◇ 人類には共通した神話がある「洪水伝説」と「黄泉の川」

 世界には様々な神話、伝承がありますが、国籍、年代、人種、地域を問わずに共有されている神話の形態、共通される認識というものがあります。時間を掛けて神話などが大陸を移動し、海を渡り、伝播されていったものもあるでしょうが、世界同時的に同じ伝承が発祥したのではないかと考えられるものもなかにはあるそうです。

 例えば洪水伝説などはその典型で、現在広く知られているのは創世記における「ノアの方舟」ですが、メソポタミア神話「ギルガメッシュ叙事詩の終盤」ギリシャ神話「デウカリオーンの洪水」ゲルマン民族神話「ユミルの血の洪水」インド ヒンドゥー教の聖典プラーナ「マヌの方舟」神話アステカ神話「チマルポポカ文書」ホピ族神話「ソツクナングの洪水」等々同様の話が世界各地に分布し、中国の史記、或いは山海経にも「鴻水天に滔る」との記述があります。

 現実に遠い昔に地球規模の大洪水があった、という説もあれば、人が誕生する時かならず母胎から羊水と一緒に外界に出るためその潜在記憶が洪水伝説に繋がったという説もあります。


 そうした共通神話のひとつが"生死の境に流れ、死者が渡る"とされる《三途の川》です。
 三途の川とは仏教における概念であり、此岸(生者が暮らす現世)と彼岸(死者のむかう霊界)の境にあり双方を分かつ川であるとされています。正確には「葬頭河」というのだとか。

 ですが此岸と彼岸の境が「川」であるという概念は仏教にかぎらず、中近東の神話、仏教伝来以前の日本の民間信仰(古事記にも川の記述があります)やギリシャ神話にも同様の認識があります。
 
 ギリシャ神話では冥界にいく際に渡らねばならない川として「アケローン川」が登場します。これはイピロス地方に実際に流れる川と同名ですが、神話においては冥界の川ステュクスの支流と語られています。ステュクスの支流には憎悪の川である「プレゲトーン」悲嘆の川たる「コーキュートスとアケローン」忘却の川「レテ」があり、渡し守カロンに金貨を渡すことで舟をだしてもらうことができるといわれています。
 
 渡し舟の運賃……
 これもギリシャ神話と、仏教における三途の川と共通の認識ですね。日本でも昔から黄泉の川を渡る際には、六文銭を払うと伝えられています。

 洪水伝説とは違い、現在でも臨死体験の際に実際にこの黄泉の川をみたというものもおりますが、それが先入観によるものなのか、それとも実際に死後の川があるのかは私には解りません。ですが私はこの川を想わせる不思議な夢をみたことがあります。
 
◇ 私のみた「黄泉の川」にまつわる霊夢

 夢のなかで私は森を抜け、瀟洒な洋館のホテルにたどり着きました。
 立派な建物ですが、中に入ると高い天井には蜘蛛の巣が張り、床や家具は埃にまみれています。宿泊客は大勢いてみな楽しそうに笑っていますが、私はまるで廃墟のようなこのホテルがとても気持ち悪く、ひとりでそのホテルを後にしました。

 すると廃墟のようなホテルの横に川が流れておりました。

 川幅はほんの2mくらい。川というよりも2cm程の浅いせせらぎのようで、砂金のように美しい水が流れ、綺麗な底石が透けてみえました。その川の向こう側には輝くばかりの緑の森が拡がり、そのさきに建物が見えました。

 私は裸足になってそのせせらぎを歩きはじめました。冷たい水が心地よく感じられ、川の中程まできたところで後ろにたくさんの人達が集まっていることに気づきました。

 彼ら私にむかって、口々に声をあげます。

「どうしてあなたは渡れるの?」「なんで」「渡れるはずがないのに」

  ……私は振りかえって、

「浅いせせらぎだから誰にでも渡れますよ」

  ……と声を掛けたのですが、


「私達には渡れない」

 といってみな、服のすそをまくりあげ、自分達の足をみせ始めました。

 足首のアキレス腱がきれ、辛うじて皮一枚で繋がっているだけのぶらぶらの足です。
 私はぞっとして怖くなり、「いいなあ」「なんであなただけ」という声を振りきるように浅い川を渡りました。最後に一度だけ振りかえりましたが、みな岸部で足踏みをするばかりで続けて渡るものは誰もおりませんでした。


 川を渡りきると、今までとはまったく違う光の世界が拡がっておりました。


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                                           画:旃檀

 緑が輝き、その木立のなかには今まで私が描いた大きな絵画がところどころに飾られております。森のなかの展覧会のよう。光に誘われるように森をゆったりと歩きながら、私はそのさきにみえていたホテルにたどりつきました。先ほどとは違い、手入れのいき届いた美しい建物です。

 ああ、よかった。
  と想ったところで、夢が終わり、私は目が醒めました。



◇ 三途からの手紙

 私は時々、霊夢れいむといわれるものをみることがあります。こうした夢に誘われ、現と霊の境に踏みこむこともあり気になる夢は書き留めるようにしております。

 その後、ひとりの笛吹きから魔訶不思議な御便りを賜りました。彼は「三途さんず」と名乗り、人の創った川で笛を吹き続けていたと語りました。ですがその川は誰にも渡れぬ川であった、と。

 ここから、その御便りの全文を掲載させていただきます。





の創った川のほとりで立っておりました

水の無い川でありました
 時折 人とて参るなれど 首無き者ばかりにて 
    迷い人の行く末と風が聞かせてくれました

声も音も聞こへず 語らぬ者ばかり


わたしはただ ひとり笛吹きて 風と語りておりました
 三日月様の灯かりばかり 眺めておりました


御月様に照らされて 光るは 川の砂の水

 水無き川であるはずに
    
誰も渡れぬ砂の川

  誰一人とて向こう側は知りません
 
水無き川ゆへ 舟も無し
 渡れる川なれど 渡れませぬ

何故に渡れぬかと申せば 砂が美しく輝きておるからでございます


まばゆき輝きにのみこまれ
 溶けてしまふと 風が話しておりました


骨ひとつ残らぬ 砂の川


迷い浄土 求めて人参りますが
  語れぬ 聞こへぬ 笑わぬ人ばかり

わたしの笛とて聞こへぬよう
 人おれど人おらぬ川より天に向かふて届くは

わたしの笛の孤韻こいんばかり


幻の川と誰かが語りておりました


わたしも幻人にてございます 
 されど笛の音 拾いて連れゆくは御月様ではありませぬか


消えゆくわたしを哀れと想うて
その美しき三日月に 私を掛けて天高く放り投げ
 渡れぬ川を超えさせた

 それは御月様でありました


さようならと 声かけたなれど
 誰れの耳にも聞こへてはおらぬよう

 誰れの目にも写ってはおらぬのですね


人が創って 人が捨てたわたしなれど
 御月様に拾われて  三途 と御名おんないただきて


今宵もまた御月様に向こふて
    笛吹くがわたしの恩返し

     今夜も吹きて参ります


 《 三途 》

平成十九年一月十四日



◇ 人は何故死後に川を渡るのか
 
 古事記においては死んだ妻を迎えに冥界へと降りた伊邪那岐が帰還後、川で禊をして穢れを流した、と書かれています。またギリシャ神話においても黄泉の川の最後にはレテという川があって、その緑の水を飲むことで前世の記憶を忘却し、転生すると語られておりました。

 つまり「水に流す」

 生前の罪や業を川に流すために川が必要なのではないか。

 だから、渡し銭という、ほんとうならば必要がないはずの物がもとめられるのではないか。

 そう考察いたしました。
 どれだけ欲張っても死んだ後に御金はもっていけない、と昔からいいます。事実、どれほどの巨富を得、裕福であろうとも、心根が悪いければ死後に迷うこととなります。


 私はそうした彷徨う霊魂とも魂ヒーリングを通して会話し、霊界へと誘い続けて参りました。

 銭に翻弄されるのは此岸の習わしです。
 彼岸は魂ひとつ。川を渡るも、渡れぬも、その御方の生き様と死を迎えた後の魂のあり様によってかわるものなのでしょう。

 ですが人は死後も銭に頼り、あるいは生前の業の浄化を外部にゆだねるがゆえ、誰も渡れぬ川となってしまったのではないかと思う次第です。

 人間の業とは死ねば終わるものではなく、幾転生を経て魂のうちに重なり続けるものです。それは砂が満ちるように。
 ゆえにどこかで悪い流れを絶たねばなりません。
 それはなかったことにするためではなく、ほんとうに素晴らしい想い出を抱き締め、命を賜った喜びを胸に新たな旅にむかうためです。


 ……


 笛吹きの彼はその後も度々、御便りをくださることになりました。また掲載させていただくこともあろうかと想われます。 


 旃檀



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