2022年、大きな節目」も今回Chapter 36から今から丁度40年前となる1982年の話に移る。
この年は80年代アイドルブームの最盛期で、小生は中学生だったが、その年に生まれた人も遂に不惑という事になる。不惑とはいっても今の40歳と昔の40歳は全然違う気がする。(人は一生迷い続けるものかもしれない)
スマホ全盛の今、公衆電話を見かける事すら少なくなった。小生幼少期は10円玉を何枚も用意して公衆電話から電話を掛けるというのは日常の普通の光景だった。

この1982年も終わろうかという12月にテレホンカード=磁気式公衆電話用プリペイドカードが電電公社(NTTグループの素)から発売された。電電公社という名前が懐かしいが、1982年は「3公社5現業」が民営化される直前だった。1980年代はプリペイドカードが普及しだす時代だった。テレカは硬貨を用意する事と1枚1枚入れて行く事の不便を解消する目的で導入された。公衆電話用プリペイドカードは、1976年にイタリアで発行されたのが世界初だった。

カード式公衆電話とテレホンカードだが、テレカ登場から40年を経た2022年の今でも、一部の医療福祉施設、更に競艇選手・オートレース選手・競輪選手の養成所では必須アイテムになっている。テレカは一部のマニアのコレクターズ・アイテムとして取引されている。

この年登場した主な物としては、初代500円硬貨もある。白銅=銅75%+ニッケル25%を使ったこの硬貨は4月1日にデビューして、従前の同額紙幣(岩倉具視)を置き換える事となった。2000年には偽造防止の為にヴァージョンアップした仕様の2代目になるニッケル黄銅製(銅72%+亜鉛20%+ニッケル8%)硬貨が登場した。2021年に登場した新500円硬貨は3代目である。
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1982年というと、ホテルニュージャパンの火災もこの年だった。
暦の上では春に入るも、実際はまだまだ冬時で寒い2月8日の事だった。この日未明の3時24分に永田町2丁目(赤坂ではない)のホテルニュージャパンで火災が発生し、同日12時半頃まで約9時間に渡って燃え続けた。地上10階+地下2階建てだった同ホテルの9階が火元で、原因は938号室のイギリス人宿泊者が酒に酔ってやらかした寝たばこだとされる。因みに、このイギリス人は死亡している。
その火災の119通報はホテル従業員からでも宿泊客からでもなく、ホテルの近くを通り掛ったタクシーからだった。火災発生から通報までは15分以上かかっている。通報があった時点で外から見える位に燃え広がっていたのは容易に想像が付く。
これだけでもかなりアタオカな状況だった事は牛馬犬猫の類でも判るというもの。


このホテルのオーナーだった横井英樹という男だが、古くから強盗慶太こと五島慶太と結び付きが強く、五島氏共々「ボロ儲けの天才」と呼ばれていた。この両者はタッグを組んで「白木屋乗っ取り事件」、「東洋精糖買い占め事件」、「興安丸払下問題」等を起こしていた。
白木屋(しろきや)乗っ取りを画策していた1954年時分、蜂須賀正氏(まさうじ)氏から年20%の利息を約束して3000万円を借りたが、元本返済どころか利息の支払いも無かった。その後1000万円だけ支払われたが、蜂須賀氏は急死。蜂須賀氏の妻・智恵子女史が横井氏を訴えて勝訴したが、財産の名義は悉く変えられる等していて、殆ど回収出来なかった。
強盗慶太は横井氏の「働き」もあって、1956年に白木屋接収に成功)

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21世紀生れの5000系強盗五島親子の時代なんて全く知らない

そこで元山富雄(三栄物産社長)・安藤昇(愚連隊・安藤組組長)両氏の出番となった。元山氏安藤氏に取立を依頼したのだ。この両名は1958年6月11日午後、横井氏の企業の一つだった東洋郵船本社(銀座8丁目)に同氏を訪ね、返済について交渉の場を持ったが、全く話にならず。
その日の19時過ぎ、別の来客の相手をしていた横井氏は襲撃される。グレーの背広を着た男(千葉一弘=後に住吉会幹部)拳銃(FN Browning Model 1910)を一発ぶっ放つと銃弾は、左腕~肺~肝臓を貫通し右腹部まで達した。横井氏は瀕死の重傷で救急搬送されたが一命は取り留めた。
この事件は警視庁で捜査4課(現在の組対4課)が立ち上がる契機になった。


この事件の結果、安藤昇氏を含む組の中心7名が実刑判決を喰らった。組長が服役していた6年強の間に組の幹部が殺されて安藤組は痩せ細り、出所後の1964年末に組は解散した。因みに安藤氏はこの後は俳優・文筆家に転向、松竹の俳優だった折の弟分が菅原文太氏だった。
一方の横井英樹氏だが、ホテルニュージャパンを買った後、従業員に対し「お前等はタマはあそこの2つだけだろう。だが俺はお前等と違って1つ多いんだ。俺にはタマが3つあるんだ。」と豪語していたらしい。「1つ多い」のは1958年の事件で受けて取り出されなかった銃弾の事である。


この横井氏は1979年に経営不振になっていたホテルニュージャパンを買い取り、それから3年弱で死者33名(その内外国人が22名)+負傷者34名を出す、宿泊施設の火災としては戦後でもTop 3に入る事件をやらかすのである。

次回=Chapter 37へと続く!



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