幸福というのは、大事にする習慣を身につけて大事にし続けることができる状態になることと定義することができる。
ここで言う「大事にする」というのは以下のようなことを指す。
整える
ちゃんと見る
ちゃんと聞く
ちゃんと使う
温かく接する
丁寧に接する
肯定する
受容する
以上のような感じのニュアンス的な雰囲気の「大事にする習慣」を身につけるために日常生活はあり、幸福になるために人生があるとしたら、大事にする習慣を身につけるために人生はあると言ってもいいかもしれない。
大事にする習慣が身につくと、まず自己否定がなくなり、苦しみが減る。
私たちが苦しむのは、自分の中の醜い部分、無能な部分、卑猥な部分、卑怯な部分、吝嗇な部分、邪悪な部分、見栄っ張りな部分、愚かな部分、つまり、自分の中の悪の部分をこんなのは自分ではない、こんなところはあってはいけないと攻撃し、責め立て、否定するからだ。
たとえば運動をしようとする。
するとできない。
そして、無能な自分=悪の自分が見える。
こんな悪の自分は見たくない、受け入れたくない、いつまでも「できる自分=きれいな自分」しか見ていたくないとして、悪の自分を否定して苦しくなる。
だから運動なんてしなくていいんだと、運動をしないことを正当化し、「正しい」ものに書き換え、いつまでも正しいことをやっている「正しい自分=きれいな自分」でいようとする。
自己否定するのも何かを正当化するのも、自分が自分だと信じたい「きれいな自分」のイッメージに執着して自分の悪の部分を受け入れることができないからにすぎない。
苦しいのは自分に悪の側面があるからではなく、自分の悪の側面を受け入れきれず否定してしまうからにすぎない。自分の中の悪と共存できないからにすぎない。
しかし、大事にする習慣を身につけることができれば、自分の悪を正当化することなく、自分に悪の部分があるからといって自己否定することなく、悪を悪として受け入れることができる。
よって自己否定しない分だけ苦しみが減る。
さらに他人から責められて自分の悪の部分を指摘されても、自分がすでに受け入れていることを言われているにすぎないため、怒ることもない。
(人に対して怒るのは、人によって自分が見たくない自分の悪の側面を見せられ、自分の悪を受け入れきれず、自己否定してしまい苦しくなっているにも関わらず、その苦しみは他人によってもたらされたと勘違いするからだ。そして自分が自分の中の悪も責めるように、他人の悪も責めるからだ)
そして大事にする習慣が身につくと身の回りのものを自然と整ってくる。
まずは自分の心身、それから自分が普段使っているもの、日常空間、そして最後に身近な人間関係、それらを自分で整えることができるようになり、それらが整うことによって何とも言えない平穏な世界ができあがってくる。
もちろん諸行無常の理によって自分の思いどおりにならないこともあるかもしれず、その時は自分の悪の部分が見えるが、その悪の部分も受け入れることができ、自己否定が生じないので、苦しみが生じない、生じたとしてもそれは受け入れきれるまでの一時的なものでしかない。
大事にする習慣は「整える習慣」と言い換えてもよく、日々の日常生活を通じて身につけることができる。
整える習慣を身につけるために、特に何か特別なことをする必要はない。
自分にとって大事なものを見極めて、それを大事にしていくだけだ。
そのために特別な施設に行く必要もなければ、高額な教材を買う必要もなければ、大金を用意する必要もない。
自分にとって大事なものは以下の3つになる。
1 自分の心身
2 普段使っているもの(日常空間)
3 身近な人
自分の心身を大事にするために心がけるべきことは以下のとおり。
睡眠
食事
排泄
運動
読書
執筆(自分の頭の中にあることを書き出すだけでOK)
瞑想
入浴
散髪
ムダ毛処理
爪切り
歯磨き など
次に普段使っているもの(日常空間)を大事にするために心がけるべきことは以下のとおり。
整理(使っていないものを捨てる)
きちんと使う
使わないものは買わない
掃除
洗濯
ゴミ捨て
皿洗い
アイロンがけ
靴磨き
クリーニング など
整理によって使っていないものを手放し、普段使っているものだけを手元に残すようにする。それらは日常的に使っているが故に自分にとって大事なものであるため、それらをきちんと使うこと、また掃除や洗濯をすることによって大事していく。
次に身近な人を大事にするために心がけるべきことは以下のとおり。
あいさつ
話しかける
話を聞く
決めつけない
否定しない
責めない
肯定する(正当化するのではない)
意見を尊重する
温かい言葉使い
十分な時間を割く
向き合う など
まずは自分の心身や自分の身近なもの(日常空間)を大事にすることができないと身近な人を大事にすることはできない。
自分の心身や日常空間を整えるために最初は自分の時間と労力が100中100かかるとしても、習慣が身についてくるにつれて100中60で自分の心身や日常空間を整えられるようになり、残りの40を身近な人を整えるために当てることができるようになる。
さらに整える習慣が身についてきて呼吸レベルの楽勝さになってくると、自分の心身や自分の身近なものや日常空間や身近な人をより自然に整えられるようになってくる。
そして自分を始めとする自分の身近な人やものを整えること、大事にすること自体が楽しくなってくるし、その大事にしよう整えようという温かい思いによって自分の世界が温かく平穏なものになってくる。
また、整える習慣、大事にする習慣によって、先述したとおり実際に身の回りのものが整うし、乱れれば整えればいいという楽観的な発想になってきて、不安や恐怖もなくなってくる。(不安や恐怖は、乱れたらもう終わりという誇大妄想によって引き起こされている)
大事なものを温かい心で大事にしていく(途中で自分の悪が見えたとして、その悪の存在を正当化することなく許して受容していく)、大事なものを温かい心で整えてくことができるようになれば、心身も健康になり、仕事もできるようになり、良好な人間関係も築くことができるようになる。
以上が幸福、つまり、大事にする習慣を身につけて大事にし続けることができる状態になることへの概要のようなもので、以上のことは極めて平凡なことであり、今日からでもすぐに習慣化に向けて実践と試行錯誤を始めることができる。
私たちはつい、幸福というのは世間的価値を手に入れて優越感を得て他人を見下すことができるようになること、と段違いな勘違いをしてしまう。
(だから今日も私たちは自分の優位性を示してくれると思われるモノや能力や人間関係を求めて右往左往している。あるいは自分の優位性を示したくても示めせない情けない自分を誤魔化すために酒や煙草やギャンブルや薬物やゲームやネット等の中毒物に手を出している)
同じ「早寝早起き」でも、朝活で結果を残し他人と差をつけ、その差分をもって他人を見下したくて早寝早起きをするのと、自分の心身を大事にするために早寝早起きをするのとでは、一見したところやっていることは同じに見えても努力の方向性が全く異なり、その結果、できあがる世界=心の状態も異なってくる。
前者は他人を見下すための早寝早起きであり、人を粗末に扱うための努力であり、それが習慣になると、結果を根拠に自分が人を見下そうしとしている分、結果を出さなければ人から見下されると思い込み、不安と恐怖と強迫観念に苛まれる世界ができあがる。
一方で後者は自分を大事にするための早寝早起きであり、自分を大事にするための努力であり、それが習慣になると平穏で整った世界ができあがる。
両者を比べるものではないが、ヒトラーもブッダもとんでもない努力家であるが、両者は努力の方向性が大きく異なっていたため、両者が住していた心の世界は全く異なったものとなっている。
人を見下すための努力(見下すどころか一民族を絶滅させるための努力)に注力したヒトラーは圧倒的な世間的価値を有していても不安と恐怖と強迫観念と妄想に取り憑かれていた。
一方、自分を含め人を大事にするための努力(自分や他人の中に悪の部分があってもそれらを正当化することなく悪を悪として寛容に受容していく努力)に注力したブッダは何も世間的価値に当たるものを持っていなくても平穏で平安な心に住し、日々を温かく過ごすことができた。
つまりは単純にそういうことなのだ。
というように偉そうに書き連ねてきたが、そんな私もまだまだなのだけれど、幸福になるための方向性だけでも見定められているっぽいのでなんとかなるなる鳴門海峡と思っている。
声出して切り替えていこうと思う。