一家立三后~藤原道長の♪望月の歌
寛仁二年(1018年)10月16日、自身の娘が後一条天皇の皇后に立った事を受けた藤原道長が「望月の歌」を詠みました。
・・・・・・・・・
朝廷で絶大な権力を握りながらも、三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)との関係があまりよろしく無かった(4月10日参照>>)藤原道長(ふじわらのみちなが)は、
すでに次期天皇(現在皇太子)と決まっている敦成親王(あつひらしんのう=道長の孫)の次の皇太子に三条天皇の皇子である敦明親王(あつあきらしんのう)を立てる事を条件に退位を迫ります。
ここのところ、眼病を患って失意の三条天皇は、
「自分の息子が皇太子になるなら…」
と、条件を呑んで退位して上皇に・・・
長和5年(1016年)、皇太子の敦成親王が後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)として即位し、皇太子は敦明親王・・・そして道長は摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)となります。
この後一条天皇の両親は、先々代の一条天皇(いちじょうてんのう=先々々代円融天皇と道長の姉の子)と道長の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)ですから、まさに「我が世の春」・・・と思いきや、
それよりも、
「いやいや~その次は嫌いなアノ方の息子が皇太子ですやん」
の方が、道長の脳裏をよぎるわけで。。。
とは言え、そんなおそれ多い事を実際に口にしたり、自ら働きかけるような事は、さすがの道長もできなかった物と思われますが、
(おそらく、ものすンごい空気が流れてたと想像はするが…)
そんな中、
翌・寛仁元年(1017年)3月に、道長は摂政と藤氏長者を嫡男の藤原頼通(よりみち)に譲りますが、その2ヶ月後に三条上皇が亡くなると、聡明な敦明親王は、空気を読んで自ら廃太子を申し出るのです。
ま、そもそもこの皇太子の座は敦明親王が望んでいたわけでは無く・・・どちらかと言えば三条天皇の希望だし&順番だし~ で、
敦明親王としては後ろ盾も無いままで陰謀渦巻きまくる火中の栗を拾うよりは、さっさと気楽な地位についた方が、心穏やかに暮らせるという事も確か・・・それこそ聡明な皇子なら気づいてるはずです。
(ちなみに聡明だが暴れん坊でもある→参照>>)
こうして皇太子は、後一条天皇の弟である、やはり彰子が産んだ敦良親王(あつながしんのう)に決定するのです。
皇太子を辞退した敦明親王には、小一条院(こいちじょういん)の称号が贈られ、この年の11月には小一条院と道長の三女=藤原寛子(かんし=妻:源明子との娘)の婚姻が行われますが、
小一条院が寛子の事を非常に気に入った事もあり、この婚姻の日の道長は上機嫌で大いに大満足そうだったとか。。。
こうして現天皇も皇太子も自身の孫となり、最高の権力に至った道長・・・
そして極めつけに、
寛仁二年(1018年)3月には、時の後一条天皇のもとへ、道長四女の藤原威子(いし・たけこ)が入内(じゅだい=后妃が正式に内裏に入る事)するのです。
この時、威子は20歳、甥っ子にあたる後一条天皇は9歳年下の11歳でしたが、二人並んでみると、小柄でかわいらしい雰囲気の威子と、年齢よりは少し大人びた印象を受ける後一条天皇とは、なかなかのお似合いのカップルに見えたとか。。。
ちょうどその頃に、以前(三条天皇晩年の頃)に焼失して再建を進めていた内裏(だいり=天皇の住まい)が完成したので後一条天皇、母の彰子、皇太子の敦良親王らとともに威子も移り、これキッカケで威子は女御(にょうご=皇后&中宮の下で更衣の上の位)になりました。
約半年後の10月はじめには、威子は中宮(ちゅうぐう=皇后並み)となり、
そして、いよいよ
寛仁二年(1018年)10月16日、威子の立后(りっこう=皇后になる事)の日がやって来ます。
しずしずと立后の儀が行われた後、これまた焼失後に再建されたばかりの豪華絢爛な道長の邸宅=土御門殿(つちみかどどの=土御門大路南京極大路西)にて公卿たちを集めた宴会が行われるわけですが、
藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記』によれば、 この宴会でご機嫌な道長が即興で詠んだ歌が、
「望月の歌」と呼ばれる、あの
♪此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ♪
↓↓↓
♪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば ♪
の歌だそうで(『御堂関白記』には記載無し)
この歌を詠む前、道長は実資に近づき、そっと
「今から即興で歌詠むさかい、必ず返してな!頼むで」
と言ったらしいですが、
さすがの実資も即座に歌を返すことはできず(できなかったのか?あえてしなかったのか?は様々に解釈あり)、
「御歌優美なり」と歌を褒めちぎっておいて後、
「みんなで合唱しようや~」
と持って行ったのだとか。。。
ところで、この道長の望月の歌は、、、
最近では、単なる余興で深い意味はなく、
「あぁ~えぇ夜やなぁ~」
てな感じで歌っただけ。。。との解釈もありますが、
やっぱり昔ながらの自慢の歌にも聞こえますよね~
なんせ、かの実資も同じ日記で、
「一家立三后、未曾有なり」
↓↓↓
「一つの家から3人も皇后が出るなんて!」
と感嘆してるくらいですから、
ここで自慢せな、いつ自慢すんねん!
てなもんですよ。
しかし、皆様お察しの通り、望月=満月になった後は、徐々に欠けて行くのが自然の摂理。。。
もちろん、この後、皇太子になっていた弟の敦良親王が後朱雀天皇(ごすざくてんのう=第69代)となり、その東宮妃(とうぐうひ=皇太子の妃)として道長の六女=藤原嬉子(きし・よしこ)が入る事になるのですが、
一方で、嬉子は敦良親王が天皇になる前に亡くなってしまうし、道長は道長でこの先は病に苦しむようになってしまうのです。
世の中、山あれば谷あり・・・そう思い通りに進む物ではありませんからね~
…て事で、
道長晩年のお話は、12月4日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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コメント
今週はまさに満月でしたね。天気予報でも映っておりました。
「光る君へ」ももう間もなく撮影が終わりますね。27日は総合では通常より繰り上げて放送します。
後一条天皇と威子を誰と誰が演じるのかが、もっかの最終盤の展望の楽しみです。
投稿: えびすこ | 2024年10月19日 (土) 10時38分
えびすこさん、こんばんは~
今年の大河は最後まで楽しみですね!
投稿: 茶々 | 2024年10月20日 (日) 03時35分
茶々さん、こんばんは。
今年の大河ドラマ、ホント面白いですね!
物語の起立部での衝撃的な母の死からまだ幼き頃の出会い、それを承けての流石ラブストーリーの名手!って感じでキュンキュンさせておいて恋愛感情が煮詰まってきた頃からは史実的逸話を徐々に増やしてきての今日の第40話「君を置きて」。史実を積み重ねたクライマックスをスパッと転じて新たな挿話。これ観た人、絶対、直秀とまひろを見ましたよね⁈
ホント、面白いです。
投稿: とーぱぱ改めタムチのゴートン | 2024年10月20日 (日) 20時51分
タムチのゴートンさん、こんばんは~
>直秀とまひろを…
私も思い出しました!
史実としての娘さんは、これから彰子様に出仕するし、結婚相手も別の方(彼が経歴詐称してなければ)のようなので、この恋は悲恋に終わるのかも知れませんが…
異説もあるので、またもやお上手な創作でのオモシロ展開があるかも知れませんね❣
投稿: 茶々 | 2024年10月21日 (月) 03時28分