『置かれた場所で咲きなさい』
◇参考文献
『置かれた場所で咲きなさい』
『HELLSING』
◇そういや少佐って名前あったっけ?
「ねぇねぇ」
「あ~?」
「『置かれた場所で咲きなさい』を読んだんだけどさ」
「ああ」
「何となく腑に落ちない」
「ほほう」
「結構いいこと書いてあると思うんだけど、読後感がイマイチでさぁ。
キリスト教がベースにあるから受け入れにくく感じるのかなぁ? 信仰のある人が読んだらストンと腹落ちするんだろうか」
「俺には信仰があるが、大いに疑問を持ったぞ」
「え、君キリスト教徒だっけ?」
「うちの前のお地蔵さん、いわゆる辻地蔵の信者」
「わーお驚天動地の素朴さ」
「こう見えて、朝な夕なに合掌する毎日だ」
「やっぱりお経を唱えたりするわけ? ナムアミダブツ、ナムアミダブツって」
「地蔵菩薩を相手に『帰命頂礼、阿弥陀如来』と唱える気はない」
「イイね! 帰命頂礼、阿弥陀如来、脚韻踏んでてラップみたい」
「楽しそうで何よりだ」
「地蔵菩薩は阿弥陀如来の分身だから、帰命頂礼、阿弥陀如来でいいんじゃない? 越後のご隠居に、水戸のご老公様って呼び掛けるようなもんじゃん」
「印籠が出される前にそれをやると、ご隠居の行動に無駄な制限が加わると思うのだが、どうか」
「じゃあ地蔵真言?」
「別に小難しいものではない。朝は『おはようございます』『行ってきます』『今日も一日頑張ります』、夜は『ただいま帰りました』『お休みなさい』『今日も一日ありがとうございました』といったところだ」
「わーお奇想天外の素朴さ」
「また、出先で余所のお地蔵さんを見つけたら、歩きながらでも最低限目礼するように気を付けている」
「お地蔵さんネットワークに助けてもらおうってこと?
それとも、お地蔵さん同士、霊的交感があるかもしれないから、余所のお地蔵さんに失礼を働いたら自分とこのお地蔵さんに叱られるかもしれないってこと?」
「これといったご利益を期待したわけでも仏罰を恐れたわけでもないさ。
ただ、地蔵参りを始めて以来、心なしか運が底上げされている気がするな」
「徹頭徹尾素朴な信仰だねぇ」
「お地蔵さんは、賽の河原で鬼どもに責め苛まれている幼い子供たちを救ってくださる、有り難い菩薩さまだ。そのためにわざわざ地獄に降りていきなさるのだから、実に尊い」
「そうだね」
「もっとも、お地蔵さんは地獄の閻魔と同一神仏だという説もある。賽の河原にいる子供たちは、親よりも先に死ぬという親不孝の罰として石積みに従事させられているのだから、これは一種のマッチポンプである」
「いやそーゆー解釈はどーなの」
「さて、『置かれた場所で咲きなさい』の一文は、本来『神が植えたところで咲きなさい』という一文であり、その一文に続いて、
『咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです』
という文章が来る」
「うん、本書にそう書かれているね」
「ここを読んだ瞬間、俺の頭の中に疑問が浮かんだ。
『君らの神の正気は 一体どこの誰が保証してくれるのだね?』」
「少佐殿! 代行殿! 大隊指揮官殿!」
「『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかった』ことは、全く保証されていない。
それは、『自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって』、他ならぬ自分が『証明することなの』だ」
「そう読めちゃうねぇ」
「たとえば、お前が宝島の地図を渡されて、宝探しをするよう言われたとしよう。
当然、お前はその地図が本物なのか尋ねることだろう。また、その宝探しがお前に達成可能な難易度なのか、少なくともそれが推測できるような情報を聞き出そうとするはずだ」
「そうだね。それが分からなきゃ、怖くて宝探しになんて行けないよ」
「しかしながら、それらの疑問に対する答えはこうだ。
『お前が宝を見付けることができたなら、その地図は本物であり、且つ、その宝探しはお前に達成可能な難易度なのだ』」
「なんというクソゲー」
「賽の河原で獄卒に責められて泣く、哀れな子供たちに『置かれた場所で咲きなさい』と言うことは、その罪が許される日まで喜んで石を積み続けろと言うに等しい」
「なんという無理ゲー」
「幼くして死んだ子供たちにとって、賽の河原は過酷な場所だ。閻魔大王の裁きの結果そこに置かれた子供たちは、しかし、お地蔵さんによって救われる。
では、神に植えられた植物は、そこが花を咲かし得ない過酷な環境だった場合、誰に救ってもらえるのだ?」
「えー? 悪魔かなぁ? だけど悪魔にすがったら、結局は地獄行きだしなぁ」
「砂漠に植えられたサボテンなら、或いは池に植えられたスイレンなら、いずれ花が咲くに違いないという希望を持つことができるし、高確率で努力が報われることだろう。
だが、砂漠に植えられたスイレンは枯れ落ちるだけだ。池に植えらえたサボテンは腐り果てるに決まっている。
とはいえ、神ならぬ人間の身には、そこが砂漠なのか池なのか、自分がサボテンなのかスイレンなのか、知る由もない」
「つまるところ、『置かれた場所で咲きなさい』という本の内容が腹落ちするためには、まず、『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでな』いと信じられること。そして、その場所で『自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすること』ができる、と信じられることが必要なんだね。
端的に言えば、神への強い信仰が必要なんだね」
「あァなたは~ァ、かァみを~ゥ、しィんじまァすか~ァ?」
「絶対にノゥ!」
「故に、お前が『置かれた場所で咲きなさい』に納得することはない」
「なるほど」
「『置かれた場所で咲きなさい』は、『暗いと不平をいうよりも、進んであかりをつけましょう』と同じ意味だという。
暗いと不平を言うことで事態は解決しない、そこには同意する。
しかしながら、進んで灯りを点けることだけが解決策ではない。
誰かに灯りを点けてもらえるよう働きかけることも一手。既に灯りが点いている場所に移動することも一手。誰かが灯りを点けてくれるまで待とうと決意することも一手。
大切なのは、明るさを求めて行動することなのだ」
「うんうん、『咲きなさい』が大事なのであって、『置かれた場所で』に拘泥する必要はないんだね」
「なお、先般その台詞を俺が引用したところの少佐は、間違いなく『置かれた場所で咲』いた」
「ほへ?」
「圧倒的な『死』を前にしてさえ諦めることなく、半世紀以上を費やして周到に準備を重ね、艱難辛苦を乗り越えて、ついに宿敵を打ち倒した少佐は、死ぬまで笑顔で幸せに生きていたし、部下たちも幸せにしたので、『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明』したことになる」
「そうか、代行殿は神に与えられた試練に耐えきったんだね!
その結果、プロテスタントのロンドンが壊滅してカソリックのバチカンが大打撃を受けたけど、それもきっと神の御心の内だね!」
181017
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『置かれた場所で咲きなさい』
『HELLSING』
◇そういや少佐って名前あったっけ?
「ねぇねぇ」
「あ~?」
「『置かれた場所で咲きなさい』を読んだんだけどさ」
「ああ」
「何となく腑に落ちない」
「ほほう」
「結構いいこと書いてあると思うんだけど、読後感がイマイチでさぁ。
キリスト教がベースにあるから受け入れにくく感じるのかなぁ? 信仰のある人が読んだらストンと腹落ちするんだろうか」
「俺には信仰があるが、大いに疑問を持ったぞ」
「え、君キリスト教徒だっけ?」
「うちの前のお地蔵さん、いわゆる辻地蔵の信者」
「わーお驚天動地の素朴さ」
「こう見えて、朝な夕なに合掌する毎日だ」
「やっぱりお経を唱えたりするわけ? ナムアミダブツ、ナムアミダブツって」
「地蔵菩薩を相手に『帰命頂礼、阿弥陀如来』と唱える気はない」
「イイね! 帰命頂礼、阿弥陀如来、脚韻踏んでてラップみたい」
「楽しそうで何よりだ」
「地蔵菩薩は阿弥陀如来の分身だから、帰命頂礼、阿弥陀如来でいいんじゃない? 越後のご隠居に、水戸のご老公様って呼び掛けるようなもんじゃん」
「印籠が出される前にそれをやると、ご隠居の行動に無駄な制限が加わると思うのだが、どうか」
「じゃあ地蔵真言?」
「別に小難しいものではない。朝は『おはようございます』『行ってきます』『今日も一日頑張ります』、夜は『ただいま帰りました』『お休みなさい』『今日も一日ありがとうございました』といったところだ」
「わーお奇想天外の素朴さ」
「また、出先で余所のお地蔵さんを見つけたら、歩きながらでも最低限目礼するように気を付けている」
「お地蔵さんネットワークに助けてもらおうってこと?
それとも、お地蔵さん同士、霊的交感があるかもしれないから、余所のお地蔵さんに失礼を働いたら自分とこのお地蔵さんに叱られるかもしれないってこと?」
「これといったご利益を期待したわけでも仏罰を恐れたわけでもないさ。
ただ、地蔵参りを始めて以来、心なしか運が底上げされている気がするな」
「徹頭徹尾素朴な信仰だねぇ」
「お地蔵さんは、賽の河原で鬼どもに責め苛まれている幼い子供たちを救ってくださる、有り難い菩薩さまだ。そのためにわざわざ地獄に降りていきなさるのだから、実に尊い」
「そうだね」
「もっとも、お地蔵さんは地獄の閻魔と同一神仏だという説もある。賽の河原にいる子供たちは、親よりも先に死ぬという親不孝の罰として石積みに従事させられているのだから、これは一種のマッチポンプである」
「いやそーゆー解釈はどーなの」
「さて、『置かれた場所で咲きなさい』の一文は、本来『神が植えたところで咲きなさい』という一文であり、その一文に続いて、
『咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです』
という文章が来る」
「うん、本書にそう書かれているね」
「ここを読んだ瞬間、俺の頭の中に疑問が浮かんだ。
『君らの神の正気は 一体どこの誰が保証してくれるのだね?』」
「少佐殿! 代行殿! 大隊指揮官殿!」
「『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかった』ことは、全く保証されていない。
それは、『自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって』、他ならぬ自分が『証明することなの』だ」
「そう読めちゃうねぇ」
「たとえば、お前が宝島の地図を渡されて、宝探しをするよう言われたとしよう。
当然、お前はその地図が本物なのか尋ねることだろう。また、その宝探しがお前に達成可能な難易度なのか、少なくともそれが推測できるような情報を聞き出そうとするはずだ」
「そうだね。それが分からなきゃ、怖くて宝探しになんて行けないよ」
「しかしながら、それらの疑問に対する答えはこうだ。
『お前が宝を見付けることができたなら、その地図は本物であり、且つ、その宝探しはお前に達成可能な難易度なのだ』」
「なんというクソゲー」
「賽の河原で獄卒に責められて泣く、哀れな子供たちに『置かれた場所で咲きなさい』と言うことは、その罪が許される日まで喜んで石を積み続けろと言うに等しい」
「なんという無理ゲー」
「幼くして死んだ子供たちにとって、賽の河原は過酷な場所だ。閻魔大王の裁きの結果そこに置かれた子供たちは、しかし、お地蔵さんによって救われる。
では、神に植えられた植物は、そこが花を咲かし得ない過酷な環境だった場合、誰に救ってもらえるのだ?」
「えー? 悪魔かなぁ? だけど悪魔にすがったら、結局は地獄行きだしなぁ」
「砂漠に植えられたサボテンなら、或いは池に植えられたスイレンなら、いずれ花が咲くに違いないという希望を持つことができるし、高確率で努力が報われることだろう。
だが、砂漠に植えられたスイレンは枯れ落ちるだけだ。池に植えらえたサボテンは腐り果てるに決まっている。
とはいえ、神ならぬ人間の身には、そこが砂漠なのか池なのか、自分がサボテンなのかスイレンなのか、知る由もない」
「つまるところ、『置かれた場所で咲きなさい』という本の内容が腹落ちするためには、まず、『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでな』いと信じられること。そして、その場所で『自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすること』ができる、と信じられることが必要なんだね。
端的に言えば、神への強い信仰が必要なんだね」
「あァなたは~ァ、かァみを~ゥ、しィんじまァすか~ァ?」
「絶対にノゥ!」
「故に、お前が『置かれた場所で咲きなさい』に納得することはない」
「なるほど」
「『置かれた場所で咲きなさい』は、『暗いと不平をいうよりも、進んであかりをつけましょう』と同じ意味だという。
暗いと不平を言うことで事態は解決しない、そこには同意する。
しかしながら、進んで灯りを点けることだけが解決策ではない。
誰かに灯りを点けてもらえるよう働きかけることも一手。既に灯りが点いている場所に移動することも一手。誰かが灯りを点けてくれるまで待とうと決意することも一手。
大切なのは、明るさを求めて行動することなのだ」
「うんうん、『咲きなさい』が大事なのであって、『置かれた場所で』に拘泥する必要はないんだね」
「なお、先般その台詞を俺が引用したところの少佐は、間違いなく『置かれた場所で咲』いた」
「ほへ?」
「圧倒的な『死』を前にしてさえ諦めることなく、半世紀以上を費やして周到に準備を重ね、艱難辛苦を乗り越えて、ついに宿敵を打ち倒した少佐は、死ぬまで笑顔で幸せに生きていたし、部下たちも幸せにしたので、『神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明』したことになる」
「そうか、代行殿は神に与えられた試練に耐えきったんだね!
その結果、プロテスタントのロンドンが壊滅してカソリックのバチカンが大打撃を受けたけど、それもきっと神の御心の内だね!」
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