開戦前の情報収集

伊木壮次郎の話の中で掠る程度に海軍の諜報活動の話を入れたのだけれど、海軍はあまり自前の諜報活動をしていなかったらしい。
日清戦争の辺りで私が知っている海軍の軍事探偵は宗方小太郎と石川伍一で、石川の方は清国側に捕まって銃殺されています。
海兵15期を調べている時に知ったのですが、この方15期石川寿三郎の兄にあたる方でした。
さらに弟に陸軍中将石川漣平、甥に作家の石川達三がいます(『生きてゐる兵隊』)。
石川漣平、見ていたら陸士10期なんですね。伊木壮五郎(伊木壮次郎の弟)と同期じゃない。
な、何か関わりが……(悪い癖

それはさておき、宗方の写真が載っている本でもないかとデジコレをみていたら以下の論文を見つけた。
「帝国陸海軍の情報と情勢判断-北清事変から日露戦争へ-」( 五十嵐憲一郎/防衛研究所紀要(5)2/2003.3)
つい読んでしまう。笑(宗方の写真……

本論によると「海軍にあっては駐在武官が補職されていたものの、民間人による情報の収集が企図され重要な情報源となっていたことを特徴とする」。
その代表的な人物が宗方小太郎で、海軍軍令部の中国関係報告は全て宗方の報告に依っていた、とある。
これは明治33(1900)年、北清事変(義和団事件)の頃の話になりますが、「全て」か。
驚いた。

伊木壮次郎がウラジオストクに派遣されたのが明治29(1896)年の恐らく5月です。
6月に一旦帰国、病気療養後の9月にパスポート申請をして12月に再度病気療養。
恐らくウラジオストクに再渡航せずに亡くなったのではと思うのですが、それが30年1月。

伊木は軍事スパイ、もしくはスパイ活動に関する職務に従事する為にウラジオストクに派遣されたというのは史実で良いと思うのですが、この上の3行を見ると、まあ普通に考えて海軍自前の諜報活動は失敗だったのだろう。
失敗と言うか、と言う感じであるが。
牽強付会だろうけれど、こういう事があったから海軍は外務省や民間に頼んでいたのではという気もする。
それに海軍が士官をスパイに使うだろうかという素朴な疑問もある(逆に陸軍なら使うやろなとも思う。偏見である。笑)。

日露戦争前も海軍が情報収集を他に頼む状況は変わっていなかったようで、それを請け負っていたひとりが在ウラジオストク貿易事務官であった川上俊彦になります。
現地でスパイを雇ったり他国の貿易事務官に情報収集を頼んだり開戦ギリギリまで海軍に情報を送っていた(ただロシア側の締め付けが厳しくなって実のある情報が送れなくなっていったそうですが)。
川上は日露戦争の際、水師営の会見の通訳をしていたり、伊藤博文暗殺時に側にいたり、かなり大きな歴史の場面に立ち会った人物です。
近代の外交官としては割と有名……うん、有名……多分……

広瀬武夫_川上俊彦夫妻

川上俊彦、「としひこ」ではなく「としつね」と読みます。
広瀬武夫の友人のひとり。
ロシアでの駐在が終わり、広瀬はシベリアを横断してウラジオストクに入りますが、その時に滞在したのが川上の新婚宅(新婚だった)。

川上、東京外語大学のロシア語学科の卒業なのですが、その時の同窓に鈴木要三郎がいます。
鈴木と川上はとても仲が良ったそうで、常盤ちゃんを見つけて是非川上の妻に!と動いたのもこの人。
川上は外交官となりましたが、一方の鈴木は井上良馨にスカウトされて海軍に入りましてね、のち広瀬に請われてロシア語を教えていた時期があります。
山本権兵衛がね、鈴木に聞いているんですよ。
誰かロシア語が出来る奴を知らないかって、そこで鈴木が推したのが広瀬です。
この話、誰も知らないと思うのだけれど、広瀬が留学生となれたのは決して財部の縁談で山本に喧嘩を売ったからではない。
というか山本に喧嘩を売った事実そのものがない。
鈴木に関してはひ孫様から写真データを頂いたり、お話を聞かせて頂いたりもしているので、いずれ纏めて掲載したいと考えています。


この論文を見ていると、海軍軍令部は各国にいる駐在武官を筆頭に川上や、海外に支店を置いたり渡航する民間の商社・商会といった筋からもロシアの情報を集めている。
内容はロシア艦艇の動向情報が主で、特に欧露から極東への回航情報、ロシア艦隊の所在情報が中心で、これらを軍令部第3局が整理して、少なくとも明治36年5月から配布していた、とある。
へえ……

因みに第3局は海外の軍事・諜報や翻訳編纂などをする担当部局です。
当時の海軍軍令部は3局体制で、4班体制になったのは日露戦争後。
(※追記:訂正※
明治30/12/1~3局、明治37/1/6~3班、明治38/12/21~大正5/11/30迄4班です)

海軍は明治36年12月に至ると、ロシア艦艇の所在を要約して毎週配布しており、このことからのみ見れば、海軍の情勢判断は11月頃から切迫度を加えていったものと見積もられる。
このようにしてみると、海軍においては兵力整備が不十分なまま戦争に突入する危惧はあったものの、明治36年5月頃の時点からロシア動態情報にかなりの比重を置いており、艦艇勢力が拮抗するうちは、第一撃による戦略的優位性の確保を戦術情報(動態情報)に求めていた可能性がある。

そうなんだ。

はーい、今日はここまで。
待て次号!
というかこんな話興味あります?
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M:明治
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