前記事でも述べた様に、ホテルニュージャパン火災からも40年が経つ。
このホテル、1960年3月オープン時の触れ込みは「あらゆる近代設備とサービス」「西欧の豪華・東洋の雅味」。その時から経営が苦戦していたとはいえ、そこは痩せても枯れても永田町の高級ホテルだった訳で、宴会場では市川雷蔵(Ⅷ)が1962年に結婚披露宴を行っている。
この地下にあった(入口はホテルと直接繋がっていない)クラブ「ニューラテンクォーター」(Latin QuarterはQuartier Latinの英語読み)は政財界の社交場としてよく知られていた。又、このナイトクラブは、1963年12月8日に力道山が刺殺された場所としても有名だった。
このホテルの建物、当初はレジデンス(高級集合住宅)として設計されたが、用途変更で多機能型ホテル+レジデンスにされたという経緯があった。高級集合住宅がホテルに変わった原因は東京オリンピック(Ⅰ)で、五輪の観光需要を当て込んで用途変更したらしい。
このホテルの特徴的外観を形成していた120度Y字型の部分を含めて、非常に複雑怪奇で迷路の様な構造も、レジデンスの為の設計をそのまま流用したからであるが、この構造が避難を遅らせ被害を拡大させた原因の一つと言われる。ここでは宿泊客も普通に迷子になっていた。
このホテルを作った藤山コンツェルンには抑々がホテル経営のノウハウは無かった事もあり、「同期生」で近所のホテルニューオータニやホテルオークラ東京の後塵を拝してしまい、永田町2丁目にはキャピトル東急Hや赤坂東急Hが爆誕し、経営は最初から苦しかった。横井氏は相棒みたいだった強盗慶太氏の東急に、ホテルでは結果として苦しめられた事になる。
強盗慶太氏とは色々な形でガチャコーン!して離れられなかったのか、横井英樹氏は
1979年から経営者になった横井英樹氏は、ホテル業にはド素人だったのだ。何故そんなド素人に経営を委ねられたのかというと、設立した旧・藤山コンツェルンの中心企業・大日本精糖(ばら印砂糖で有名、現在は大日本明治製糖だが、10月にDM三井製糖になる予定)の大株主が横井氏だったので、同氏の会社であった東洋郵船がホテルを買収し横井氏が経営者になったという訳である。同氏の下で経営状態が改善する事は無かったが、個人的には儲けていた模様であった。
同氏は安全防災関連には経費を掛けていなかったが、ロビーや宴会場は豪華な内装へ変更し、高価な美術品も展示して、宿泊客に対して表面的にアピールする様な事には惜しみない投資をしていた。
経費削減を理由に定められた消防用設備を設置せず、設置してもアクティヴェイトせず、故障しても放置。消防当局や専門業者による防火査察や設備定期点検も拒否し続けていた。これに対し東京消防庁は度重なる指導を行ったにもかかわらず合格の適マークは与えていたというこちらもアタオカぶり。
(この火災以前は消防庁も強くは指導出来なかった部分がある。適マークは1980年の川治プリンスホテル火災事故を契機に制定された)
この状況に業を煮やした東京消防庁は1981年8月に最後通牒を突き付けて、「館内防災設備の不備と欠陥状態を今後も改善しない場合には、直ちに消防法に基づく営業停止処分を科す」とした。斯くしてスプリンクラー設置他の館内の防火環境改善工事は、着工される旨が決まったのが1982年2月6日=火災の2日前だった。
前記事でも触れたが、この火災の119通報はホテル従業員からでも宿泊客からでもなく、発生から15分後にホテルの近くを通り掛ったタクシーからだった。これは非常に不可解に見えるが、出火直後に従業員は火災が起きたのを認知してはいたが、「ボヤ程度で消防なんか呼んだら社長にどれだけ怒られるか分からない、消防は呼ぶのをやめよう」という判断が働いた様だ。従業員に消火する能力なんて無かったのに自分達で内密に処理しようとはこちらもアタオカだった。この日は異常乾燥注意報が発令中、なのに館内は加湿をしていなかったので、空気が乾ききっていた事も被害拡大をaccelerate!。
この当日の宿泊客数は442人、最上部の9・10階の宿泊者は約100人、その凡そ6割が外国からの客だったらしい。この2月8日はさっぽろ雪まつりの最中で、このイベントの為のツアー客もいた。犠牲者33名の内、日本人は11名、外国人は22名=USA・UKが1名ずつ、完酷8名、台湾12名。
33名の犠牲者の内、20名については廊下での焼死が多かったが、13名は転落死。煙や炎から逃れようと窓から飛び降りての転落死だった模様。9・10Fからはシーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。殊にシーツをロープ代わりにして下に降り生還したという話は伝説の様になっている。
1979年の東洋郵船買収時には320名の従業員がいたが、火災当時は134名に減っていて、火災発生当夜の当直従業員は9名のみだった。横井氏の金儲けオンリーのやり方に耐えられず離職した者は多かった上に、横井氏の意に添わない従業員はドンドン解雇していた。
当然の如く、防災教育や訓練なんて行っていないから、従業員は火災発見時の対応方法を知らない・非常ベルの操作方法を知らない・消火栓の使い方を知らない・緊急館内放送も出来ない、更に119番すらしないという超アタオカ+アホバカのオンパレードだったという。
初期消火が真面に行われず、宿泊客に危険が知らされる事もなく、119番まで15分も掛かり消防の出動も遅れた。迷路の様なホテル内は停電し従業員が宿泊客の避難誘導を行わなかったため、逃げ惑う人々は煙に巻かれてしまった。避難誘導灯も点灯せず、防火扉は分厚い絨毯に阻まれて自動で閉まらなかった。横井氏はこの期に及んで人命救助よりホテル内の高級家具・調度品の運び出しを優先し、それを従業員に指示していた。
よって、炎と煙に包まれた中で避難誘導を行ったのは宿泊客で、逃げ惑う宿泊客を誘導し続け、亡くなった外国人宿泊客もいたという。ここまで来ると、アタオカ過ぎて何も理解出来ない。上層階から飛び降りて亡くなる宿泊者もいたというのは、千日デパート火災の話と似た匂いもするが、千日の火災は1972年、こちらは丁度10年後の1982年である。
次回=Chapter 38へと続く!
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このホテル、1960年3月オープン時の触れ込みは「あらゆる近代設備とサービス」「西欧の豪華・東洋の雅味」。その時から経営が苦戦していたとはいえ、そこは痩せても枯れても永田町の高級ホテルだった訳で、宴会場では市川雷蔵(Ⅷ)が1962年に結婚披露宴を行っている。
この地下にあった(入口はホテルと直接繋がっていない)クラブ「ニューラテンクォーター」(Latin QuarterはQuartier Latinの英語読み)は政財界の社交場としてよく知られていた。又、このナイトクラブは、1963年12月8日に力道山が刺殺された場所としても有名だった。
このホテルの建物、当初はレジデンス(高級集合住宅)として設計されたが、用途変更で多機能型ホテル+レジデンスにされたという経緯があった。高級集合住宅がホテルに変わった原因は東京オリンピック(Ⅰ)で、五輪の観光需要を当て込んで用途変更したらしい。
このホテルの特徴的外観を形成していた120度Y字型の部分を含めて、非常に複雑怪奇で迷路の様な構造も、レジデンスの為の設計をそのまま流用したからであるが、この構造が避難を遅らせ被害を拡大させた原因の一つと言われる。ここでは宿泊客も普通に迷子になっていた。
このホテルを作った藤山コンツェルンには抑々がホテル経営のノウハウは無かった事もあり、「同期生」で近所のホテルニューオータニやホテルオークラ東京の後塵を拝してしまい、永田町2丁目にはキャピトル東急Hや赤坂東急Hが爆誕し、経営は最初から苦しかった。横井氏は相棒みたいだった強盗慶太氏の東急に、ホテルでは結果として苦しめられた事になる。
強盗慶太氏とは色々な形でガチャコーン!して離れられなかったのか、横井英樹氏は
1979年から経営者になった横井英樹氏は、ホテル業にはド素人だったのだ。何故そんなド素人に経営を委ねられたのかというと、設立した旧・藤山コンツェルンの中心企業・大日本精糖(ばら印砂糖で有名、現在は大日本明治製糖だが、10月にDM三井製糖になる予定)の大株主が横井氏だったので、同氏の会社であった東洋郵船がホテルを買収し横井氏が経営者になったという訳である。同氏の下で経営状態が改善する事は無かったが、個人的には儲けていた模様であった。
同氏は安全防災関連には経費を掛けていなかったが、ロビーや宴会場は豪華な内装へ変更し、高価な美術品も展示して、宿泊客に対して表面的にアピールする様な事には惜しみない投資をしていた。
経費削減を理由に定められた消防用設備を設置せず、設置してもアクティヴェイトせず、故障しても放置。消防当局や専門業者による防火査察や設備定期点検も拒否し続けていた。これに対し東京消防庁は度重なる指導を行ったにもかかわらず合格の適マークは与えていたというこちらもアタオカぶり。
(この火災以前は消防庁も強くは指導出来なかった部分がある。適マークは1980年の川治プリンスホテル火災事故を契機に制定された)
この状況に業を煮やした東京消防庁は1981年8月に最後通牒を突き付けて、「館内防災設備の不備と欠陥状態を今後も改善しない場合には、直ちに消防法に基づく営業停止処分を科す」とした。斯くしてスプリンクラー設置他の館内の防火環境改善工事は、着工される旨が決まったのが1982年2月6日=火災の2日前だった。
前記事でも触れたが、この火災の119通報はホテル従業員からでも宿泊客からでもなく、発生から15分後にホテルの近くを通り掛ったタクシーからだった。これは非常に不可解に見えるが、出火直後に従業員は火災が起きたのを認知してはいたが、「ボヤ程度で消防なんか呼んだら社長にどれだけ怒られるか分からない、消防は呼ぶのをやめよう」という判断が働いた様だ。従業員に消火する能力なんて無かったのに自分達で内密に処理しようとはこちらもアタオカだった。この日は異常乾燥注意報が発令中、なのに館内は加湿をしていなかったので、空気が乾ききっていた事も被害拡大をaccelerate!。
この当日の宿泊客数は442人、最上部の9・10階の宿泊者は約100人、その凡そ6割が外国からの客だったらしい。この2月8日はさっぽろ雪まつりの最中で、このイベントの為のツアー客もいた。犠牲者33名の内、日本人は11名、外国人は22名=USA・UKが1名ずつ、完酷8名、台湾12名。
33名の犠牲者の内、20名については廊下での焼死が多かったが、13名は転落死。煙や炎から逃れようと窓から飛び降りての転落死だった模様。9・10Fからはシーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。殊にシーツをロープ代わりにして下に降り生還したという話は伝説の様になっている。
1979年の東洋郵船買収時には320名の従業員がいたが、火災当時は134名に減っていて、火災発生当夜の当直従業員は9名のみだった。横井氏の金儲けオンリーのやり方に耐えられず離職した者は多かった上に、横井氏の意に添わない従業員はドンドン解雇していた。
当然の如く、防災教育や訓練なんて行っていないから、従業員は火災発見時の対応方法を知らない・非常ベルの操作方法を知らない・消火栓の使い方を知らない・緊急館内放送も出来ない、更に119番すらしないという超アタオカ+アホバカのオンパレードだったという。
初期消火が真面に行われず、宿泊客に危険が知らされる事もなく、119番まで15分も掛かり消防の出動も遅れた。迷路の様なホテル内は停電し従業員が宿泊客の避難誘導を行わなかったため、逃げ惑う人々は煙に巻かれてしまった。避難誘導灯も点灯せず、防火扉は分厚い絨毯に阻まれて自動で閉まらなかった。横井氏はこの期に及んで人命救助よりホテル内の高級家具・調度品の運び出しを優先し、それを従業員に指示していた。
よって、炎と煙に包まれた中で避難誘導を行ったのは宿泊客で、逃げ惑う宿泊客を誘導し続け、亡くなった外国人宿泊客もいたという。ここまで来ると、アタオカ過ぎて何も理解出来ない。上層階から飛び降りて亡くなる宿泊者もいたというのは、千日デパート火災の話と似た匂いもするが、千日の火災は1972年、こちらは丁度10年後の1982年である。
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