2024,10,20
忌部氏とは?。通説タカミムスビ御子フトダマを祖神とする高貴なる家系。
しかし宮下文書で分析すると…、祖家フトダマ蘇我大伴系統と、皇弟タマノオヤ系統が混在していると言わざる得ない。また東国では祖家神とその末裔が多く、タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシはもとより、なんと瀬織津姫命、稚日女命、丹生都姫命もその可能性が高い。
瀬織津姫命はフトダマの従姉妹???。丹生都姫命はフトダマの娘???(後述)。
〜忌部の正体?〜
▲皇弟タマノオヤ系忌部
▲左臣祖家フトダマ系忌部
△ワダツミ系忌部???
結論から言うと。
もともと彼らは、古代からの左臣家として、純粋に皇族神祭祀に携わっていたのではないかと思われる。しかし崇神時代~飛鳥時代の歴史改竄と共にその皇祖神までも隠匿せねばならなくなった。神道とは基本的に祖霊信仰であるがゆえに、その素性が隠されたとしても祭祀はやめるわけにはいかなかった。後世その歴史的に都合の悪くなった部分を、忌部と呼んでいたのではないだろうか?と。
日ユ同祖論???
いやいやフトダマ同祖論です。
(´(ェ)`)
~目次~
- フトダマ同祖論、忌部氏≒蘇我氏???
- 隠された皇族史エリアを忌部祭祀は担ってきた。
- 忌部にも、安曇族とワダツミ系統の混同あり?。
- 海神マゴコロ信仰とアズミの語源?
- 瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も東国の祖家女系だった?。
- 天比理刀咩命は、安曇族と祖家の統合シンボルだった?
- 歴史解明の鍵?祖家と女系。
〈三浦半島めぐり②〉東京湾に大海神が眠る?、海南神社と安房忌部が結ぶ富士鎮魂祭祀の影。 - セキホツ熊の謎を追え!
日本武尊『吾嬬惣国』伝承、弟橘媛と封印したマゴコロタケル夫妻への手向けだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
フトダマ同祖論、忌部氏≒蘇我氏???
忌部をなるべく分かり易くご説明(´(ェ)`)
忌部(いんべ)とは穢れを忌み清める意味で、のちに斎部と改められる。通説の忌部氏は、中臣(のちの藤原氏)とともに古代からの朝廷祭祀を担った氏族だった。乙巳の変(645年)の中臣氏vs.蘇我氏の政争に巻き込まれ、蘇我氏と親しかった忌部氏は衰退を余儀なくされた。
忌部の定義は、古代日本各地には忌部が設けられていたが、主にそれらの部民を統率したフトダマを祖とする中央氏族『忌部氏』を指す。広義にはそれに率いられた部民も含まれる。
分類上は一つの氏族と見做されてはいるが、それぞれ麻や穀の栽培、玉造り、海洋民族性などがみられる。同じ部民でも役割分担があった。
具体的には天太玉命を祖とする系統と、天日鷲命を祖とする系統(阿波忌部)、天道根命を祖とする系統(紀伊忌部、讃岐忌部)などがある。阿波忌部は竹や盾を朝廷へ奉納していた。出雲忌部氏は玉造り、紀伊忌部は木材、筑紫伊勢忌部は鍛冶に関係していた。これら祭祀集団を部族として優先させるあまり、謎を呼び様々な憶測を生んでいる感がある。
〜忌部の分布〜
- 出雲忌部氏(櫛明玉命 )
- 紀伊忌部氏(天道根命)
- 阿波忌部氏→安房忌部氏(天日鷲命)
- 讃岐忌部氏(手置帆負命)
- 伊勢忌部氏(天目一箇命)
- 筑紫忌部氏(天目一箇命)
〜安房神社・忌部五部神〜
- 櫛明玉命(出雲忌部の祖)
- 天日鷲命( 阿波忌部の祖)
- 彦狭知命( 紀伊忌部の祖)
- 手置帆負命(讃岐忌部の祖)
- 天目一箇命(筑紫忌部・伊勢忌部の祖)
※当ブログでは安曇族を富士朝大宮司タマノオヤ子孫とみている。宮下文書版紀伊一宮『日前神宮・國懸神宮』は神代、宮下文書版タマノオヤ御子ウサミと、その家臣イシコリドメが創建している。通説櫛明玉命=天明玉命=タマノオヤと解釈されている(後述)。
※※天目一箇命は明立天御影命と解釈されており『日前神宮・國懸神宮』にも祀られている。やはりタマノオヤ・イシコリドメ子孫と忌部とは深い関係にありそうだ。
宮下文書における忌部とは…。
宮下文書には忌部は登場しない。神武天皇時代にそれらしき人物は登場するが…それはまた別記事にてご紹介する。ただ、宮下文書を知るうえで最低限知っておいていただきたいのが…。『左右大神』という概念。
宮下文書における中臣とは、アメノコヤネ藤原物部系統とフトダマ蘇我大伴系統の両勢力のこと。神代から皇家に仕えた栄光ある臣家で、起源はタカミムスビ左臣に由来し、遺伝子的には皇族に限りなく近い。初代神武~11代垂仁天皇までの皇家と三つ巴の近親交配を行い、国津神≒中臣と定義されていた。右臣系統藤原物部氏にとって左臣蘇我大伴氏は、神代〜欠史八代時代までの宮中政治を守護していた中臣の片輪であり、飛鳥時代までには最大のライバルであった。だとすると蘇我氏も忌部氏ではないか?という図式が浮上してくるわけだ。
〜宮下文書版・中臣≒国津神≒神代左右大神〜
▲右臣アメノコヤネ系統『武部』…藤原物部氏
▲左臣フトダマ系統『祖家』………蘇我大伴氏
※クニトコタチとクニサツチ子孫を天津神というのに対して、左臣フトダマ祖家と右臣アメノコヤネ武部は国津神を称した。おそらくは全国神社神門などを守護する櫛石窓神・豊石窓神に準えており、天津神の国政を左右からサポートする意味がありそうだ。
~初代神武~12代景行時代、右臣アメノコヤネ系統『武部(もののべ)』~
~初代神武~12代景行時代、左臣フトダマ系統『祖家(そが)』~
前述wikipediaには『古くから中臣氏と忌部氏が朝廷祭祀を担ってきた』旨述べたが…。これが宮下文書研究的には、『古くから藤原氏と蘇我氏が朝廷祭祀を担ってきた、どちらも中臣という…』と改められるべきなのだろう…。臣家が皇族祭祀に関わるのはごく自然な成り行きであり、飛鳥時代の聖徳太子もその経歴を活用できていたのだろう。藤原氏はこの高貴なる血筋を滅亡させたうえで成り上がり、目先の利益で歴史をめちゃくちゃに改竄してきた訳だ。もちろんそれが露呈されれば、藤原は権力中枢にはいられなくなるだろう。平安時代の彼らが他氏排斥に固執した理由も見えてくる。
結果として、史上でフトダマ末裔+タマノオヤ末裔の関与した都合の悪い部分を、忌部と称し始めたのではないかと…。忌部というのも便宜上の名称のような気もする。いずれにせよ藤原不比等以降改竄された記紀においては、蘇我大伴氏を古代名門として語るわけにはいかなかった。とくに蘇我氏は飛鳥時代の新興勢力でなくてはならなかった。故に日前神宮のある紀州、武内宿禰子孫として附会されたのではないかとみている。
藤原鎌足・不比等側からしてみれば、あれだけ滅ぼしたかった蘇我入鹿・蝦夷の同族を、皇族祭祀的には当面利用し続けねばならなかったわけで、それを忌まわしく感じたのは間違いないであろう。その悔しさから『忌部』と呼んだのかもしれない。逆に彼らの祖神の祟りを畏れていたので、祖家春日神タケミカヅチとフツヌシに纏わりついた側面もありそうだ。
800年延暦噴火後突然、衰退してゆく忌部勢力に変化があった。桓武天皇が崩御をした直後となる807年(大同2年)、忌部末裔である官人・斎部広成が『古語拾遺』を編纂したのだ。これはまた別記事で触れるかもしれない。
奇しくも宮下文書版807年は、延暦噴火後に坂上田村麿と空海が富士朝入麓したタイミングである。富士朝復興議論が盛り上がる中、忌部氏の古代祭祀力が急遽必要とされた感がある。西国天皇勢力のご都合主義的とは裏腹に、富士山の逆鱗を抑えるためなら、富士朝伴氏(前記事参照)だろうが忌部氏だろうが見境なしに利用したのが伺える。
前記事で、祓戸四柱の流した『穢れ』とは歴史改竄そのものだと…お話したのを憶えているだろうか?。
神道というのは基本的に祖霊信仰であり、人間が生きていくうえでは祖先に礼を尽くす必要があった。政治や歴史が変わったからといって、古代祭祀をやめるわけにはいかなかった。時の権力者たちや真相を知らされていない者たちにとっては、形骸化したものに感じられるかもしれないが...。国の安寧のためには、誰かが継承しなくてはならない祭祀があった。
もともとは正当で高貴な古代朝廷祭祀であったろう。しかし時代の変遷と共に祖家・安曇・ワダツミが敗者となった。結果論に過ぎないが、忌部祭祀が担ってきたのは、歴史的勝者にとっては知られては困る、敗者たちの崇敬していた神々なのではないだろうかと...。
(´(ェ)`)
隠された皇族史エリアを忌部祭祀は担ってきた。
忌部氏の分布に注目すると…。
伊勢や出雲はもとより、阿波・讃岐・安房・紀伊・筑紫は、宮下文書史実における皇族にとって重要地であることにお気づきだろうか?。このように忌部氏の痕跡には宮下文書版タマノオヤの関連地が多い。
◯安房一宮『安房神社』(千葉県館山市大神宮)
〜主祭神〜
- 天太玉命(忌部氏祖神)
〜相殿神〜
- 天比理刀咩命(フトダマ后神)
〜忌部五部神〜
- 櫛明玉命(出雲忌部の祖)
- 天日鷲命(阿波忌部の祖)
- 彦狭知命( 紀伊忌部の祖)
- 手置帆負命( 讃岐忌部の祖)
- 天目一箇命( 筑紫忌部・伊勢忌部の祖)
▲出雲忌部…皇弟タマノオヤ末裔の関係地
▲紀伊忌部…皇弟タマノオヤ末裔の関係地
△阿波忌部…淡路クニトコタチ・トヨクムヌ拠点
△讃岐忌部…淡路クニトコタチ・トヨクムヌ拠点
△安房忌部…淡津佐マゴコロタケル夫妻拠点
◯筑紫忌部…天孫降臨伝承?『外寇親征の役』?
・筑紫・紀伊・出雲は、皇弟タマノオヤ末裔との関連性がチラつく。宮下文書版神武時代、タマノオヤ御子・崎玉男命50代孫の御鉾倉魂命が筑前後(筑紫全体)の県令となっている。
・紀伊国日高野原の川上にはタマノオヤ西征時の本営があり、これが丹生川沿いの丹生都姫神社付近に比定される。西征戦後に御子ウサミと家臣イシコリドメが『日前神宮・國懸神宮』を創建した。
・出雲一宮=熊野大社であり、タマノオヤ末裔と和邇氏族の繋がりが見られる。ホツマツタヱ版ヤマタノオロチはイワナガヒメの転生とされる。
・阿波国や讃岐国はクニトコタチ男系のルーツとなる。淡路はクニトコタチ拠点、讃岐・阿波トヨクムヌ拠点、そのさらに御子マゴコロタケルの諱は阿和武命と称した。さらに興味深いことに四国には何故か欠史八代天皇を祀る神社が多いという。宮下文書版7代孝霊天皇はある意味、大和国における富士朝信仰の極みの時代であった。おそらくは改竄されたクニトコタチ男系淡路島発の皇族史を、まとめて鎮魂祭祀していたのが阿波や讃岐あたりだったのではないだろうか?。
そして…注目すべきは安房。
安房国は、阿波国で生まれたマゴコロタケルの新天地であり、淡路島や阿波発のクニトコタチ男系ルーツの鍵と思われる。神武天皇時代には安房国祭祀をフトダマ祖家子孫が担当していたようだ。
宮下文書によると、初代神武時代にフトダマ55代孫申食国政大夫・曾賀可美眞手命第二御子・御鉾海辺命を武両富佐『安房の宮』へ派遣した(宮下文書三輪本現代訳p133)。この御人が通説忌部祖神・天富命に比定されるのではないかと思われる。因みに四国阿波県令はサルタヒコ系統の八街隅川命。記述をみる限りでは、通説忌部発祥地とも言われる阿波国よりも安房国のほうが扱いが上にみえる。
wikipedia安房神社によると、かつて安房神社の神職は安房忌部を称する岡島氏であった。ただ社伝以外では祖家や忌部による開拓を示す史料は残っていないという。その他の古代史料では安房郡司・安房神社神職に忌部子孫はおらず、膳大伴部(古代大伴氏に属した部民)が多かったという。
宮下文書的見解では蘇我氏・大伴氏・忌部氏ともにフトダマ同祖。通説ウマシマジは蘇我氏ではなく物部氏祖でなければならないわけで、史学の常識としてあってはならない事が書いてあるわけだ(苦笑)。そもそも東国史ごと消されているわけで、基本的に10代崇神〜12代景行以降東国部族は仮冒を余儀なくされているとみていいだろう。
(´(ェ)`)
忌部にも、安曇族とワダツミ系統の混同あり?。
次に、忌部の海洋性とはどんなものだろうか?。個人的にここでも、ヱビスワダツミ系やタマノオヤ安曇族が混同されているのではないかと見ている。
ユダヤ人じゃないよ(´(ェ)`)
宮下文書版タマノオヤは、マゴコロ夫妻の遺児アメノオシホミミが生んだ八王子神の一柱。富士朝阿祖山太神宮2代目大宮司であり伊豆国を本拠点とする。ニニギ皇弟にあたる神。言わずもがな、タマノオヤ末裔とはマゴコロタケルの血筋であるわけで、富士朝祭祀にも詳しく、皇祖祭祀権は十分あったであろう。
その御子ウサミは伊豆国イトウを拠点として、親子孫三代に渡る西征へ旅立つ。豊国『宇佐の宮』の創始に、実質関係していたのではないかと見ている。さらにその御子クマノクスヒコが熊野三山を創建して富士朝御祖霊を祀ったという。
宮下文書研究者鈴木貞一氏によると、タマノオヤの墓陵となる穴門の宮を賜った宇津志日金命はタマノオヤの御子ではないかと推測している。海人族安曇族とヱビス・ワダツミ系統とは別系統ながら、世間的にはよく混同が見られる。この二つの勢力の共通点は、葦船やカヌーの発祥地ともいわれる伊豆国を本貫地として、海神信仰をしている点だ。
〜安曇タマノオヤ系統・ワダツミ系統の混同?〜
- 天明玉命(壱岐島ワダツミ系統?)
- 櫛明玉命(壱岐島ワダツミ系統?)
- 天日鷲命(タマノオヤ53世孫、穴門摂津県令・日鷲気留木彦命か?p132)
※初代神武天皇は全国要衝に陸守本営本陣と海守本営本陣を設置。主に初代ウガヤフキアエズ時代の、ヱビス曾孫豊玉彦命八子の末裔が、副元帥として名を連ねた(三輪本現代訳p134)。
壱岐島(伊木島)本営に副本営を増設、天手長男命を副元帥とした。ワダツミ系統豊玉彦命七子石田明男命50世孫・天明玉命の二子にあたる(三輪本現代訳p135)。おそらくこの系統か?おそらくワダツミ系統と思われるが、櫛明天手長命46世孫・櫛明玉命を国造とする。(三輪本現代訳p130)
また本島東海三崎の水門に副本営副本陣三浦の宮が設置され、豊玉彦命三子・日野前佐武命54世孫・高御座男命を副元帥とした(現代訳p134)。これが三崎港をさしているのならば、前記事でご紹介した三浦総鎮守『海南神社』比定もありそうだ。wikipedia創建年とされる982年の遥か昔からワダツミ忌部の影響があったようだ。
通説は櫛明玉命=天明玉命=タマノオヤと解釈される。当ブログでもそれに習ってきたわけだが…。これはどう捉えてよいのか?別神と捉えたほうが良いのか迷っている。いずれにせよ忌部一族の中でも、この2つの氏族の混同がみられる事例としてをあげておく。
調査中(´(ェ)`)。
海神マゴコロ信仰とアズミの語源?
富士朝二代目大宮司タマノオヤ家族らが関わったとみられる八幡信仰と熊野信仰とは、大宮司タマノオヤ家族神を窓口とした阿族祖霊信仰と思われる。当然その子孫たちも、祭祀的専門性を継承しており、皇祖神祭祀を任せられる家系と見做されていた。
何が言いたいかと言うと…。
富士朝や八幡信仰や安曇族の歴史がいかに誤魔化されようが、彼らの子孫の行動原理は常に阿族祖霊信仰とともにあったであろうということだ。そんな彼らが、タマノオヤ祖父母マゴコロ夫妻を祀るのは、ごく自然なことなのかもしれない。祖家フトダマ系統とともに、彼らにとっても安房国淡津佐は聖地であったことであろうし、祭祀的には協力関係を保っていたであろう。
※因みに、阿波忌部や安房忌部の祭祀拠点を『大神宮』と呼んでいたのは、富士朝阿祖山太神宮に因んでいたのかもしれない。
◯『竹駒神社』(宮城県岩沼市稲荷町)
〜御祭神〜
- 倉稲魂神
- 保食神
- 稚産霊神(ワクムスビ)
※842年安曇族子孫小野篁創建。
時代背景として、841年5月伊豆地震があり死者多数。842年『承和の変』、嵯峨天皇崩御と共に恒貞親王と伴健岑と橘逸勢の謀反発覚。藤原氏初の他氏排斥事件。
※※当ブログではワクムスビ≒マゴコロタケル、ワカヒルメ≒マゴコロアイヒメ(松島毘女命)とみている。
◯『瀧澤神社』(宮城県仙台市青葉区本町)
〜御祭神〜
- 瀬織津姫命
- 和歌三神
※竹駒神社の北17km先に瀬織津姫を祀り、1800年和歌三神が合祀される。1800年(寛政11年)、和歌三神の住吉神明・柿本人麻呂・玉津嶋明神として衣通姫を合祀。しかし何でここに玉津嶋神を祀る必要があったのか気にかかる...。
前記事でもご紹介したように玉津嶋神ワカヒルメと瀬織津姫命は妹背のコンビネーションとなる。竹駒神社と瀧澤神社の直接的接点はない、ただ背景には戦国時代における梁川八幡宮(福島)と鶴岡八幡宮(宮城)の合祀・分離・移転の繰り返しになにかしら関係ありそうだが...。このあたりまた別記事で触れるかもしれない。
いずれにせよ安曇祭祀の影に、東北海神マゴコロ夫妻と瀬織津姫命の妹背のコンビネーションがチラつくのは興味深い。
その最たる例は信州安曇野の梓川祭祀にあるのではないかと見ている。信州安曇野には乗鞍岳(安房山)があり、梓川が流れている。その流域『梓水神社』には梓川大神・瀬織津姫命が関係しているとおもわれ、甲斐国金峰山を経由して、小野大神・瀬織津姫命を祀る武蔵一宮小野神社から安房国上総一宮玉前神社へ、とレイラインを形成している。
▲淡津佐(あづさ)
▲梓(あずさ)
前記事では、淡津佐国マゴコロ夫妻の拠点を『憐れなものの住むところ』=阿和礼住(アワレス)とご紹介した。これは阿波トヨクムヌの遺児が、富士朝クニサツチ勢力に保護され淡津佐(安房国)に移住したことに起因する。
後世神武天皇時代?忌部同族が進出し、マゴコロ夫妻の祭祀をするようになったと思われる。問題なのはこのアワレスを短縮すると、阿+住で『アズミ』と読めるではないか?。通説安曇族の発祥は筑紫国志賀島『志賀海神社』付近と言われるのだが、宮下文書における信仰のルーツを考えると、東国発祥でもおかしくはないように思えるのだ。
(´(ェ)`)
瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も東国の祖家女系だった?。
宮下文書研究者加茂喜三は『蝦夷とは高貴なる血筋であった』と評した。
ここで前記事でご紹介したように、蘇我蝦夷が何故東国を誇ったか?。ヤマトタケル副将・大伴武日が何故東国監視を任されたのか?を思い出していただきたい。藤原氏が恐れた蘇我パワーの真髄が東国にはあり、いうなれば祖家の栄光ある歴史そのものだった。
宮下文書におけるタケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシはもとより、ツクヨミ妃月桜田毘女・マゴコロ妃松島毘女・ウサミ妃小幡毘女らは祖家の出自である。当然その子孫も多く、祖霊信仰は祖先を末裔が祀るゆえに広大な祭祀権エリアを残すことになった。
祭祀権はそのまま地方の行政力に直結する、つまり地主神末裔たちの既得権益と考えられていた。天皇家は自らの権益を確立させるために地方権益の解体に注力した。それが歴史改竄の効果、全国の神系譜を木っ端微塵に書き換える事により、彼らの権益を削ぎ落すことに成功した。
具体的に言うと、ホツマ記紀の成立により天津神(皇神)と国津神(出雲地祇系)に再編されてしまったのだ。これが熊オッサンが考えている『国譲り』。因みに宮下文書の理屈では、出雲地祇系の国津神はあり得ない。神系がバラバラの集合体にしか見えない。
12代景行時代のヤマトタケル東征は、この理不尽な政策に富士朝+東国が団結して抗ったものだと思われる。結果として西国天皇勢力はそのような反乱分子を西国に受け入れるわけにはいかず、東国を分断して閉じ込めておくことを選んだ。こうして東国は吾妻惣国として独立自治を許されたようだ。ある意味分断統治のはじまりだったのかもしれない。
〜祖家女系〜
▲月桜田毘女命(ツクヨミ妃、フトダマ従姉妹)
▲松島毘女命(マゴコロタケル妃、フトダマ従姉妹)
△小幡毘女命(ウサミ妃、フトダマ娘)
※月桜田毘女命=瀬織津姫比定?。
※※松島毘女命=稚日女命比定?。
※※※小幡毘女命=丹生都姫命?=與止日女神?=豊姫?=天比理刀咩命?=天速玉姫命?。
ここで祖家女系に注目。
月桜田毘女命やその妹・松島毘女命(マゴコロアイヒメ)と比定して系図をさらに遡ると…、なんと彼女の外祖父が祖家なのだ。クニサツチ第一王子・日本比古尊(ウイジニ)の拠点が東洲であった。東洲の比定地は不明だが、四季島統治時代の関東平野を大原と呼んでいた。妃・大原毘女尊(スイジニ)は、天之常武比古命の長男でイザナギ朝の左頭神・天之茂登太手比古命の二女にあたる。
ウイジニは幼いマゴコロタケルを阿波から保護してきたようだ。そして彼に淡津佐国を割譲して、九女の松島毘女命を嫁がせた。御子である月桜田毘女命や松島毘女命からみて、フトダマは従兄弟にあたる。
前記事では…、縄文時代には男系遺伝子と同じぐらい女系遺伝子にも価値が見出されていたことを述べた。彼らもいかに女系祭祀にプライドをもっていたかが伺える。
天比理刀咩命は、安曇族と祖家の統合シンボルだった?
つぎに安房一宮に天比理刀咩命(天比理乃咩命)を祀る理由を考えてみよう。
結論から言うと。安房一宮のフトダマと天比理刀咩命のカップリングは、タマノオヤ系統とフトダマ系統の婚姻関係を暗示していると思われる。つまり忌部内でのコンビネーション・シンボルなのだろう。
ここまでマゴコロ夫妻の重要性を説明してきたが。もともと安房一宮とはマゴコロ夫妻に因んでいた聖地だと思われる。しかしヤマトタケル東征ころ?には、それに携わってきた忌部が、それを隠匿せねばならない事態となった。結局彼らは自らの祖神フトダマと天比理刀咩命を名代として祀ることにしたのだろう。
※当ブログでは天比理刀咩命は、フトダマの娘・小幡毘女命ではないかとみている。
小幡毘女命とは…?。
伊豆国タマノオヤの御子、伊豆半島伊東を拠点としていたウサミの従姉妹であり、のちに妃となる。タマノオヤ系統とフトダマ系統の統合シンボルとなる。平安時代、伊豆配流された幼い源頼朝にとっては、このイトウ地主神に親しみを感じていたと思われる。鎌倉幕府を成立させると、東京湾の守護神として天比理刀咩命を勧請して『洲崎大神』『品川神社』を創建させた。
宮下文書版小幡毘女命は、ニニギ左臣フトダマと太八重美命の娘。太八重美命はニニギ・タマノオヤと同じアメノオシホミミ八王子の一柱。ウサミの妃でありクマノクスヒコの実母。つまり月桜田毘女命から綿綿とつづくクニサツチ女系遺伝子とクニトコタチ男系との融合継承者であり、その極みである。そこに祖家女系遺伝子が再合流するため、祖家にとっては祝福のシンボルにもなっているわけだ。
※後世に源頼朝の前妻となった伊東氏出自の八重姫とは、この小幡毘女命の実母『太八重美命』を彷彿とさせる。
※※因みに、宮下文書研究者鈴木貞一著書『日本古代文書の謎p76』によると、熊野速玉神(速玉雄命)とはウサミに比定されるわけで、茨城県日立市泉神社の天速玉姫命には、天比理刀咩命同神説あり。これを小幡毘女命と考えるのが妥当だろう。
歴史解明の鍵?祖家と女系。
この年1300周年を迎えた『玉津島神社』。
ホツマツタヱでは神代の頃よりワカヒルメの関係地であり、その後神功皇后が玉津嶋神を祀ったという。724年(神亀元年)、45代聖武天皇の詔で玉津嶋と明光浦の霊が祀られるようなった。しかしその御正体はよくわかっていないという。
結局、玉津島神とはワカヒルメのことであろうとおもう。クニトコタチ男系の拠点であった淡路島と、マゴコロタケルが生まれた四国阿波国を、反対岸から対峙させ海神として祀っているのではないか?と。
そして明光浦とは紀伊国日高野原の川上に祭られる小幡毘女命(丹生都姫命)ではないか?とみている…。そもそも玉津島神≒丹生都姫神という伝承があり、丹生都比売神社の神輿が玉津島神社に渡御し、帰りに日前宮に行くというのだ。どちらも日前宮タマノオヤ系統に縁があり、祖家女系である。それが日本列島中央構造線上に結ばれている点も興味深い。
紀伊国和歌山紀ノ川周辺には蘇我氏・大伴氏・忌部氏・タマノオヤ子孫の痕跡がそれぞれある。通説蘇我氏が紀伊国武内宿禰の末裔とされるのもこのあたりが混同された理由であろうし、和歌山城付近は大伴氏の発祥地の一つとされる(大伴武日の墓説有)。おそらくこの祭祀集団忌部氏は、古代タマノオヤ・イシコリドメ末裔『日前宮』祭祀にも関与していたのではないかと見ている。
和歌山県和歌山市片岡町『刺田比古神社』など大伴の痕跡もあり、日前宮の東側『鳴神社』には紀伊忌部の痕跡もある。高野山の弘法大師空海も祖家末裔の大伴系となるわけだ。宮下文書では蘇我氏・大伴氏・忌部一部?もひとまとめに祖家フトダマ同祖と説明できる。
※結局これが日月神示鳴門の仕組みではないのかと。日月神示発祥地麻賀多神社の御祭神、ワクムスビ(マゴコロタケル?)とワカヒルメ(マゴコロアイヒメ?)のルーツに関係しているわけだ。
調査中(´(ェ)`)