四度目にヴェトナムを訪れた時。
例によってサイゴンに2日滞在して,気持ちをヴェトナムの空気に慣らしていた。しかし,いつもバクダン(Bạch Đằng 白籐)とチョロン(Chợ Lớn)の市場ばかりでは飽きてしまう。冷房のよく効いたホテルの部屋,ベッドに寝そべってガイドブックをぱらぱらめくっていた僕は,中央部のバスターミナルの近くに歴史美術博物館(Bảo Tàng Mỹ Thuật)という施設があるのを見つけた。
歴史も美術も大好きな分野だ。その両方を兼ねた博物館とは,なんとすばらしい! これは是非とも見学せねば。もうお昼近く炎天下だというのに,僕は外に飛び出し,てくてくと歩き始めた。
行き交う車にバイク,歩道にはみ出した店の陳列,物乞いに土産物売り,排気ガスに混じった微妙な排泄物の臭い,ところどころ穴の開いた鋪装。そんなものに目もくれず,目的地に向かってずんずん歩く姿に,道端の日陰にしゃがみ込んでいる人たちの視線が注がれる。・・・ヴェトナム人は基本的に歩くのが嫌い -----こんな暑い気候では無理もない------で,ちょっとした距離でもバイクタクシーやシクロを使う人たちなのだ。きっと彼らは呆れているに違いなかった。
汗をだらだら流しながら辿り着いた博物館は,パステル風のクリームイエローに外壁を塗った,ヴェトナムでよく見かけるフレンチ・コロニアルな建物だった。その車寄せに着飾ったドレス姿の植民地高官夫人が静かに現われたとしても,今でも違和感がないような。
「歴史美術」と銘打っているくらいだから,展示品は歴史的な文物の中でも美術品として鑑賞に堪えるものということになる。そしてそれと並んで,歴史上の事蹟を描写した歴史画も。ハイバーチュン(Hai Bà Trưng 徴姉妹)の漢への反乱,チャンフンダオ(Trầng Hưng Đạo 陳興道)の元軍撃退・・・
古い時代から順を追って眺めてきた僕の足は,ある小さな絵の前で釘付けになった。そこは黎朝も阮朝も通り過ぎた,独立戦争の頃の部屋。
その壁には,ゲリラ闘争やその周辺の人々の絵が架けられている。といっても「歴史美術」だから,これみよがしなプロパガンダ風のものではない。どれもそこはかとなく詩情の漂う作品群だ。
その中にあった,若い兵士を描いた小品。手鏡より少し大きいくらいの紙に,墨色野鉛筆かパステルで手早く,しかし的確に写生された若者の上半身。
それが僕の足を止めさせた。理由は,彼の顔が僕の好みだったから,ではもちろんない。その眼だ。休憩中ででもあるのか,どこか遠くを見やるような,でも茫洋とはしていない,くっきりとその「意思」を表わした視線。粗末なシャツを着た上半身も,微妙な緊張感を保っている。しかし,狭い画面全体に漂うのは,「闘争」のイメージとは無縁な静謐さ。それは,諦めとも,慰めとも違う空気。そして,そこはかとない優しさが漂う余白。
これを描いた画家は,どんな人だったのだろうか。たぶん,無名の,もしかしたら美術学校を途中でやめて独立闘争に身を投じた若者だったのかもしれない。それとも,従軍画家のような立場の人間だったのか。いずれにしても,このクロッキーにその天分は現われていると思う。
そして,モデルとなった兵士は,この後どうなったのだろうか。生き延びて,今もヴェトナムのどこかで老後を過ごしているのか。それとも,戦場の土に還って安らかに眠っているのか。
僕は,その画面に見入り,自分でもわからない「何か」を読み取ろうと,ずっと立っていた。
絵画や美術作品を見る時,僕は自分の目しか信じない。作者の名前や世間の評価,ましてや市場価格などというものは相手にしない。対象を評価するのはあくまでも僕であって,他人ではない。
たとえば山下清や竹久夢二の絵,大半の印象派などは,僕にとっては無価値なものでしかない。まったく僕の感性から外れているからだ。・・・話は逸れるが,山下の作品の一つが小学校の教室の壁に裸のまま無造作に貼ってあったとして,それをきちんと評価できる人が専門家以外にどれくらいいるのだろう? そして,そのことに気づいている人は?
それはともかく。
だから,世間一般が名画だと評価している大画家のものでも僕には無価値なものはたくさんあるし,逆に僕がいい作品だと主張しても誰もそう思わないものも同じくらいあるだろう。それはそれで一向にかまわない。それで誰も損をするわけではないし。
歴史美術博物館で僕が,昼休みに入るから,と係の中年女性に追い出されるまでその前に立ち尽くしたこの小品も,たぶん後者に入る部類なのだ。誰にも注目されないまま,展示され続けてるだけの。
だが,僕はこの絵を「評価」した。そして,また炎天下の道に出て行きながら決めた。ヴェトナムを訪れる度に,この青年の肖像に逢いに来ようと。
・・・翌年,五度目の訪越の時,僕はこの肖像に再会した。前と同じく,意思的な視線が中空を射ていた。そしてその時,悟った。僕はこの視線,なにごとかの意思を乗せた視線に惹かれたのだと。
「意思」を感じさせることの少ない日本。こんな視線の人間が,はたしてどれくらいいるのだろう。そして,僕に同じ視線ができるのだろうか?
少しく考えこみながら,僕は陽光の輝く街へと出て行った。
- 2010/01/18(月) 11:27:23|
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街路樹と呼ぶには巨大すぎる樹々。そこに面して統一会堂(Dinh Thống Nhất)の正門が見えてきた。ヴェトナム戦争終結の時,北軍の戦車がここの門扉を乗り越えて突入した図はあまりにも有名だ。
チケットを買おうとジーンズの尻ポケットに手をやって,僕は異変に気づいた。ぺったんこなのだ。財布がない!
やられた! あのガキどもだ。掏られたのにちっとも気がつかなかったが,可能性はそれしかない。よく考えてみれば,目の前に地図を広げたのは僕の注意をそちらに向けるため。その隙にもう一人が実行したというわけだ。きちきちのジーンズの尻ポケットから抜き取るのだから,ガキながら大した手並みだな。僕は腹を立てる前に,妙なことに感心していた。
そうして,ふと我に返る。あの財布の中にはヴェトナムの通貨ドン札がまだけっこう残っていたはず。ドル札も確か50$くらい入れてあったし,クレジットカードも・・・。そういえば家の鍵も入れていた。参ったな。
僕は門の前に立ち止まって,肩から下げたカメラバッグを点検した。よかった。残りの金(実はこちらの方が大金だ)とパスポート,航空券は無事だった。とりあえず,そちらから入場料を払って統一会堂の敷地に入った。入ってしまうと,歴史好きの地が現われて,僕の当面の関心は失われた財布からこの旧南ヴェトナム大統領官邸へ移ってしまった。
大層な玄関から中に入ると,折よく「日本人観光客御一行様」が現地ガイドに案内されるところだった。ガイドの説明が聞こえる程度に付かず離れずで行こう。
大統領執務室,大統領接見室・・・龍をあしらった豪奢な装飾と調度。アメリカによって見殺しにされたゴ・ディン・ディエム(Ngô Đình Điệm 呉廷琰),北軍に首都を攻め落とされて亡命したグェン・ヴァン・テュー(Nguyễn Văn Thiệu 阮文紹)。共産主義の「恐怖」に怯える人々を「指導」した大統領たち。
地下には,当時のままに保存された無線室や地下指令室。妙に生々しい存在感。
・・・どのフロアだったか。民族楽器が展示されている場所があった。日本のものとは違う。朝鮮半島のものとも違う。幾つかは中国のものと似ている。そして,そこには弦がたった1本だけの奇妙な楽器があった。これは何だろう? どうやって音を出すのだろう?と興味津々。これが,ヴェトナム独特の一弦琴ダンバウ(Đàn bầu 弾瓢)との出会いだった。
それはともかく。
僕が楽器の奏法について考えている間に,観光客御一行様はさっさと立ち去ってしまった。まあいい。雁首揃えた集団と同じ行動をとることに飽き飽きしていたところだ。
僕は階段を上った。屋上へ行きたい。妙に豪奢な室内は,空調の善し悪しとは無関係に,何だか息詰まる感覚がある。とにかく広い空間に出たかった。
いくつ階段を上ったか。汗だくになって出た屋上には,田舎のホテルのラウンジめいた風通しのよい部屋があった。そこ以外は露天だ。チケットの説明では,大統領や側近たちが夜な夜なここでパーティを開いていたそうだ。
せっかく屋上に上がったというのに,風はぴたりと止んでいた。太陽熱を吸収したコンクリートのせいで,蒸し暑さがつのる。不快指数が上昇すると,さっきまで忘れていた掏られた財布のことまで思い出して,更にイライラしてしまった。・・・あのガキどもめ!
見つけたらどうしてくれよう,と埒もないことを考えながら,広い屋上を宛てもなくうろうろ歩き回る。ますます暑い。とその時,ぽつん,と腕に雫が当たった。
見上げると,空はひどく暗くなっていた。僕がここに入った時は,空を覆っていたのは白い雲だったはずだが,今は重い鉛色。来たか,と思う間もなく,一気に土砂降りになった。スコールだ。
あわててラウンジもどきの屋根の下に避難する。ぼたぼたと音を立ててコンクリートを打つ雨。死んでいた風も復活して,ざあっと吹きつける。・・・やれやれ。だが,暑くよどんだ熱気が雨ですぅっと冷やされていくのがわかる。
ちらりと見やった会堂前の通りを行き交う人たちは,いつものこと,とあわてず騒がずすたすた歩き続けるか,手ごろな屋根の下で雨宿り。慌てて走り出す人がいないというのは,何だか好感が持てる。
ふと思いついて,僕はポケットからハンカチを出した。考えてみれば不快指数が高いのは,何も天気のせいだけではなかった。南国の夜行列車,扇風機だけのコンパートメントで一晩過ごしたおかげで,身体が妙にねっとりしていたのも,皮膚感覚に神経質な僕を苛つかせる原因だった。
落ちてくる雨にハンカチを差し出して充分濡らし,誰もいないのを幸い,腕からTシャツの下の胸,腹,背中まで拭いてみた。・・・たったこれだけで,何だか気分が軽くなる。不思議なものだ。
気分が軽くなった上に,スコールのおかげで体感温度も何度か下がったとなると,現金なものでガキたちのことはどうでもよくなった。
「そんな細かいこと,気にするなよ」
大粒の雨と気紛れに方向を変える風が,ポン,と背中を叩いてくれたような。
「そうだな。油断していたこっちも悪かったんだし,ストリートチルドレンの生活費の足しになると思えば,いいか」
僕はこの六日間,迂闊にも日本にいるのと同じ感覚で歩き回っていた。幸いにも,出会った人々に悪い人間がいなかったおかげだが,国外ではそれで通してはいけない。最後の日にヴェトナムはそれを教えてくれた。
気がつくと,もう雨はあがって,夕方前の微妙な色合いの青空が雲の合間に覗いていた。ここで虹がかかっていたりしたらできすぎだなあ,とそれでも太陽の反対を探してみたが,やっぱり出ていなかった。ふふ,まあいい。そろそろ出ようか。
雨宿りしていた人たちが,またわらわらと現われた街路を,僕は歩き始めた。
BGM NOW MINMI/アシタもしもキミがいない… -Piano version-[★★★★] |
- 2010/01/07(木) 11:46:52|
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中部の古都フエから僕を乗せた夜行の急行列車は,幅広いカクマンタンタム(Cách mạng Tháng Tám 八月革命)通りをゆっくりゆっくり横切って,終点サイゴン駅に近づいていた。
政治首都ハノイと経済首都サイゴンを結ぶ統一鉄道。サイゴン駅(ここだけホーチミン駅とは改称されていないのはなぜだ?)は,その南のターミナルだ。
そろそろ降りる支度をしなければ。せっかちな日本人の常で腰を浮かせかけた僕を,同室の僧侶とシスター(二人ともヴェトナム人だ)が手真似で押しとどめた。
「気をつけなさい」
初老のシスターが静かに英語で注意する。彼女の指差す先,コンパートメントの開いた扉の向こうを,この車両に乗っていたとは思えない粗末な服の男たちが行き交っていた。たぶん,ゆっくりとカクマンタンタム通りを横切った時に,そのあたりから乗り込んできたのだろう。
「ポーターを引き受ける連中だけど,彼らの中にはスリがいますから」
「君のネックレスは外しておくといい」
(・・・あなた方聖職者が,そんな人を疑うようなことを教えていいのかい?)と思ってしまった僕は,今から思えば,まだまだ人々の姿が見えていなかったのだ。
二人の顔を立てるつもりで,僕が金のチェーンを外してジーンズの前ポケットに押し込んだのを見て,二人は安心したように微笑んだ。
ターミナルというには寂しい,草の生えた広いヤードを転轍機に従い右に左にと揺れて,がたんと列車は止まった。行き止まり式のプラットフォームは,さすがにきちんとしている。ただし,日本のとは異なり大陸風でとても低いし,駅舎はいくつか線路を横切った向こう。乗客は荷物をたくさん抱えていることが多いから,なるほどポーターの需要がある筈だ。
身軽で元気な僕は,彼らのお世話になる必要はない。正味6日間の旅,荷物もバックパック一つだけ。脱いでいた靴をきちんと履き,ベッドの上に散らかしたガイドブックなどを押し込んで,僕は恰幅のいい僧侶とほっそりしたシスターに別れを告げた。
「タム ビェット(Tạm biệt 嘆別:さよなら)!」
バックパック一つを肩にかけて,僕は駅舎に入った。改札口には空港のイミグレーションにでもいそうな無愛想な中年女性が立っていて,にこりともせずに客の乗車票を回収する。質の悪い紙にカーボン紙で複写された最後の一枚が,僕の手に残った。
さて。帰国のフライトは今夜,正確には明日の1時半頃の出発だ。これでは宿を確保するのも馬鹿馬鹿しい。だが,今はまだ真昼。どうやって時間を過ごそうか。
・・・(当時の)サイゴンのタンソンニャット(Tân Sơn Nhất)国際空港は,日本の地方都市の古い空港みたいなもので,半日も過ごせるような快適な待合施設やレストランなど存在しなかった。だから,今から空港に行くというのは論外だ。
一応,行ってみたいところはあった。統一会堂(Dinh Thống Nhất),かつての南ヴェトナム共和国の大統領宮殿だ。だけど,軽いとはいえないバックパックを抱えてというのは,さすがに疲れるだろう。こいつを預けられる所は・・・
僕が思いついたのは,最初の日に泊まった中級ホテル。国営旅行社の経営だというけれど,愛想もよかったし,頼めば預かってくれるかもしれない。
ちょうど見つけた,同じ方向に行く日本人二人とタクシーをシェアして五日前に宿ったホテルに飛び込む。幸い,フロントの女性は僕を覚えていた。そして,夕方までという約束で快く預かってくれた。余談だが,このサービスが気に入って,僕はサイゴンでは必ずここに泊まるようになった。安くて快適な宿はもっと他にもあるのだろうけど。
身軽になると気分も軽くなる。熱を帯びた空気は数日前よりも蒸し蒸ししているようだが,そんなことは気にならない。僕はとにかく統一会堂に向かって歩き出した。
ナムキーコイギア(Nam Kỳ Khởi Nghĩa 南圻起義)通りに入って,目的地まであともう2ブロック。道路はバイクやシクロがひっきりなしに行き交う。
「地図だよ,地図」
いきなり男の子が二人,目の前に立ちふさがった。売り子か。地図ならもうあるんだ。初日に道端の婆さんから高い金で買わされたやつが。
「ほら,いい地図だよ」
左右から両手で広げて突きつける。僕はかまわず歩き続ける。いらない,と手を振りながら。
だけど,売る方は必死だ。運よく言い値(大抵5$とか言うが,書店に行けば2$くらいで買えるだろう)で買ってもらえれば,大した儲けになる。ボスへの上納金なんてものがあっても御の字だろうから。
だからといっていらない物を買うことはできない。視界を遮る地図を左手で押しのけ,足を速める。いらないったらいらないんだよ。
・・・諦めたな。そうそう,もっと人のいい旅行者をターゲットにしなよ。
青になった信号を,走り込んでくるバイクにひやひやしながら向こうへ渡った。統一会堂まではもう1ブロック。
「買ってよ」
そこへ現われたのは,さっき振り切ったとばかり思っていた男の子二人。意外に脚の速いやつらだ。
そしてまた一方的な売りつけが始まる。あーもう,買わないったら買わない! 邪険に手を振ってとにかく相手にならない。これはダメだと思ったか,ブロックの半分も行かないうちに二人は引き下がった。
はあ,と僕は溜息をついた。疲れる。大人の売り手はともかく,子供だとどうしても同情心というやつが頭をもたげて,胸の裡で理性と葛藤を繰り広げる。サイゴンの街角には特に子供の売り子が多いから,大変だ。・・・何だか一段と蒸し暑さが増して不快指数が上がったような気がする。
BGM NOW いいくぼさおり/Chanty[★★★★] → |
- 2009/12/28(月) 12:45:01|
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最初の約束通りに7$払ってシクロから降りた僕に,パジャマのようなアオババを着た女性が寄ってきた。抱える籠の中には絵葉書がたっぷりと。観光名所でもある中央郵便局前での商売,外国人観光客にはよく売れるのだろう。・・・そういう自分もいくつか買い求めたが。
ところで,この中央郵便局,外観がものすごく立派だ。ヴェトナムでよく見かける薄い山吹色の壁に軽快に連続するアーチ,正面入口もアーチで構成されている。建物の裾や要所に塗られた青緑色がアクセントになっていて,なかなかすてきだと思う。19世紀末の植民地時代建築だが,郵便局のイメージではない。どちらかといえばターミナル駅だ。それとも総督官邸か。
中に入ってみよう。・・・そこは2階の高さにアーチを戴いた,背の高い空間。両脇にずらりと窓口が並び,アーチの下にはベンチや記入台が置かれている。壁や柱の塗色は白を基調にして涼しげな薄緑色でアクセントをつけている。外から見るとかなり重厚な空間デザインなのかなと身構えていたが,明かり取りの窓もあって意外に軽快だ。
奥の壁から巨大なホーチミンの肖像画がこちらを眺めている。白い髭をはやした,好々爺の顔。不思議と違和感がなかった。
空いているベンチに座り込んで,今買ったばかりの絵葉書からいくつか選んで友人へのメッセージを書き込む。差し出した窓口の対応は思ったよりも丁寧で,印象は悪くなかった。しばらく座ってぼんやりしていた。建物の構造と素材のおかげなのか,入口が開放されているのに空気がひんやりとしていて気持がいい。
特に用があるわけでもなく,ここで休んでいるらしい人もよく見かける。歩き疲れた時の手頃な休憩場所かもしれない。
そういえば,サイゴン駅は以前はもっと街中にあったと聞いている。もしかしたらこの建物がそうだったのだろうか?
郵便局のある広場には,もう一つ美しい建物が面している。サイゴン大教会だ。
これもやはりフランス統治時代の19世紀末に建設されたもの。もちろんカトリック。赤褐色の煉瓦の外壁が,中央郵便局とはいい対照になっている。正面には大きな薔薇窓,左右に二つの尖塔があって,北フランスのどこかの大聖堂のよう。でも,その背後の主要部分はずんぐりむっくりのロマネスク風だ。
祈りの場に異教徒が足を踏み入れるのは憚られるので中を見学することはしなかったが,もしかしたら頼めば差し支えないところまでは入れるのかもしれない。
白いマリア像が,教会前で陽射しを浴びて輝いていた。
夕刻。
僕はまたこの広場に来ていた。ま昼に見たあの美しい建物たちが夕陽にどう映えるか見たかったから。
この通りは建物の北西側,斜め方向から低く西日が差し込んでくる。東側の道を通って,中央郵便局の前へ。パステル風な黄色の壁は,赤みを帯びた夕陽に更に暖かみを増し,正午近くのくっきりした姿とはまた趣が違っていた。
目を転じて大教会は,赤茶色の煉瓦が夕焼け色に染まって,何だかちょっと暑苦しいような・・・。
日陰になった広場には,なぜか女学生たちが大勢集まっている。もちろん男子学生もいるが,お喋りの声と制服とはいえ華やかな雰囲気で目に止まりやすかった,と言うべきか。
空いていたベンチに坐って,何とはなし彼らの姿を眺めていると,何だか高校生に戻りたくなった。あの頃はやっぱり彼らと同じように,生き生きとしていた,ような気がして。
若々しい活気に溢れる広場を横切ってパスツール(Pasteur)通りへ向かう。・・・とそこには日本では想像もつかない密度にぎっしりと詰まったまま走る,自転車,バイクの群れ。
どうやらこの通りは一方通行のようだが,速度を揃えて団子状態のまま流れていく二輪車の間をかき分けて向こうに渡るのは,慣れない外国人風情にはまず無理だろう。
少し観察していると,どうやら無秩序にも見えるこの流れにも,規則というわけではないが,お互いの間の暗黙の了解のようなものがあるようだ。そうでなければ,すぐに事故が起きるのは目に見えている。
それにしても,すごい光景だ。
BGM NOW Astor Piazzolla/Soledad[★★★★★] → |
- 2009/12/21(月) 12:34:26|
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シートに座り込んで,次にどこへ行くか考える。
どうしようかな。観光スポットを見て歩くのもいいが,このまま路上を彷徨って街中の表情を眺めるのも面白そうだ。・・・でも運転手にはどう言えばいいだろう?
「オムニサイゴンホテルまで行って」
・・・とりあえず,適当な行き先を告げてみた。
ナムキーコイギア(Nam Kỳ Khởi Nghĩa 南圻起義)通りは小さな川を渡ったところでグェンヴァンチョイ(Nguyễn Văn Trỗi)通りへと名前を変える。空港へと通じるこの道,自動車が中よりをひっきりなしに行き交い,その外側をバイク,シクロ,自転車,人が入り交じっている。きれいな新しいビルがあるかと思うと,すぐ傍らには古い赤錆びたような色の屋根と細い柱。間口の狭い食物屋やバイクの修理屋。ちょっと不思議なアンバランスさだ。
前方を単線のレールが横切った。サイゴンとハノイを結ぶ国鉄:統一鉄道だ。レールのゲージ幅は日本の狭軌よりも更に狭い。1mくらいしかないように見える。レールのすぐ側まで生活空間がはみ出している。列車があまり通らないからだろう。
オムニサイゴンホテルに着いても特に何かがあるわけではない。止めてくれたシクロドライバーは「降りるか?」と尋ねてきたが,座ったままガイドブックの地図を見て次の道のあたりをつける。もうちょっと先まで行くと,別の大きな通りとぶつかりそうなので,もうしばらくまっすぐ行ってくれるかな?
その先で鋭角に交わった通りはホァンヴァントゥ(Hoảng Văn Thụ)通り。ここで右に曲がってそちらに入ってもらったが,シクロは前輪部分に乗客の体重がかかっているため,実はハンドルの切れがよくない。口がきけたら「うんとこしょ」とでも言いそうな風でよたよたと曲がった。
再び線路を横切ると,また新たな通りに出会う。右に行くとまた中心部に戻れるようだ。あまり遠くへ行っても何だから,と右へ。この道はハイバーチュン(Hai Bà Trưng 徴姉妹)通りとなって,サイゴン河にまで達する。
青年ドライバーのペダルを踏む力が強くなった。少し先に橋がある。そこまでやや登り気味になっているのだ。橋から眺める川の水は・・・淀んでいた。どす黒い色,ヘドロのような臭い。川底に細い柱を立てて水上にまで張り出した貧しげな家の群れ。あまり見たくはなかった景色だが・・・いいところだけを見るわけにもいかないな。
橋を渡り終えて,シクロは横道に入る。幅は広めだだが,自動車はほとんど走っていない。自転車やシクロ,人だけが行き交う。こざっぱりとした,商店街風の通りだ。
向こうから何やら行列がやってくる。黄色いアオザイのような服を着た一団を先頭に幟やら垂れ幕を掲げている。列の途中にはリヤカーに乗せられた丸焼きの子豚。そして家の屋根状の飾りをつけたお祭りの山車もどき。
「これ何?」
「葬式の行列」
・・・ちょっと日本のものとはイメージが違う。もっとも韓国でもこれに似た葬送行列を見たことがあったので,驚きはしなかったが。何でも,大往生に近ければ近いほど長寿でおめでたいとして,派手な行列になるのだそうだ。
そろそろ残りの時間も少なくなった。中央郵便局まで行って降ろしてもらおう。
BGM NOW 中島みゆき/ひとり遊び[★★★★★] |
- 2009/12/15(火) 09:21:03|
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自動車が行き交う幅の広いグェンフエ(Nguyễn Huệ 阮恵)通りをきょろきょろしながら渡って,とあるホテルの前。近づく僕に,たむろして客待ちをしていたシクロドライバーが何人か声をかけてくる。わざと知らんぷりして通りすぎて,それでも頑張ってついてきた青年ドライバー。彼は英語もそこそこ話せるようなので,早速交渉を始めた。
「今から2時間,チャーターしたいんだけどな」
「10$」
「高い! もっと安く!」
とやりあった挙げ句,7$で話がまとまる。これでも高かったのではないかと思うが。
それはともかく,日陰から彼が押してきたシクロに乗り込む。
最初の行く先は・・・と揺れる座席でガイドブックを開く。中心から遠いところから見て行こう。
「まずヴィンギェム(Vĩnh Nghiêm 永厳)寺へ」
シクロはナムキーコイギア(Nam Kỳ Khởi Nghĩa 南圻起義)通りを走り出した。きいきいきしむ音,がたごとと揺れる車体。
スピードも思ったほどには出ない。小走りに走る程度。だが視線は文字どおり目の高さ,街の様子がじっくり観察できるのが嬉しい。
時々左右にぶれながらのんびり進む僕たちを,自転車やバイクが風を切ってさっそうと追い越して行く。行き会うシクロには観光客や地元の人たちが乗っているのが普通だったが,米袋のような荷物を積んでいるものもよく見かけた。便利な運び屋としても利用されているようだ。
そろそろ堅めの座席に腰が痛くなりかけた頃,寺に到着。路上に降りて,門をくぐる。
中に入ると,子供たちに取り囲まれた。小学校に上がる前くらいの年齢で,身なりはあまりきれいとは言いかねる。何か僕に話しかけてくるが,ヴェトナム語なのでわからない。ついてきたシクロドライバーが,英語に直してくれた。
「中を案内すると言ってるよ」
「いくらで?」
確か1万ドンと言われたように思うが,案内料としては高過ぎるだろう。7000ドンに値切って交渉成立。僕の顔を見ながら運転手と喋っていた男の子が,おもむろに前を歩き始めた。
まず案内してくれたのは鐘楼。日本の寺の鐘によく似た大きさのものが天井から吊られている。似ているのも道理,これは日本の曹洞宗のお寺から寄贈されたのだという。
試しに「Nhật bản(日本)?」と指さしながら聞いたら,うんうんと頷いてくれた。まさか通じるとは思わなかったので,とても嬉しかった。
巨大な本堂の階段を上がる。1964年から建築が始まった新しい寺のため,木造ではなく鉄筋コンクリートの現代工法建築だが,四方にピンとはね上がった屋根の形などは伝統を守っているのだろうか。外見は二層になっていて,階段を上がったところが広いテラス状になっている。
男の子は中に連れて入ってくれるつもりだったが,この日は何か行事のようなものがあるようで,信者たちがたくさん集まっていたので遠慮した。
テラスから続く回廊を歩いて本堂の外側を巡る。後方に高い塔があった。下から一つ二つ,と数えてみると七層。日本の寺によくある五重の塔にも似ているが,あまり下の層が広がらない形。
更に巡ってゆくと,不思議な姿の塔というか建物が目に入る。見た感じでは平面は正八角形らしい。明治時代に作られた洋風の時計台みたいだ。この寺には舎利塔があるということなので,おそらくそれだろう。事実,男の子もしきりにこの塔に向かって拝む仕草をしてみせていた。
ひととおり見て回って,戻ってきた寺門。
シクロドライバーの仲立ちで7000ドン分の札を手渡した。一枚,二枚ときちんと数えてポケットに入れる。にこっと笑いかけた顔は本当に屈託がない。
「Cám ơn. Tạm biệt(ありがとう,さようなら)」
声調に注意しながら片言のヴェトナム語で。
「Thank You!」
ThをTで発音するヴェトナム訛りの英語が返ってきた。僕はその小さな背中をぽんぽんと優しく叩いて,寺を後にした。
この男の子は,言葉は通じないが一生懸命案内しようとしてくれた。身振りや観光客などから聞き覚えたらしい英単語を使って,何とか説明。・・・手をつないで中庭を歩いて戻る時,僕を見上げて微笑んだ笑顔がなんだかいじらしかった。
後でドライバーに聞いたところでは,あの子供たちはほとんどが孤児で,寺で養育されているということだった。
僕の方から手をつないだ時にぎゅっと握り返してきたのは,もしかしたら肉親の温かさを知らない男の子がその代わりを無意識に求めていたのかもしれない。
シクロは今ではもうサイゴン(ホーチミン)市の中心部では規制されていると聞く。この1995年当時はまだそうでもなかったが,観光客を食い物にする悪質なドライバーも増えてしまったらしい。
地方都市に行けばまだ安心して乗れるだろうが,サイゴンでは乗らない方がよいかもしれない。・・・シクロののんびりさが好きな僕としては,こんなことは書きたくないのだが。
BGM NOW Duruflé/VII. Lux aeterna ~ Requiem[★★★★★] (Duruflé(org)/Concerts Lamoureux, Chorale Philippe Caillard) |
- 2009/12/10(木) 14:40:21|
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信号が青になった。間髪入れず目の前のレロイ(Lê Lợi 黎利)大通りを自動車,バイク,自転車が走り抜けてゆく。途切れそうで途切れない。
まもなく直交する小道の信号が青に変わった。が,赤になったというのに大通りのバイクはまだ止まらない。小道からすかさず直進するバイクの群れ。・・・あ,あぶない!
けれど,二つの流れは見事にすり抜け合って,何ごともなく離れてゆく。この呼吸には,毎度毎度感心させられる。もっとも,道路を横切ろうとする時には,これほど腹立たしいものもないのだが。
僕が座っているのは,バクダン(Bạch Đằng 白籐)という老舗アイスクリーム屋のテーブルだ。外と内とを仕切る壁がない完全にオープンな造りだから,通りの様子がよく見える。
・・・どころか,客以外の色々な人間が入ってくる。靴磨きの男の子,精緻に組み立てられた木の帆船模型を売る男,宝くじ売り,新聞売り子に物乞いの親子,e.t.c. e.t.c.。
社会主義を標榜する国に物乞い? 残念だけど,これが現実。いくら社会主義といっても,国に金がなければ福祉も絵に描いた餅。大体,ヴェトナム戦争での枯葉剤被害者への生活援助だって,ごく最近やっと手がつけ始められたくらいなのだから。
始めてヴェトナムの土を踏んだ次の朝,僕はガイドブックにも出ているこの店に入った。そして,今と同じく名物のココナツアイスクリーム(Kem Dùa)を注文した。
さほど待つこともなく,皮を剥かれて象牙色の繊維を露にしたココナツが運ばれてきた。赤ん坊の頭ほどもある大きさにまず驚いた。そして,空洞になっている中に詰め込まれたアイスクリームに,これでもかとトッピングされたフルーツ。なんて豪華なアイスクリームなんだろう・・・。
手にしたスプーンを突き立てようとして,僕の手が一瞬止まった。視界の下端を人が横切ったから。下端? そう。なぜなら,彼は下肢の大半を失って,車輪をつけた板に腹這いに乗っていたから。手に履いたサンダルで地面を掻いて移動する物乞い。その姿に,僕は無意識に手を止めていた。
数年前に留学していたソウルで似たような物乞いは見なれていたのに。どうして? ソウルより悲惨な感じがしたから?
違う。逆だ。彼にはソウルの同業者たちのような哀れっぽさ(それは半ば演出されたものだ)があまり感じられなかった。人に金を乞う様子も,辞を低くしてはいるが,どこか昂然とした風がある。ヴェトナム語を理解できなくても,雰囲気はわかるものだ。
それは,この男の性質によるものなのか,それともアメリカを相手に戦い抜いたヴェトナム人の心性によるものなのか。・・・ヴェトナム戦争世代なら後者だと思いたくなるところだが,どうやら違うらしい。他の物乞いたちは,もっと「商売上手」に振る舞っているのだから。
「誇り」なのか,性質なのか。少なからず「損」をしているのじゃないかと思うが,たぶん矯められないのだろう。だが,そこに僕はなんとなく共感めいたものを感じていた。
店を出た彼は,路上で煙草を商っている婆さんと二言三言交わして雑踏の足下に消え,僕はスプーンを動かし始めた。「ヴェトナムの人たちに安くておいしいアイスクリームを提供したい」と言っている主人の言葉通り,しっかりとした味のアイスクリームだった。
今,また目の前を物乞いが通ってゆく。ちらりとこちらを見やって。僕は何もしない。ただトッピングの砂糖漬けフルーツを載せたスプーンを静かに口に運ぶだけ。
(注) 現ホーチミン市のことを旧称のサイゴンで呼ぶのには政治的な意図はまったくない。ただ,ホーチミン市と呼ぶとよそよそしい感じがする上,死後に改称された個人崇拝的な都市名をバック・ホー(ホーおじさん)はおそらく好まないだろうと思うからに過ぎない。
BGM NOW Shubert/Symphony No.5 in Bb D.485 ~ 2. Andante con moto[★★★★] (Otmar Suitner/Staatskapelle Berlin) |
- 2009/12/07(月) 16:21:37|
- 越南:サイゴン,南部
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南部ヴェトナムの中心・サイゴン(ホーチミンシティ)。
ボンセンホテルから眺めたドンユーストリート。
古い建物と新しく建てられるビルと。
もう8年も行ってないから,かなり変わったかもしれない。
・・・と思ったが,航空写真で見る限りではあまり変わっていないような。
BGM NOW
SINGER SONGER/オアシス
- 2007/07/27(金) 00:46:11|
- 越南:サイゴン,南部
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