男は読めないという。春日高男にとって、仲村佐和との関係は決着がついていなかった。春日高男は常盤文に全てを話す。祭りでの焼身自殺未遂で、なぜ彼女が自分だけを生かそうとしたのか。その答えを求めて、常盤文とともに千葉県に向かう。
春日高男と常盤文は仲村佐和がいるとおぼしき食堂に入り、アジフライ定食を注文する。最初に出てきた仲村佐和の母親は、「彼女をそっとしておいて欲しい」という。けれども、料理を運んできた仲村佐和に対し、自分であることを打ち明ける。定食に手をつけようとしない二人に対し、仲村佐和は「おいしいよ」と、食べるようにうながす。母親との平穏な生活の中で、彼女はそう言えるだけの余裕を取り戻していた。
このあと、三人は浜辺で会うことになるが、このときの、もう眼鏡をかけていない仲村佐和の表情は、心を打つ。
欲望によって抱えてしまった心の闇・黒歴史を、結局はずっと抱えて生きて行かなきゃいけない。その闇は、遠くで生きている仲村佐和としか共有できないものだけれども。そして、仲村佐和の抱える闇を、春日高男は抱えきることができない、変態ではなく「ふつうにんげん」でしかないとも悟る。けれども、物語は、仲村佐和の視点から読みなおすことを強要する。仲村佐和にも幸せになって欲しいと願わずにはいられない。
似非 マキエマキ2nd
2023/09/15 16:59
自分を取り戻した自身に満ちたセルフポートレート
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この50代っていうのが、重要だったりする。というか、そこには、若さを売り物にできなくなることで、自分の身体を取り戻したのではないか、ということがあるからだ。もちろん、50代にならなくても、自分の身体は自分のものであり、無用に他者に消費されるものではない。とはいえ、そこには若い女性の身体を消費したい欲望を持つ人は少なくないし、それが適切な取引の上でのことならいざしらず、非対称な関係の中で消費されていくということに対しては、マキエマキは異議申し立てをする。マキエ自身、歳を取ることで自由になったと、第2写真集「似非」で書いている。50代になることで、第三者が勝手に消費しない身体を手に入れることができた、ということなのだと思う。それでも、決して老いているわけではない、健康な身体でセルフポートレートを撮影するときに、エロティシズムは自分のものであるし、マキエ自身が欲望の主体として画面に収まるし、そして、そのひとつのあり方として、昭和というモチーフを展開していく。別に、ヌードになるということだけではなく、古いスナックや漁港で、男性に欲望される女性を演じる。演じるという段階で、主体は自分自身なのだけれど。それは、架空のポルノ映画のポスターとして製作されることもある。
ヌードについても、全裸をさらすというのではなく、下着姿であり、入浴時はタオルで前を隠すくらいはしている。隠すことのエロティシズムもまた、織り込んでいる。それは、現在のセックスを露骨に撮影しているアダルトビデオにはない、昭和のポルノ映画の持つ想像力を刺激する回路と距離感を持っているということだ。
もうひとつ大事なことは、50代のエロスを取り戻した女性を被写体とする作品に対し、リスペクトすることを求めているのではないか、ということ。ツイッターでも画廊でも、彼女にからんでくる、しばしば中高年の男性がいる。ちんこの写真を送りつけたり、とか。作品が提供しているもの以上のことを、無償で求め、消費しようとしている相手に対しては、強く拒否する。非対称性による一方的な消費を拒否している、ということだろう。知らないところで勝手におかずにされるのは、まあしかたないとしても。
旅館の布団に下着姿で寝そべり、温泉につかり、あるいは山頂や中野ブロードウェイでほたてビキニをまとった肢体をさらす、そのテイストはときに、つげ義春の「ゲンセンカン主人」における爛熟さを思い起こさせることさえある、そうしたマキエは等身大の欲望を持った主体であり、それを取り戻したということが、そこにある。
マキエ自身が気にいっているという「似非」の表紙の写真は、どこかの洋館の中とでも言えばいいのかな、その階段から見下ろす、SMの女王様姿のようなマキエのセルフポートレートだ。そこには、自分を取り戻した自信に満ちた姿がある。
くらべるエロ 32の嗜好くらべ
2023/08/23 08:29
私のエロは私が決める
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マキエマキといえば最近「人妻熟女自撮り写真家」として知られるようになってきた。一般的には、キワモノ的に思われているんだろうとは思う。でも写真家としてのキャリアもあるし、語るべき作品だよな、と思う。単純な熟女ポルノ写真というわけじゃない。
なんでマキエマキが気になるかというと、彼女の「私のエロは私が決める」ということにある。
ジュディス・バトラーのキャサリン・マッキノン批判には同意してしまうのだけれど。それでもマッキノンが言うように、ポルノグラフィーのかなりの部分は、男性の消費のために独占されてきたとは思う。ただ、それを反ポルノに収れんさせてしまうと、女性自身にとってのエロというのも一緒に追いやられてしまう。エロいことは悪いことではないし、むしろそれはぼくたちにとっても、生きる上で重要なピースであるとも思う。
だとしたら、エロを自分の手元に取り戻してもいいのではないか。自分にとってのエロいこととは何なのか。ある意味、人妻熟女は、男性にとって消費の対象としての価値は下がっているのではないか。だからこそ、自分を取り戻すことができたんじゃないか。そんなことも含めて、マキエマキは自撮りをしていく。エロいツールとして、セーラー服やホタテビキニをまとい、エロい場所としてラブホテルや古い家屋、場末のバーの通りに向かう。ぼくも世代が近いので、彼女の言う昭和の風景には、いろいろ感じてしまう。
では、そもそもエロいのはどういうものなのか。『くらべるエロ』では、自撮りを離れ、若いモデルを通じて、エロい要素を分解・単離し、提示してくれる。あらためて、示されると、エロいことについて、何に感じていたのか、なんかおもしろい。胸の谷間と太ももの隙間のどっちがエロいか、とか、下乳と横乳とか。マキエのツボを押さえた撮影が、そのことを明確にしてくれる。その意味では、「おまえのエロは、おまえが決めろ」と言われているような気もする。でも、そんな問われ方って、あまりされていない。という意味で、けっこう貴重な本かもしれない。
自撮り写真については、第二写真集の『似非』も出たばかり。写真もさることながら、昭和のエロ本のようなコピーもいい雰囲気だし、何より自分の作品への想いについて、いろいろ語っている。エロい自分というのを取り戻す挑戦というようなところもある。
とまあ、そういうマキエマキなのだが、セーラー服の写真だけは、「娘の高校卒業記念にお母さんが着ちゃいました」感が強くて。個展に行ったときに、シールをもらったんだけど、実はちょっと困りました。
ホフマン博士の地獄の欲望装置
2023/06/06 10:52
短距離走の連続のような、カーターの読みやすい傑作
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そもそも、アンジェラ・カーターに興味を持つようになったのは、サンリオSF文庫のおかげだ。近刊予告に「ホフマン博士の欲望装置」という作品があって、どんな作品なんだろうと。でも、それは刊行されることなくサンリオSF文庫そのものがなくなった。そしてその後、「魔法の玩具店」や「血染めの部屋」、「夜ごとのサーカス」、「ワイズチルドレン」、「ブラック・ヴィーナス」、「花火」などが、コンスタントに出版され、最近では「新しきイヴの受難」もあった。サンリオSF文庫以前に唯一出版されていた「ラブ」は図書館で借りて読んだ。どの作品も読みやすいというわけじゃないけれども。そうした中にあって、童話を題材にした作品は、フェミニスト作家であるカーターのわかりやすい一面に触れることができるし、そこから、他の作品に入り込んでいくことができるんじゃないかな。
それから、カーターは一時期日本に住んでいたことがあって、えーと、銀座かどこかのバーでバイトをしていたとか、そんな話もある。「花火」にはそんな日本の風景が出てくる。だったらもっと日本でも読まれてもいいのに。
ということで、サンリオSF文庫の近刊だった本書が、30数年ぶりに翻訳出版されるというは、生きててよかったというレベルですね。
カーターというと、マジックリアリズムの作家という面もあって、長編はその傾向がありますが、本書がそこにあてはまってきます。南米の作家が注目されていたということもあったのかもしれません、謎の国家という舞台で話が始まります。主人公デジデリオはこの国の「決定大臣」の秘書。そもそも決定大臣っていうのが謎ですね。そして、デジデリオの使命はこの国に敵対するホフマン博士の有害な欲望装置を壊すこと。そして実際に、デジデリオはホフマン博士を倒すが、同時にデジデリオ自身が恋に落ちた相手でホフマン博士の娘であるアルバティーナをも失うことになる。
というのが、序章で示される枠組み。ここから始まる全8章は、ホフマン博士を追う異世界巡りとでもいうべき物語。人食い人種にケンタウロスの世界、サディストの館などなど。アルバティーナはさまざまな形でデジデリオの前に表れ、苦しみを共にする、どころじゃないくらいの目にあう。ポルノグラフィのイメージが繰り返し描かれて、お尻の穴も痛くなるくらいだし、日本のラブホテルのイメージも使われているとか。まあ、本書執筆当時のカーターは日本に住んでいたということだし。
緻密に構成されたというよりも、全8章をそれぞれ短距離走のように走ったという勢いがある。南米のマジックリアリズム作品には、書かれた場所の不合理な政治性が背景としてあるのだけれど、カーターにとっては、それはあまりない。むしろ、フェミニストとして、女性の持つ欲望と社会が求める欲望との間に折り合いがつかないという、そうした別の政治性がそこにあるのではないか。それが、ポルノグラフィの姿で描かれているのではないか。そうしたとき、マジックリアリズムというよりは幻想小説のような姿になっていく。
そして。本書全体を包み込むのが、SFとしての枠組み。アイデアとしては、今となってはどうかとは思うけれども。それでも、十分に不快な地獄巡りを終えた読後感は、なかなか軽くはない。この後のカーターの作品として展開していくテーマが、それぞれの章に分けられているのではないか、という気もしてくる小説。
それはそれとして、これがサンリオSF文庫で出ていたら、やっぱり読みにくい変なSFだとか思われただろうなあ。
月
2023/06/06 10:42
辺見庸のもっとも絶望に満ちた作品
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本書の読後感は、ひたすら絶望がひろがってくるというものだった。
モデルとなったのは、相模原市の障害者施設における大量殺人事件。主な登場人物はその障害者のきーちゃんと殺人にいたる職員のさとくん。主人公である障害者の一人称で語られていくが、同時にその分身として健常者のあかぎあかえも。
きーちゃんは重度の障害者で、舌すら動かすことができない。ただ、意識だけがあり、感覚だけがある。目が見えるわけではない。意思を伝えることすらできない。そうした絶望の中で、意識は思索を続ける。限りなく絶望的な世界で、思索を続ける。だが、そこに照射されるのは、同じく絶望的な外部の世界だ。それが例えば安倍内閣だ。
一方さとくんは介護職員として、きーちゃんらの介護に向き合う。さとくんから見た、きーちゃんたちの絶望的な生に対し、それが人間なのかどうか、疑問を持つ。それは人間として生きるに値するのか。そうではないから、死んでもらう。さとくんは、やるときはやる。
けれども、絶望的なのは、絶望的に見える生に対して価値を認めないという考え方そのものだ。人の命を仕分ける考えこそ、現代社会につながっていく、絶望的な回路ではないのか。
別に、安倍内閣だけじゃない。きーちゃんの意識の中に入ってくるものは、世界各地の残虐な風景でもある。
きーちゃんは意識だけの存在のような、絶望的な生ではあるが、その意識の中の想像力が、心を走らせる。なのに、周囲は、きーちゃんに心があるのかどうか、疑問に思う。心が無いなら、殺してもいいのではないか。けれども、殺す側に人の心があるのかどうか。
人の心が感じられないほど、想像力の欠如した政治が、人の心をむしばんでいく。
繰り返し使われるフレーズ、「ロッカバイ」、子守歌ではあるが、どうしてもぼくはサミュエル・ベケットの戯曲「ロッカバイ」を思い浮かべてしまう。そういえば、ある一節では、ロッカバイの歌にまじり、「いったりきたり」「しあわせな日々」「わたしじゃない」と続く。
ベケットの作品、例えばとりわけ末期の「いざさいあくの彼方へ」などは、死んで墓場に入っているであろう人のモノローグだ。生きる可能性がすべて消尽した世界が、他の作品でもたびたび語られる。
辺見がベケットを念頭に置いていたのかどうかはわからない。それでも、ここにある世界は、どうしても、そもそも人として消尽してしまったきーちゃんの、それでも心を持って生きる意識に対し、それよりもはるかに絶望的な社会に置かれた人の姿が映しだされる。そして、作品の中で何度も語られる現実の世界のことを考えると、本当にそこには絶望しかない。ただ心を持って生きていくというところにまで降りていくことができない絶望しかない。それは政治の話などではなく、私たち自身がそこに降りていくことができない絶望である。
辺見のこれまでのどの作品にも増して、絶望に満ちた作品だ。