宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(4)~イチキシマ
論文では、”表1から、沖ノ島に祭られる神が特定できるだろうか。”と問題提起してます。
<表1、再掲>
三女神の表記をみると、瀛津嶋(オキツシマ)姫、湍津(タギツ)姫、田心(タゴリ)姫をはじめ、多くの表記があることがわかります。
”このように類似した複数の異説が存在することは、この神話の成立がかなり古く、伝承の過程で多少 変化してきたことを示すと思われる。また第六段本文が成立した時点でも、ある程度の修正が加えられたとも考えられる。そのような変化の過程を追うことが可能であろうか。”
【解説】
神話の成立がかなり古いことが推測されるなか、変化の過程を追跡します。まずは、アマテラスです。
”「ウケイ」神話の変遷過程を推定する鍵が、その前段(神代紀第五段)の本文にある。それは、 「ウケイ」神話の主人公の一柱であるアマテラスの呼称である。
アマテラスらの親神である伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が夫婦になって日本の国土を次々に産んだあと、 「次にこの国や自然の王者きみたるものをうまなければ」と言って日神(ひのかみ)を産んだ。これを「大日孁貴(おおひるめのむち)と号(まお)す」とある。これに付記して、一書では天照大神、また一書では天照大日孁貴というと記されている。『古事記』はアマテラスを天照大御神と書くが、これは天照大神への尊崇がさらに進んだ段階を示すと考えられる。これらからアマテラスの呼称は、日神→大日孁貴→天照大神→天照大御神と変化したと考えることができよう。”
【解説】
アマテラスの呼称が、
日神→大日孁貴→天照大神→天照大御神
と変化した、としてます。
確かに挙がっている名前のなかでは、「日神」が一番シンプルで素朴です。また天照大御神が天照大神の尊称であることは明らかです。
”大日孁貴は、一般に「太陽神を祭る、位の高い巫女」と解釈されている。すなわちアマテラスは、本来氏族神である太陽神を祭る巫女であった。そのうちの特別に尊崇された巫女が神格化して天照大神となったと考えられる。
表1では、第六段第一と第三の一書が親女神を日神としており、これらが最も古い形を残した伝承と思われる。この二つの一書ではイチキシマが沖ノ島の神であることで一致しており、他の二女神についてはその鎮座地を明示しない。おそらくこれが本来の祭祀の姿であったのであろう。第二の一書で三女神にそれぞれの鎮座地を記したのは、おそらく宗像神祭祀が田嶋と大島でも実施されるようになった ためであろう。
ところで第六段本文で鎮座地を記さず出生順のみを記したのはなぜか。これは三女神の序列、すなわちそれぞれの神を祭る氏族間の序列を明確にするためと考えることができるのではないか。この問題は、三女神の起源を議論した後で考えることにする。
以上のように神話の解析からは、沖ノ島の神ははじめイチキシマであったと考えられる。その後「ウケイ」神話が形を整え三女神の序列が確立すると、すでに里宮としての辺津宮、その中間の仲津宮での祭祀が始まっていたので、三女神を3カ所の祭場に当てはめる考え方が生まれたと思われる。”
【解説】
三女神を生んだ親神(アマテラス)を、第六段第一と第三の一書では「日神」であることから、この二書は最も古い伝承を伝えている、と推測してます。この二書には、瀛津嶋(オキツシマ)姫と表記され、この姫が市杵嶋(イチキシマ)姫であることは、第三の一書に瀛津嶋(オキツシマ)姫(市杵嶋(イチキシマ)姫)とあることから明らかです。瀛津嶋(オキツシマ)姫は沖ツ島すなわち沖ノ島から取った名前であるので、「イチキシマが沖ノ島の神であり、本来の祭祀の姿である」というわけです。
そして残りの二女神については、宗像神祭祀が本土の田嶋と大島でも実施されるようになったので、それにあてはめたのではないか、と推測してます。
ではなぜ沖ノ島の神がイチキシマとされてきたのでしょうか?。
この問いにたいして、矢田氏は、”それはイチキシマが、縄文時代以来宗像海人族の祭ってきた神であるからと考えられる。”と推測してます。
”沖ノ島には縄文時代から豊富な遺物が発見されており、地理的な位置から見てもムナカタの海人が頻繁に渡島していた場所と考えられる。実際に沖ノ島からは、ムナカタと共通の土器が多く見られる。さらに朝鮮半島南部でもそれらの土器が発見され、ムナカタの海人が古くから沖ノ島を経由して朝鮮半島と文化交流していたことが推定される。
弥生時代に入ってもこの交流が続いていたことは、沖ノ島で発見されていた弥生時代中期の銅矛が、韓国馬山湾口の架浦洞遺跡(図8)で発見された埋納品の中の銅矛と同時期に埋納されたことから推定される。武末純一は、同遺跡がその位置から見て航海安全のための祭祀の可能性が高いことを指摘している。同氏は、沖ノ島の銅矛もおそらく同様な祭祀の存在を示すもので、「地域的な対外交渉の沖ノ島での実態と、沖ノ島に対する地域的な信仰の存在を示す」とする。
このような祭祀が、遅くとも弥生時代にすでに始まっていたことが、沖ノ島祭祀の伏線となったと思われる。そのころから祭られてきた神は、上述のように神代紀第三の一書に「瀛津嶋姫命亦の名は市杵島姫命」と書かれたイチキシマと考えられる。”
【解説】
沖ノ島と朝鮮半島南部との交流から、沖ノ島祭祀は「航海安全のための祭祀」であり、それはイチキシマ信仰でなかったか。と推測してます。
<図8>
”前報で見たように、イチキシマは三女神としてではなく単独で全国1700 社以上で祭られており、その分布は九州以外でも広島県や関西・関東・東海などの遠隔地でも顕著である。このことが古代の宗像海人族の広域活動に由来すると考えられることを実例により指摘した。ムナカタから沖ノ島経由で朝鮮半島に繋がる古代文化交流路にも、沖ノ島の神イチキシマを祭る宗像海人族の関与があったことは疑いないであろう。”
【解説】
ここまでも紹介したように、"宗像神信仰はもともとは三女神ではなかった。もっとも古いのはイチキシマ信仰であり、それは縄文海人族であった宗像海人族が信仰していた。”、という内容です。
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<表1、再掲>
三女神の表記をみると、瀛津嶋(オキツシマ)姫、湍津(タギツ)姫、田心(タゴリ)姫をはじめ、多くの表記があることがわかります。
”このように類似した複数の異説が存在することは、この神話の成立がかなり古く、伝承の過程で多少 変化してきたことを示すと思われる。また第六段本文が成立した時点でも、ある程度の修正が加えられたとも考えられる。そのような変化の過程を追うことが可能であろうか。”
【解説】
神話の成立がかなり古いことが推測されるなか、変化の過程を追跡します。まずは、アマテラスです。
”「ウケイ」神話の変遷過程を推定する鍵が、その前段(神代紀第五段)の本文にある。それは、 「ウケイ」神話の主人公の一柱であるアマテラスの呼称である。
アマテラスらの親神である伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が夫婦になって日本の国土を次々に産んだあと、 「次にこの国や自然の王者きみたるものをうまなければ」と言って日神(ひのかみ)を産んだ。これを「大日孁貴(おおひるめのむち)と号(まお)す」とある。これに付記して、一書では天照大神、また一書では天照大日孁貴というと記されている。『古事記』はアマテラスを天照大御神と書くが、これは天照大神への尊崇がさらに進んだ段階を示すと考えられる。これらからアマテラスの呼称は、日神→大日孁貴→天照大神→天照大御神と変化したと考えることができよう。”
【解説】
アマテラスの呼称が、
日神→大日孁貴→天照大神→天照大御神
と変化した、としてます。
確かに挙がっている名前のなかでは、「日神」が一番シンプルで素朴です。また天照大御神が天照大神の尊称であることは明らかです。
”大日孁貴は、一般に「太陽神を祭る、位の高い巫女」と解釈されている。すなわちアマテラスは、本来氏族神である太陽神を祭る巫女であった。そのうちの特別に尊崇された巫女が神格化して天照大神となったと考えられる。
表1では、第六段第一と第三の一書が親女神を日神としており、これらが最も古い形を残した伝承と思われる。この二つの一書ではイチキシマが沖ノ島の神であることで一致しており、他の二女神についてはその鎮座地を明示しない。おそらくこれが本来の祭祀の姿であったのであろう。第二の一書で三女神にそれぞれの鎮座地を記したのは、おそらく宗像神祭祀が田嶋と大島でも実施されるようになった ためであろう。
ところで第六段本文で鎮座地を記さず出生順のみを記したのはなぜか。これは三女神の序列、すなわちそれぞれの神を祭る氏族間の序列を明確にするためと考えることができるのではないか。この問題は、三女神の起源を議論した後で考えることにする。
以上のように神話の解析からは、沖ノ島の神ははじめイチキシマであったと考えられる。その後「ウケイ」神話が形を整え三女神の序列が確立すると、すでに里宮としての辺津宮、その中間の仲津宮での祭祀が始まっていたので、三女神を3カ所の祭場に当てはめる考え方が生まれたと思われる。”
【解説】
三女神を生んだ親神(アマテラス)を、第六段第一と第三の一書では「日神」であることから、この二書は最も古い伝承を伝えている、と推測してます。この二書には、瀛津嶋(オキツシマ)姫と表記され、この姫が市杵嶋(イチキシマ)姫であることは、第三の一書に瀛津嶋(オキツシマ)姫(市杵嶋(イチキシマ)姫)とあることから明らかです。瀛津嶋(オキツシマ)姫は沖ツ島すなわち沖ノ島から取った名前であるので、「イチキシマが沖ノ島の神であり、本来の祭祀の姿である」というわけです。
そして残りの二女神については、宗像神祭祀が本土の田嶋と大島でも実施されるようになったので、それにあてはめたのではないか、と推測してます。
ではなぜ沖ノ島の神がイチキシマとされてきたのでしょうか?。
この問いにたいして、矢田氏は、”それはイチキシマが、縄文時代以来宗像海人族の祭ってきた神であるからと考えられる。”と推測してます。
”沖ノ島には縄文時代から豊富な遺物が発見されており、地理的な位置から見てもムナカタの海人が頻繁に渡島していた場所と考えられる。実際に沖ノ島からは、ムナカタと共通の土器が多く見られる。さらに朝鮮半島南部でもそれらの土器が発見され、ムナカタの海人が古くから沖ノ島を経由して朝鮮半島と文化交流していたことが推定される。
弥生時代に入ってもこの交流が続いていたことは、沖ノ島で発見されていた弥生時代中期の銅矛が、韓国馬山湾口の架浦洞遺跡(図8)で発見された埋納品の中の銅矛と同時期に埋納されたことから推定される。武末純一は、同遺跡がその位置から見て航海安全のための祭祀の可能性が高いことを指摘している。同氏は、沖ノ島の銅矛もおそらく同様な祭祀の存在を示すもので、「地域的な対外交渉の沖ノ島での実態と、沖ノ島に対する地域的な信仰の存在を示す」とする。
このような祭祀が、遅くとも弥生時代にすでに始まっていたことが、沖ノ島祭祀の伏線となったと思われる。そのころから祭られてきた神は、上述のように神代紀第三の一書に「瀛津嶋姫命亦の名は市杵島姫命」と書かれたイチキシマと考えられる。”
【解説】
沖ノ島と朝鮮半島南部との交流から、沖ノ島祭祀は「航海安全のための祭祀」であり、それはイチキシマ信仰でなかったか。と推測してます。
<図8>
”前報で見たように、イチキシマは三女神としてではなく単独で全国1700 社以上で祭られており、その分布は九州以外でも広島県や関西・関東・東海などの遠隔地でも顕著である。このことが古代の宗像海人族の広域活動に由来すると考えられることを実例により指摘した。ムナカタから沖ノ島経由で朝鮮半島に繋がる古代文化交流路にも、沖ノ島の神イチキシマを祭る宗像海人族の関与があったことは疑いないであろう。”
【解説】
ここまでも紹介したように、"宗像神信仰はもともとは三女神ではなかった。もっとも古いのはイチキシマ信仰であり、それは縄文海人族であった宗像海人族が信仰していた。”、という内容です。
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