奥羽社会経済史の研究/平泉文化論(森嘉兵衛著作集第1巻) 450
永承5年(1050)源頼義が陸奥守・鎮守府将軍として着任した時、「安倍頼良傾首給仕、駿馬金宝之類悉献幕下」しているから、金が発見されてから三百年にしてすでに宝物としてすでに贈与されており、貴重性も一般化し、安倍氏がこれを採取して勢力を養っていたことが知られる。一旦帰順した安倍氏が何故再び叛して前九年役を惹起したか「陸奥話起」によれば、頼義の一部将の女を貞任に懇請したのを拒絶されたのに憤慨し、頼義が任満ちて帰洛する前夜これを襲い金銀財宝・駿馬を強奪したためであるとされているが、その裏面には、財宝の争奪が横たわっていることが知られる。
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藤原氏の経営・採取した金山は大体において宮城県遠田郡以北の本吉・東磐井・気仙・閉伊・我が・紫波郡一帯の地で、藤原氏はこれを自ら経営するとともに租税として徴収し、吉次その他の商人の手を通じ、京都その他各地に送り進歩した文化と交換したのである。
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源義家が前九年役ののち越中の国守となりながら前任地の陸奥を欲して止まなかったのは、一に陸奥産金の魅力のためであり、多田源氏が急に勢力を得たのは王族の故ではなくて、まさに墾田を起し金山を経営したがためであった。
頼朝にとってはすでに数倍する財力を擁した藤原氏が目と鼻の先で豪華な振舞をすることは政治上面白くないことであったのみならず、その富力を占有することが天下統一上最も重要な問題であった。したがって藤原氏は義経の問題がなくとも早晩滅ぼされる運命にあり、陸奥は強奪されなければならなかったのである。