2019年10月31日に那覇市首里にある首里城が全焼してから、先月で5年がたった。火災発生当時は東京本社に勤務しており、会社のテレビで炎上する首里城を見て驚いたのを覚えている。確かに沖縄出身者として衝撃的な出来事だった。しかし、メディアを中心に、首里城を「沖縄の魂」「県民の心のよりどころ」「アイデンティティー」などと表現することが当然のようになっている現状には、違和感を拭えずにいる。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として世界文化遺産登録されたことでも有名になった首里城だが、今回の火災で焼失した正殿などは文化財ではないことは、意外に知られていないのではないだろうか。世界遺産となっているのは「基壇」と呼ばれる正殿の土台だけで、琉球国の時代から残っていたかつての首里城は、第二次世界大戦末期の地上戦で米軍の激しい攻撃を受け、1945年に壊滅した。5年前に焼失した建造物は、92年以降に復元されたものだ。
「前回の復元は行政主導で、地元の人たちとも距離があった」。沖縄国際大の桃原(とうばる)一彦教授(社会学)はそう振り返る。首里に近い南風原町出身で、首里城の復元工事が始まっていた90年ごろは大学生として首里の酒屋でアルバイトをしていて、配達で飲食店なども回っていても「復元工事をしていることを知らない人もいた」という。
首里城は復元後の沖縄ブームや九州・沖縄サミットの開催といった出来事を受け、認知度が急速に高まり、沖縄イメージの象徴として定着していく。桃原教授によると、出稼ぎなどで県外移住した沖縄出身者やその子孫の生活史を調査した際、首里城火災の話になると涙する人も多く、沖縄県人会はいち早く募金活動などに取り組んでいた。桃原教授は「沖縄出身者と言ってもさまざまな島、地域にルーツを持つ人たちがおり、子孫だと沖縄に住んだことがない人もいる。その人たちが共有できる『沖縄』が首里城だった」と語る。
若者はどう見ているのだろう。…
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