魏志倭人伝を読む まとめ ~ 邪馬台国の真の姿が見えてきた!
これまで7回にわたって、三国志魏志倭人伝の現代訳と解説を、私なりにしてきました。訳の仕方は様々で、それにより中味が大きく異なってくるのですが、具体的事実を明確に記載している箇所も多く、それらをつなぎ合わせていくだけでも、いままで抱いていた邪馬台国とは違うイメージをもたれた方も、多いのではないでしょうか?。
以下ポイントを記します。
倭の国々
▪️漢の時代から朝貢している。現在、中国と交流している国々だけで三十国ほど。
▪️帯方郡から、船で十日、陸上で一月で、邪馬壹国に到着する。一万二千里である。
▪️邪馬壹国の位置は、博多湾岸である。
▪️女王国に属していない狗奴国がある。
⇒ 2015/4/21号、2015/4/26号 参照
倭の風俗
▪️男性は入れ墨をしており、魚介類を採る。
▪️倭は、会稽東治の東にあたる。
▪️規律正しい。
▪️南方の風俗と同じである。
⇒ 2015/5/1号 参照
▪️骨を焼いて占いをする。
▪️正しい暦がない。年齢を一年で二歳数える。
▪️寿命は、40~50歳と長命である。
▪️一夫多妻である。
⇒ 2015/5/6号 参照
倭の政治
▪️身分制度がある。
▪️徴税制度がある
▪️伊都国に一大率がいて、諸国を監視している。
▪️国が乱れ、卑弥呼を立てて収まった。
▪️東に海を渡ると、別の倭人がいる。
▪️小人の国がある。
▪️東南に船で一年いくと、国がある。
⇒ 2015/5/11号 参照
▪️238年6月に、卑弥呼は魏に使いを送り、魏の皇帝は感激した。
▪️238年12月に、魏の皇帝は、詔書を与え、卑弥呼を親魏倭王に任じた。
⇒ 2015/5/16号 参照
▪️240年、魏の皇帝は、卑弥呼に、金印、鏡、白絹、錦などを与えた。
▪️243年、卑弥呼は、魏に朝貢した。
▪️247年、卑弥呼と狗奴国との戦いに対し、帯方郡は、張政を倭に遣わし、諭した。
▪️卑弥呼が死に、墓を作った。
▪️男の王を立てたが、ふたたび争いになった。
▪️卑弥呼の縁続きの壹与を立て、国は収まった。
▪️壹与は、魏に朝貢した。
⇒ 2015/5/21号 参照
復習になりますが、いかがでしょうか?。
いままで知らなかった邪馬台国の姿が、おぼろげながら見えてきたと思います。
いっぽうで、皆さんのなかには、「ちょっと待ってくれよ。なんでそこまで言えるの?」という疑問をもたれた方もいると思います。
たとえば、
▪️どうして邪馬壹国が博多湾岸と言えるの?。
▪️邪馬壹国は、邪馬臺国の、間違いでしょ。
▪️会稽東治は、会稽東冶の間違いであって、会稽東冶の東なら、博多湾岸にならないはず。
▪️一年で二歳歳を数えるなんて、ありえない。
▪️小人の国や、船で一年行ける国なんて、作り話でしょ。
▪️卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡だから、それが沢山出土してる近畿に邪馬台国があるはず。
▪️卑弥呼の墓は、奈良の箸墓古墳じゃないの?
▪️壹与も、臺与の、間違いでしょ。
これらに対する答えは、今後ひとつずつお話ししますが、その根拠とする資料をもう少し集める必要があります。
次回からは、別の中国史書を紹介しながら、考えていくことにします。
★倭の人たちは、何を思って生きていたのでしょう・・・?
吉野ヶ里遺跡 復元された主祭殿
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▪️漢の時代から朝貢している。現在、中国と交流している国々だけで三十国ほど。
▪️帯方郡から、船で十日、陸上で一月で、邪馬壹国に到着する。一万二千里である。
▪️邪馬壹国の位置は、博多湾岸である。
▪️女王国に属していない狗奴国がある。
⇒ 2015/4/21号、2015/4/26号 参照
倭の風俗
▪️男性は入れ墨をしており、魚介類を採る。
▪️倭は、会稽東治の東にあたる。
▪️規律正しい。
▪️南方の風俗と同じである。
⇒ 2015/5/1号 参照
▪️骨を焼いて占いをする。
▪️正しい暦がない。年齢を一年で二歳数える。
▪️寿命は、40~50歳と長命である。
▪️一夫多妻である。
⇒ 2015/5/6号 参照
倭の政治
▪️身分制度がある。
▪️徴税制度がある
▪️伊都国に一大率がいて、諸国を監視している。
▪️国が乱れ、卑弥呼を立てて収まった。
▪️東に海を渡ると、別の倭人がいる。
▪️小人の国がある。
▪️東南に船で一年いくと、国がある。
⇒ 2015/5/11号 参照
▪️238年6月に、卑弥呼は魏に使いを送り、魏の皇帝は感激した。
▪️238年12月に、魏の皇帝は、詔書を与え、卑弥呼を親魏倭王に任じた。
⇒ 2015/5/16号 参照
▪️240年、魏の皇帝は、卑弥呼に、金印、鏡、白絹、錦などを与えた。
▪️243年、卑弥呼は、魏に朝貢した。
▪️247年、卑弥呼と狗奴国との戦いに対し、帯方郡は、張政を倭に遣わし、諭した。
▪️卑弥呼が死に、墓を作った。
▪️男の王を立てたが、ふたたび争いになった。
▪️卑弥呼の縁続きの壹与を立て、国は収まった。
▪️壹与は、魏に朝貢した。
⇒ 2015/5/21号 参照
復習になりますが、いかがでしょうか?。
いままで知らなかった邪馬台国の姿が、おぼろげながら見えてきたと思います。
いっぽうで、皆さんのなかには、「ちょっと待ってくれよ。なんでそこまで言えるの?」という疑問をもたれた方もいると思います。
たとえば、
▪️どうして邪馬壹国が博多湾岸と言えるの?。
▪️邪馬壹国は、邪馬臺国の、間違いでしょ。
▪️会稽東治は、会稽東冶の間違いであって、会稽東冶の東なら、博多湾岸にならないはず。
▪️一年で二歳歳を数えるなんて、ありえない。
▪️小人の国や、船で一年行ける国なんて、作り話でしょ。
▪️卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡だから、それが沢山出土してる近畿に邪馬台国があるはず。
▪️卑弥呼の墓は、奈良の箸墓古墳じゃないの?
▪️壹与も、臺与の、間違いでしょ。
これらに対する答えは、今後ひとつずつお話ししますが、その根拠とする資料をもう少し集める必要があります。
次回からは、別の中国史書を紹介しながら、考えていくことにします。
★倭の人たちは、何を思って生きていたのでしょう・・・?
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