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謎の国々は実在したか?(9) ~ 古代中国人が描いた裸国・黒歯国

前回まで、古代人が南米エクアドルへ行っていた可能性、しかも太平洋を舟で渡った可能性について、お話してきました。

さて、ここで疑問が湧いてきませんでしょうか?。
「三国志魏志倭人伝では、半年で裸(ら)国・黒歯(こくし)ーエクアドルに行ったというが、どうして半年で行ったことがわかるのだろう。行ったきりなら、わかるはずはないではないか。」
と。
つまり、裏を返せば、
「裸国・黒歯国へ行った人の中に、日本に戻ってきた人がいて、彼らから聞いた話を伝えているはずだ。」
ということです。

はたして、日本から舟に乗って太平洋を渡り、エクアドルにたどり着くだけでもたいへんなのに、さらにまた、そこから日本に戻ってきた、などということが、ありうるでしょうか?。

しかし、そうでなければ、魏志倭人伝の話は成立しません。

ここで、古代中国史書「文選(もんせん)」を紹介します。
「文選」とは
”、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。”(Wikipediayより)
とあり、中国の昔の官僚試験「科挙」受験者に必須とされ、唐の詩人杜甫は『文選』を愛読したと伝えられます。

そのなかに「海賦(かいふ)」があります。作者は木華で、西晋の楊駿府の主簿をしていました。三国志魏志倭人伝の著者陳寿(ちんじゅ、233-297年)と同じ時代を生きた官吏で、陳寿より中央に近い位置にありました。

以下、その一部ですが、みていきます。

【読み下し文(抜粋)】
・・・(略)・・・
若し其れ、穢(わい)を負(お)うて深きに臨み、
誓いを虚(むな)しうして祈りを愆(あやま)てば、
・・・(略)・・・
帆を決(やぶ)り橦(ほばしら)を摧(くだ)き
・・・(略)・・・
是に於て、舟人、漁子、南に徂(ゆ)き、東に極(いた)る。
或いは、黿鼉(げんだ)の穴に、屑没(せつぼつ)し、
或いは、岑㟼(しんごう)の峯に挂罥(けいけん)す。
或いは、裸人の国に掣掣洩洩し、
或いは、黒歯の邦に汎汎悠悠す。
或いは、乃(すなわ)ち萍流(へいりゅう)して浮転し、
或いは、帰風に因りて自(おのずか)ら反る。
・・・(以下略)・・・
【意訳(古田氏説参考)】
・・・(略)・・・
タブーを破った場合は、直ちに海神の怒りにあって海難に遭う
・・・(略)・・・
ここから舟に乗れば、ある程度、南方に赴き、やがて東に方向を転じ、その彼方の極点の地にいたる
とかげの穴がある
小石の多い、きりたった山の断崖が海岸に突き出していて、舟の難破をさそう
海流に乗り、風の進行に導かれると、裸の国と黒歯の国に至る
場合によると、浮草のように流れて浮き転じ、潮流からそれて他の方向へまぎれこんでしまい、永遠に帰ることはできず、ある場合には、うまく帰りの風と潮流に乗ずることができれば、自然にもとのところヘ反(かえ)ってくることができる

冒頭の、”若し其れ、穢(わい)を負(お)うて深きに臨み、 誓いを虚(むな)しうして祈りを愆(あやま)てば”をみて、「どこかで見た文章だな」と思った方は、かなりの古代史通でしょう。そうです、あの、三国志魏志倭人伝のなかに出てくる「持衰(じさい)」の話です。
その話とは、
かれらは、どこかへでかけたり、海を渡って中国へやってきたりするとき、ある一人だけを選んで、髪の手入れ、シラミをとること、衣服の洗濯、肉食、婦人に近づくことなどを禁じる。まるで、喪に服しているようである。この男を持衰(じさい)と呼んでいる。もし旅行がうまくいけば、人々は、この男に奴隷や財産を与える。しかし、病気になったり、なにかの損害を受けたりすれば、この男を殺そうとする。なにもかも、持衰の男が、身を慎まなかったせいだとするからである
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-17.html参照

いうものです。
そして、「舟で南に出て東に進むと、行き着く国がある」とあり、そこに至るまでの描写が続きます。
ここで、「黿鼉(げんだ)」という見慣れない言葉が出てきます。通常は、「ウミガメ」「ワニ」とされますが、「トカゲ」との説もあります。
考えてみると、南米には、「ウミガメ」「「トカゲ」が棲息していますし、ガラパゴス諸島には、有名な「ゾウガメ」や「イグアナ」がいるので、そのあたりを指しているのかもしれません。エクアドルには、「イグアナ公園」があり、多くのイグアナが飼育されてます。

<イグアナ公園のグリーンイグアナ>
イグアナ公園 
            (Wikipediaより)

「岑㟼(しんごう)の峯」
とは、「小石の多い、きりたった山」ですから、アンデス山脈を指している可能性があります。舟で海上から見れば、確かに切り立って、立ちはだかっているようにみえるでしょう。
そして、裸の国、黒歯の国にたどり着く、と言ってます。そして、最後に注目すべきことを言ってます。

”うまく潮流に乗らないと、遭難してしまうが、うまく帰りの風と潮流に乗ずることができれば、自然にもとのところヘ反(かえ)ってくることができる”と。

つまり、裸国、黒歯国へ行くこともできるし、さらにそこから帰ってくることもできる、と言っているのです。

これは、実際の海流の流れをみれば、理解できます。つまり、日本から、黒潮に乗り、北米大陸沖まで行き、そこからカリフォルニア海流に乗り南下すれば、エクアドルまでたどり着きます。帰りは、北赤道海流に乗れば、フィリピン沖まで行き、そこから黒潮に乗れば、日本の南西部にたどりつきます。


<海流図>

海流2
海流1 


これが、冒頭の疑問
「三国志魏志倭人伝では、半年で裸(ら)国・黒歯(こくし)ーエクアドルに行ったというが、どうして半年で行ったことがわかるのだろう。行ったきりなら、わかるはずはないではないか。」
に対する答えにもなります。

ところで、これで、一件落着といきたいところですが、そうは簡単には行きません。実は、この「海賦」は、一般的には、文学としてみられていて、現実世界のことを表現しているとは、みられていません。まして、「倭国」のことを書いていると見る人は、古田氏くらいです。ですから、この解釈についても、「また古田氏の古代ならぬ誇大妄想が始まった」と批判されるのが、せいぜいでしょう。

しかしながら、古田氏の説にも一理あるのです。「持衰」とみられる描写や裸国、黒歯国という具体的国名が、魏志倭人伝と一致していることは、上でお話しました。さらに、ここでは割愛してますが、邪馬台国の状況を描写していると思しき箇所もあります。

また、作者の木華は、陳寿と同時代の人
です。当然、陳寿の書いた魏志倭人伝を意識していたことでしょう。あるいは、逆に、陳寿が木華を意識していた可能性もあります。いずれにしろ、同時代人が、同じような描写をしているのですから、両者が、同じ「倭国」「邪馬台国」をテーマとしたと考えて、差支えないでしょう。

となると、「海賦」において、”古代日本人が、南米エクアドルまで行ったのみならず、そこから日本に帰ってきたことを表現している”との仮説の信憑性が高まりますね。

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謎の国々は実在したか?(8) ~ 裸(ら)国・黒歯(こくし)国の正体

話を再び「魏志倭人伝」に戻します。そのなかの、裸(ら)国・黒歯(こくし)国がエクアドルにあった国であることはお話しましたが、その痕跡は残っているのでしょうか?。

ここで興味深い話を紹介します。「海の古代史」からです。

日本の実業家、アンデス文明研究家である、天野芳太郎氏の話です。天野氏は、ペルーのリマにて、天野博物館(Museo Amano)を経営していました。その天野氏が、古田氏の「邪馬台国はなかった」等の著作を読み感銘を受け、古田氏へ手紙を出しました。以下、その抜粋です。
 
裸国について ーー先つ裸国の位置は倭人伝によって船行で達するところ即ち海岸でなければなりません。と致しますとこれに該当する裸族は南米の太平洋岸にはおりません。然し百年か百五十年ほど以前には、いたらしい形跡はあります。パサードス附近では父が見たとか、祖父が見たとか云う人が今でもおります。スペインの征服時代まで遡ると可成の部族がいた事実があります。カベサ・デ・バルボアのミセラニヤアンタルティカのキート版によれば、その裸族はパサードスと呼ばれてパサード岬(CABO DE PASADO)の海岸に住んでいました。フランシスコ・ピサロは彼等を船に招待し、そのうちの二人を欺いて捕虜にし連れ去っています。〔パサード岬は裸人の岬として知られ、メガースの(COSTAL ECUADOR)の地図にも載っています。また別使でお送りしたエクアドルの地図にも出ています〕

 他に裸族はアンデス高原には大部族をなしておったようであります。シエサ・デ・レオンの書いたラ・クロニカ・デル・ペルーにはインカ皇帝ワイナカパック裸族との戦争で部将を討たれたあと、これを力攻めにすることの不利を覚って軍隊に退却を命じたと云っています。猶、アマゾンには現在も多くの裸族が住んでおります。  

黒歯国についてーー 国とは云えない小部族ですが、黒歯の部族ならまだおります。カヤパス族と呼ばれる種族であります。男は袖の無い長いシャツを着、女は上半身裸で腰巻きをしめ植物の実で造った首飾りをつけます。彼等は砂金の所在を知っているらしいが金製品は絶対用いません。ウイト(HUITO)と云う木の豆をもって歯を黒く染める習慣があります。然しこれは化粧の為めでなく歯を丈夫にする為めだそうです。彼等は農業を致しません。家の軒先にバナナとユカ(YUCA)の一・二株があるだけです。生活を支えるものは漁業ですが網も釣針も持たず括りで漁をしています。弓も用いません。吹き矢を使っています。  

彼等は如何なる道具を使うか独木舟造りの名人であります。現在エクアドル海岸にある凌波性に富んだ優秀な独木舟は皆カヤパス族の造ったものであります。増水期になると彼等は独木舟に売物の独木舟を積みあげてカヤパス河を下って来ます。この場合舟を漕いでいるのは常に女です。  彼等は舟をボルボンの村で安い値段で売り、高い値段で買物をし、それからラ・トーラ附近の海岸の島に行って仮小屋を建て幾週間か停って牡蛎を飽食して帰って行きます。

彼等は自分が必要によって行動する時は文明と接触しますが、一、二度その住居あたりに人が現われると早速何処かへ移転して終うほど接触を嫌がります。彼等は宿を乞われても泊めない許りでなく食を乞われて与えず溺れても救いません。然し危害を加えることはありません。社交性はないが蛮人ではありません。人口は減少しています。カヤパス全体で一〇〇〇人を余り多くは出ないと云われています。  カヤパス族の移動する範囲を地図に印して置きました。地図に記載はないがボルボン(BORBON)とオンソレ(RIO ONSOLE)を結ぶ河をカヤパス河と云います。此の河からリオ・サンティアゴの流域が彼等の北限で南限はリオ・アグアスーシオ(RIO AGUA SUCIO)です。此のあたりでコロラド族と境を接しているようです。  

もう一つある黒歯国 ーーカヤパス族の南隣、アンデスの山麓にコロラド族がおります。彼等は体格もよく容貌も優れています。家にいる時は男女とも上半身は裸で男は短かいパンツを穿き女は腰巻をつけます。祭礼の時などには、男はスカーフを首に巻き、女はスカーフを肩にかけ前で結びます。有名なのは男の頭髪をアチョテ(ACHIOTE)と云う植物の染料で赤く染めることです。アチョテには糊分があるので髪が固ります。それを眉のあたりで切るので赤いヘルメット帽を蒙ったように見えます。そのアチョテで顔から胴体、手脚にまで模様を描きます。この為にコロラドス(赤色人)と呼ばれるようになりました。

彼等もまたウイトを用いて歯を黒く染める習慣があります。  ボルフ・ブロンバーグのECUADOR ANDEAN NOSAIC にはこのコロラドスが笑って黒歯を覗かしている写真が出ています。スペイン征服当時は大部族であったと見え、彼等の中心地サント・ドミンゴにSANTO DOMINGO DE LOS COLORADOS と云う教会が建ちました。其の後そこは発展して都会となり同時に彼等は周辺の山地に退却して終いました。現在彼等の総入口もカヤパス族と同じく一〇〇〇人前後と云われるほど減少しております。  

コロラド族は定住して農業を営んでおります。豚も鶏も飼っています。漁業は致しませんが「吹き矢」を使って狩猟を致します。意外なことは彼等が皆薬草療法の医者なのであります。キート(QUITO)に招かれて大臣の病気を治した医者もいました。サント・ドミンゴの町にサラカイ(SARACAY)と云う病院がありますが、それはコロラド族の名医の名をとってつけたものであります。カヤパス族には医者も呪術師もいません。彼等は病気になるとコロラド族のところへ家族ぐるみ引越して来て治療を受けます。治療費食費は払われないようです。此の風習は二つの種族が嘗(かつ)て一つの黒歯国を形成していた事を想像させるものがあります”

エクアドル地図です。
エクアドル地図 

エクアドルとは、スペイン語で「赤道」という意味のとおり、赤道直下にあるのですから、裸で暮らすことができるわけです。かつては裸で暮らす部族がおり、大部族だったということですから、まさに「裸の国」ですね。
 
また、歯を黒く染める部族は、今でもいるわけで、かつては大きな国を形成していた可能性はあります。
彼らが、”独木舟造りの名人”であることも、縄文人や東南アジア人と共通しています。

ところで、「歯を黒く染める」と言えば、日本でも、「お歯黒」を連想しますね。「お歯黒」とは、
”明治時代以前の日本や中国南東部・東南アジアの風習で主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法のこと。”
であり、弥生時代には始まっていた、とも言われてます。
初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようである。”(Wikipediaより)
とあり、古代には、植物を使って染めていたところなどは、共通してますね。

子供のころ、「お歯黒」の話を聞いたときは、「何でわざわざそんなことをするのだろう」と思ってましたが、、
”きれいに施されたお歯黒には、歯を目立たなくし、顔つきを柔和に見せる効果がある。谷崎潤一郎も、日本の伝統美を西洋的な審美観と対置した上で、お歯黒をつけた女性には独特の妖艶な美しさが見いだされることを強調している。また、歯科衛生が十分に進歩していなかった時代には、歯並びや変色を隠すだけでなく、口腔内の悪臭・虫歯・歯周病を予防する効果があった。お歯黒は、江戸時代以前の女性および身分の高い男性にとって、口腔の美容と健康の維持のため欠かせないたしなみであった。” (Wikipediaより)
とあります。

また、お歯黒は「引眉(ひきまゆ)」ー眉毛を抜いたあと、おでこに眉を描くこと、とセットで行われたとのこです。能面にみられますね。

<女面 「増女(ぞうおんな)」 江戸時代
Zoonna_Noh_Mask,_Edo_period,_18th_century,_wood_with_polychromy_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC06166 
(東京国立博物館蔵(金春家伝来))

さらに古い時代の顔といえば、源氏物語絵巻(平安時代)でわかります。
源氏物語絵巻 

いずれも、お歯黒、引き眉ですね。現代人の感覚からすると、とても美人という風には見えませんが、当時の人にとっては美人だったのでしょう。”「美」に対する観念も、時代によって大きく変わる”ということですね。

話を元に戻します。
現代でも、この「お歯黒」の習慣は、世界の少数民族に残ってます。中国雲南省、ベトナム、ラオス、タイ、アイヌなどです。これに、上記の南米アンデス山地となります。

つまり、太平洋を挟んだ東側と西側に集中しています。これは、単なる偶然でしょうか?。
それとも、東アジア、東南アジアからの「伝播」なのでしょうか?。伝播だとすると、どのようなルートで伝わったのでしょうか?。

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謎の国々は実在したか?(7) ~ ウイルスと寄生虫は語る

さて、ここまでの話で、皆さんは、”古代日本人が太平洋を舟でわたり、南米エクアドルにたどりついた”という説について、どのように思ったでしょうか?。

「まだまだ証拠が足りないぞ。」
と思った方も多いでしょう。

そこで、科学根拠となりえそうな話を紹介します。


ひとつは、考古学とは無関係の、日本ガン学会における報告です。1994年、田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)が、
”日本列島の太平洋岸(沖縄、鹿児島、高知県足摺岬、和歌山、北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV-1ウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部インディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至った”というものです。(「海の古代史」(古田武彦著)より)


ここで、いきなり、「HTLV-1」ウイルスなどという、耳慣れない言葉が出てきましたので、少し解説します。

大人になってから発病する白血病の一種に、「成人T細胞白血病」(ATL)という血液のがんがあります。免疫をつかさどるT細胞がが、異常に増える病気です。その原因が、「ヒトT細胞白血病ウイルス1型」(HTLV-1)というウイルスです。名前を見て連想した方もいるかと思いますが、エイズウイルス(HIV)の兄弟分といわれるほど似たもの同士です。ウイルスに感染した母親から母乳を通して赤ちゃんに感染する「母子感染」が主な経路です。


ちなみに、1985年に、女優の夏目雅子さんが27歳の若さで亡くなりましたが、彼女も「成人病T細胞白血病」と診断されていました。


感染してから発症する確率は20~50人に1人。潜伏期間が数十年かかることも珍しくなく、発症の平均年齢は55歳です。エイズに比べてとかく軽視されがちですが、国内のHIVの累積感染者数は、わかっているだけで約15000人、未発見者を含めてもせいぜい5万人くらいです。一方、
HTLV-1の感染者数は100万人を超えるので、エイズの20倍以上も多いことになります。

HTLV-1は、3つの型に分けられ、圧倒的に広い範囲に分布するのが「コスモポリタン型」、あとは少数型の「アフリカ型」と「メラネシア型」です。
「コスモピリタン型」はさらにいくつかのサブタイプ(亜型)に細分化され、
・南米や中近東にかけて広い地域に分布する「亜型A」
・日本に特徴的な「亜型B」(日本型)
・西アフリカ・カリブ海に局在する「亜型C」
・モロッコやアルジェリアに多い「亜型D」
と、大きく4つに分けられます。


HTLV-1の大部分は母から子へ感染しますが、感染力が弱いことから、ウイルスは特定の地域や民族にとどまっていることが多いのです。そして、その感染の広がりは、宿主となったヒト集団の移動と密接に関係していると考えられます。つまり、このウイルスの変異を追っていけば、人類の移動も追跡できる、というわけです。


日本にHTLV-1をもちこんだのは、古モンゴロイドですが、そのうち特に「亜型B」(日本型)を広めたのは、「南方ルート」から朝鮮半島を経てやってきた集団です。その時期は、縄文時代初期とみられています。


HTLV-1の特徴的なことは、分布が非常に偏っていることです。台湾の先住民、フィリピン、マレーシア、インドの一部、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ハワイ諸島、さらには米国先住民(アメリカン・インディアン)の一部とイヌイットとスカンジナビアの先住民のサミー、アフリカなどです。世界の陽性者は1100~2000万人と推定されています。その一方で、朝鮮半島や中国には、陽性者がほとんどみつかっていません


日本においても、西端の九州・沖縄・四国西部・紀伊半島、と東南の東北・北海道に偏っていて、列島中央部はきわめて少ないのです。これは、”先住の縄文人が広く住みついていた日本列島に、弥生人が中央部から押し広げるように勢力を広げて、縄文人は分断されて北と南に押しやられた”ということでしょう。


<世界のHTLV-1集積地域分布図>
HTLV1分布

そして、上記のとおり、田島所長らが南米アンデスの先住民の血液を調べると、日本人と同一系統(日本型)のウイルス感染者がみつかりました。先住民13部族の調査では、17%という高い数字でした。
さらに、カリブ海沿岸、アマゾン熱帯雨林、パタゴニアなど僻地の南米先住民への大掛かりな調査を行い、アンデス高地にだけ(日本型)感染者がいました。

また、チリ北部のアタカマ砂漠で1500年前に埋葬されたミイラ約100体について調べたところ、アイヌ民族のものと同じ系統のウイルスをもっていたことがわかりました。このことから、この移住は数千年以上前に行われたものと推定され、南米先住民とアイヌ民族は、同系統の祖先から分かれたことが、類推されます
(以上、歴史 REALWEB第17回、18回参照)

少し難しい話になりましたが、ようは
”HTLV-1からみると、南米アンデス地方に住む先住民は、縄文人と祖先が同じ”
というこです。


では、この事実を、どう解釈するかです。

普通の解釈であれば、「南米先住民は、古代に東アジアからベーリング海を経て、北アメリカへ行き、そこからさらに南下したきたのだ。」となります。

しかし、もしそうであるなら、なぜ中米のカリブ海沿岸やパナマの人たち、また
同じ南米先住民でも、なぜ、太平洋側であるアンデス地域だけ集中し、他のカリブ海沿岸、アマゾン熱帯雨林、パタゴニアなどの先住民は感染していないのか、不自然です。

いろいろ理由は、考えられると思います。たとえば、「その地域の人たちも昔は感染していたが、移動したか、絶滅したか、他の民族が入ってきて、薄まったのだ。アンデスの人たちは、他の地域との交流もなかったから、感染したままだったのだ。」などです。

もちろん、そういった可能性もあるでしょう。ただし、やや無理筋に聞こえます。
しかしそうではなくて、ごくごくシンプルに
「縄文人が舟で渡ってきたから」
と考えることもできるのではないでしょうか?。そのように考えれば、すっきりとします。


そして、もう一つの科学的検証結果を紹介します。



1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アラウージョ博士等による共同報告がされました。それによると、
”南米の北・中部に分布する、モンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジヤー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。”これが、共同報告の結論であった。その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、わたしの手元に到着した、アラウージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期-弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文もふくんでいるから、今後、各専門家の手によって、より詳細に確認したいと思う。  いずれによ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への、人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。”
(「海の古代史」(古田武彦著)より)

少し解説を加えると、古代インディオの糞のなかに発見された化石化した寄生虫は、コウチュウ(鉤虫)   でした。コウチュウとは、

”十二指腸虫とも呼ばれ、亜熱帯から熱帯にかけて、広く分布する。戦前までは日本中で症例が多数みられた。感染時にかゆみを伴う皮膚炎を起こす。幼虫の刺激により咳・咽頭炎を起こす。 重症の場合、寄生虫の吸血により軽症~重症の鉄欠乏性貧血を起こす。
ヒト-ヒト感染はない。糞便とともに排出された虫卵が適切な条件の土壌中で孵化し幼虫となる。通常裸足の皮膚から浸入し、肺、気管支、喉頭を経て消化管に入り、小腸粘膜で成虫となり、排卵を開始する。生野菜、浅漬けから経口感染することもある。(Wikipediaより)

ちなみに、コウチュウとは、「鉤虫」との名前の通り、「小腸に鉤を引っかけて」 宿主から吸血しながら寄生します。ですから、足の皮膚から、人に侵入できるわけです。

何で、ここまで詳しく書いたかというと、ここにきわめて重要なポイントがあるからです。それは、「人から人への感染はない。」ことです。ある人の体内にコウチュウがいても、いきなり他人には寄生せず、一度卵が体外に排出される、という過程を経る必要があります。当然、外界の環境がコウチュウに適したものでなければ、コウチュウも繁殖できません。

コウチュウは、熱帯から亜熱帯にかけて棲息していますから、暑さには強い一方、寒さにはたいへん弱いわけです。ですから、寒い地域では、棲息できません。

このようなコウチュウを体内にもった古代人が、代々を経ながら東アジアから北上しベーリング海をわたり、北米大陸にたどり着き、南下して南米に住み着いたとしても、子孫である彼ら古代インディオの体の中にアジア産のコウチュウがいることは、ありえません。したがって、彼らの祖先は、ベーリング海を渡ってやってきたのではない、ということです。

では、どうして、古代インディオに、アジア産コウチュウが寄生していたのでしょうか?。

答えは、ひとつしかありません。別ルートでもたらされた、ということです。そうなると、「太平洋を舟で渡ってやってきた」という説が、最も有力な仮説となります。

話はそれますが、”コウチュウ感染率が高い地域では花粉症や喘息などのアレルギー症状が確認できないと多くの学者が報告している”との話があり、アレルギー症状の改善につながらないかを研究している学者もいます。古代より人間とのかかわりが深い寄生虫だからこそ、ということが関係しているのかもしれませんね。

縄文人が南米へと渡ったルートの想定図です。みなさんは、どちらのルートを通ったと考えますか?。

古代日本人横断ルート
 

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謎の国々は実在したか?(6) ~ Man across the Sea

前回、古田武彦氏が三国志魏志倭人伝から読み解いた「裸国」「黒歯国」の話と、アメリカ人研究者らによる縄文土器とエクアドルのバルディビア遺跡出土の土器を比較することにより得られた結果が、奇しくも一致したことをお話しました。それは、”古代日本人が舟で太平洋を渡り、南米エクアドルに到達していた”という話です。

これだけ読むと、”単なる奇説であり、リアリティがない”と感じる人も多いと思います。つまり、”日本とアメリカにいる風変わりな学者が空想をふくらませて唱えた説が、たまたま一致したにすぎない。学会などで正式に議論されたわけではないではないか。”と思うわけです。

これも、もっともな話であり、確かに日本において、この説が学会などで真剣に議論されたとは、聞いたことがありません。

ところが、アメリカではそうではないのです。ここで、ひとつの本を紹介します。

「Man across the Sea  ~(邦題)倭人も太平洋を渡った」(ライリー編著、古田武彦監訳)

です。


1977年出版とだいぶ古い本ですが、1968年5月に、ニューメキシコのサンタ・フェで開催されたアメリカ考古学会の全国集会の内容を、収めたものです。テーマは”あのコロンブスの「アメリカ発見」よりずっと前から、新世界と旧世界との間に、すでに親密な交流がおこなわれていたのだ。”です。

”似たような文明が存在した場合、それは古代人が海を渡って文明を伝えた”とする「伝播」論者と、”そうではなく、新世界において独自に発明した”とする「独立発明」論者が、喧々諤々、議論を闘わせている様子が、よくわかります。

その中の一人、エドウィン・ドーラン・ジュニアは、

・エクアドルのいかだとアジア沿岸のイカダの起源が同じであること。

・ヘイエルダールのコンチキ号の航海(1952年)で、ペルーからトゥアモトウスまで航海したこと。

・ドン・ビショップの航海(1956~1958年)で、タヒチからジュアン・フェルナンデ諸島(8000km、6ケ月)、南チリからマニヒキ(11200km,6ケ月)まで、航海したこと

・日本人の小舟が、記録に残るものだけでも60回漂流したが、そのうち6回はシトカ(アラスカ南部)とコロンビア川の間まで、6回は、メキシコ海岸、あるいはその沖合までたどりついたこと、

・白人が初めてアメリカの北西海岸サーモン・インディアンを訪問したとき、日本人の奴隷がいたという記録があること

などから、

「太平洋を越えるイカダの航海は、全く実行可能なものだ」

と断言してます。

さらに、

・紀元前200年頃のエクアドルの遺跡の中から、アジア的な特徴をもつ、一連の出土物(家の型、網野おもり、苦力(クーリー))は、広く東南アジア、東アジアに分布している(エストラーダ、メガーズ)。同時に、中国前漢王朝(BC206-AD8)のものとして特に知られている。

としたあと、驚くべき仮説を主張してます。

 あの秦の始皇帝から命ぜられて、不老不死の薬を求め海外に消えた徐福伝説について、

徐福がたどり着いたのは、日本ではなくアメリカではないか?」

と。

外国(アメリカ?)の学者が徐福のことを知っているのも驚きですが、さらにそこから発展させて、徐福アメリカ渡来説を打ち立て、学会で堂々と発表しているのですから、その柔軟な発想には、感心させられます。
                  

また、ダニエル・ランダル・ベイルネは、古代世界の斧と手斧を調査研究し、6つに類型化しました。それらが、旧世界と新世界にまたがって分布していることを示し、そのなかで、「伝播」の可能性があるものを挙げました。具体的には、

”中国から南太平洋を横切って、おそいテンポの進み方で、南アメリカへ伝播した”

”日本からエクアドルへ”

”インドネシア、メラネシアから、太平洋の島々に広がり、ペルー海岸のモチカへ伝わった。”

を挙げてます。

ここでモチカとは、
”アンデス文明古典期の文化(Mochica)。ペルー北部海岸のチカマ,モチェ両流域を中心として紀元前後ころから800年ころに栄え,神殿を中心に大都市を形成,すぐれた灌漑(かんがい)設備をもっていた。” (百科事典マイペディアより)

スチーブン・C・ジェットは、

”東アジアから南アメリカへの伝播について、ベーリング海を渡ってきた、とする説は、安易すぎる。”としてます。その理由として、アラスカ考古学者の次の言葉を挙げています。

”アメリカ北西部とシベリア北部、この両域は現存する気候条件からみてもすぐに分かるように、人間がそこを交流しようとするとき、恐怖のきわみというべき大障害の地だ。世界のどこに比べても、その困難は並ぶものがないほどである。従って新石器人に対し、一方で南太平洋を横断する能力なし、と決めつけておいて、他方でこの、ベーリング海峡両側の恐怖地帯を通り抜けうる能力あり、と称することは、まるっきり判断が逆立ちしている。ちょうど旧約聖書にあたる”ブヨを漉(こ)しだしてラクダを飲みこむ”(小事をあげつらって大事をみのがすたとえ)たぐいの、とんでもない錯覚と矛盾だ」と(レイニー1953,46)。”

として、

”第一、こんな北極ないし亜北極の環境のなかで、農業や栽培食物や多くの共有の文化的特徴が、どうやって部族から部族へと”伝播”することができただろうか?。それらは当然、より温暖な環境のもとでなければ、到底保持し、伝来されえなかったはずであるから。

次にそれらを運ぶ”実際の移住者”は、どんな風にして何千マイルの”支配地”を横切っていったのか。旧世界と新世界の、より高度の文化領域で共有される多くの文物も、これらの亜北極圏領域では、全く存在した形跡さえないのだ。

もし部族から部族への”伝播”が、この長大な北方領域のルートを通って実際になされたとしたら、少なくともそういった文物の痕跡が現存しなければならぬ。しかし、それは全くない。こうしてみると、半球間の”伝播”論争のなかで、中枢をなす論争のひとつが、”交流のための手段”の問題だったことがわかる。

エクホルムによると、「この問いに答えるのがあまりにも困難なため、多くの人類学者は、アメリカインディアンの文明は、”独立的に発達したものだ”と考えざるをえないようになってしまったのである。」。だが、もし陸路による”伝播”が無理だとしたら、残るところは一つ。”水による旅行”だ。これだけが交流と移住の手段として、可能なのである。”

さらに、そもそも現代人は、古代人の能力を過小評価しすぎであるとして、

”地球が球形である”こと、この命題は少なくとも、紀元前550年までに、ギリシャで教えられていた。そしてこの地球の直径がただ約七分の一の誤差で確かめられたのは、紀元前200年より前のことだった。さらに緯度と経度という座標体系は、紀元前150年にはすでに使用されていた(トゥザー)。-わたしたちがこれらのことをハッキリと理解するとき、ルネッサンス以前のヨーロッパでどんな知識が失われていたか、その真相を知ることができるのである”

”旧世界、新世界ともに暦の計算方法と天文学が洗練されてきた。このことは、基本的に天測航法(天体観測による船位測定)の技術がすでに知られていたことをしめしている

”海流調査は英国の島々においてすら、注目すべき暦と天文学の知識の存在したことを明らかにしつつある。-その島々は紀元前1500年か2000年ぐらい昔、文化的な周辺領域だと普通はみなされている所なのだ。”

として、英国の巨石記念物(ストーンヘンジのことか?)の中に、複雑な天測航法の方向づけが示されているとしています。そして、古代中国においても、紀元前から磁石を利用して方向探知するなど

”中国の天測航法の航海は常にヨーロッパより進んでいたようだ”(ボルデン)
としてます・
またハワイに初めて(ポリネシア人が)入植したのは、C-14によれば、紀元1-240年ごろであることや、マレーシア人がアフリカのマダガスカル島へ移住したことなどを挙げてます。


長々と紹介しましたが、スチーブン・C・ジェット氏の主張は、ようするに、

”アジア人が極寒のベーリング海を渡ってやってくることは、はるかに困難を伴うものだ。もし、本当にそうであるなら、アラスカからアメリカ南西部にかけて、その痕跡があるはずなのに、それはないのは、おかしいではないか?”

ということです。

一般的に考えられているアジアから南米への移動ルート(ベーリング海ルート)です。
ベーリング海ルート  

 たしかに、”もともと温暖な地域にいた人々が極寒の土地へ行って、生活できるのか?。”という素朴な疑問があります。進化論的には、

”幾世代を経て、順応していったのだ”

ということでしょう。しかしそうだとしても、日本列島にいた縄文人が移動したとすると、凍てつく氷の地で、縄文文化が継承されるのでしょうか?。たとえば縄文土器の製作技術ひとつとってみても、幾世代も経れば、忘れ去られてしまうでしょう。

実際、アラスカや北米西海岸沿いで生活していたなら、そこで縄文土器が発掘されるべきですが、その記録はありません。

”彼らが、その後気の遠くなるような時間をかけて南下して、南米エクアドルまでたどり着き、その地で突然先祖がかつて作っていた縄文土器を作り始めた。”

というのでしょうか?。ずいぶんと非現実的な話ではないでしょうか。

以上は、「伝播」論者の主張でしたが、「独立発明」論者の主張も、紹介されています。主なものとしては、”文物の単純な比較だけでは、「伝播」か「独立発明」かの判断は、きわめて難しい。慎重な検証が必要だ”という、至極当然な話です。


ここでは、それぞれの主張について紹介するにとどめますが、いずれにせよ、注目すべきは、こうした「学問」「科学」に対する姿勢です。両者とも、実に自由に、のびのびと議論を闘わせてます。さすが、アメリカという感じです。


一方、わが日本ではどうでしょう。昨今の学問、科学に関するさまざまな事案をみるに、どうも権威主義であったり、また木を見て森を見ずの議論であったり、感情的なパッシングであったりの風潮に陥ってしまっている気がするのは、わたくしだけでしょうか?。

参考までに、古代世界の舟での”伝播”ルートを図示しました。確実視されている”中国南部・インドネシア諸島から(マルキーズ諸島を経て)ハワイ”、と”ボルネオからマダガスカル”ルートは、実線で記してます。こうみると、日本からエクアドルも、決してありえない話ではない気はしますね。

古代海上ルート 
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謎の国々は実在したか?(5) ~ エクアドルに縄文土器が出た!?

さてここまでで、古代日本人が太平洋を舟で渡って、南米エクアドルにたどりつくことは、物理的には可能であることを、お話しました。

では、その証拠はあるのでしょうか。もし、それが事実であるなら、何がしかの痕跡が残っているはずです。

ここで、興味深い研究成果をご紹介します。アメリカ人学者クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻(アメリカ・スミソニアン研究所)、エクアドルのエストラーダ氏による研究です。

話は1960年代に遡ります。ヨーロッパ留学中に、考古学に興味をもったエストラーダ氏が、故国エクアドルに帰って、調査したところ、土中に、一種異様な土器、あのインカ時代の遺物とは異なる土器群に遭遇しました。そのうえ、ヨーロッパ留学時代に手にしていた図鑑類から、「縄文土器」と呼ばれる、遠国日本列島出土の土器との相似性に着目しました。これを、ペンシル大学同窓生の考古学者エヴァンス夫妻へ送り、協力を求めました。
夫妻は、ただちに日本へ飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本-エクアドル」間の縄文文化伝播という、前人未踏の新学説を樹立しました。
その学説は、1965年、スミソニアン博物館が世界に発信した学術報告書として公刊された「エクアドル沿岸部の早期形成時代ーバルディビアとマチュラ期ー」です。

バルディビアとは、エクアドルの都市ですが、そこで発掘されたのがバルディビア遺跡です。
エクアドル中部海岸にある初期採集漁労民文化の遺跡 (前 3000~2400頃) 。ここから発見された粗製の土器はアンデス文明最古の一つに数えられ,また日本の縄文土器との類似性が指摘されているが,直接の関係については疑問視する見解が強い。”
(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典より)

土器は、九州熊本、鹿児島、宮崎、本州の一部から出土した縄文土器の文様と類似しています。熊本県では、阿高式土器や曾畑式土器と類似しています。また宮崎県では、跡江貝塚遺跡から出土した縄文土器と比較されました。
跡江貝塚遺跡とは、12000年前から6300年前まで続いた縄文土器文化です。実は、この6300年前に大きな意味があるのですが、それはいずれ、ということにします。

バルディビア土器には74種類の文様があり、跡江貝塚遺跡から出土した縄文土器の43種類のうちの25種類に同様の文様が確認されました。
   
<バルディビア土器と跡江貝塚遺跡の土器との比較写真>
バルディビア土器比較

           (ブログ「グループ・ニライカナイ」より)


<縄文土器(阿高式土器)>
阿高式土器

阿高式土器は,太形凹線文(ふとがたおうせんもん)と呼ばれる,曲線や直線を組み合わせた文様を,指先状のもので土器の上半部を中心に描いているものが多く,中には器全体に文様を描くものもあります。器形は深鉢が多く,まれに浅鉢がみられます。 時期としては、縄文時代中期から後半以降と考えられています。(以上、鹿児島県上野原縄文の森HPより)

さて、皆さんは、この研究結果に対して、どのような感想をもったでしょうか?。

「文様が似ていると言っても、文様の形、種類などたかが知れている。たまたま似ていたって、なんら不思議ではないのでは?」
と思われた方も、多いのではないでしょうか?。

事実、この研究結果は、従来の考古学界には容易には受け入れてもらえませんでした。
例えば、
「日本とエクアドルとの間に文化的、生態学的類似性があり、それが類似した発明の可能性を導いたのではないか」(ジョン・マラー)

これらに対して、エヴァンス氏は、多くの反論をしましたが、もっとも説得力のある反論は、以下のものでしょう。
「日本の貝塚から出土する壺のほうが、エクアドル出土のものより3000年位前に出土する。次に来たるべき幾千年の間に、容器の形は多様化し、模様づけはさらに変化した。そして地域的な違いとなって発達した。一方、エクアドル海岸の最も早い時期の壺は、すでに十分発達しきったものだ。」
つまり、"日本の縄文土器は、発達するのに数千年の歳月を要した。しかるにエクアドルの土器は突然現れた。これは、その時代に外から持ち込まれたと考えるほかない。"というものです。

考えてみればあの神々しいまでに美しく、また迫力ある縄文土器ができあがるまでに、気の遠くなるほどの時間を要したことは、想像に難くありません。"ある一人の天才的な縄文人が、ある日突然ひらめいて、土をこねて火で焼いて、あの形の縄文土器を発明した"と考える人はいないでしょう。"数えきれないくらい多くの人々が、代々にわたって土器を作り、使うなかで、少しづつ発達して、あの形になっていった”と考えるのが自然です。

しかるに、エクアドルの土器の場合は、その幾千年の流れがないまま突然出現したのですから、外からもちこまれたと考えるほかないわけです。そして、エヴァンス氏は、
”日本の縄文土器とエクアドルの土器が、同じ時代のものであること、日本海流(黒潮ー北太平洋海流)という形で、交通の可能性があること、縄文人が沿岸を離れて漁業に従事していたという証拠があること”などから、"縄文人が、太平洋を舟で渡って、縄文土器を伝えた"
との説を、主張しました。(「海の古代史」(古田武彦著)参照)

エヴァンス氏らの研究結果は、奇しくも、古田武彦氏の研究結果と、同じ結論になりました。ここで注目すべきは、両氏は、お互いの研究をまったく知らずに、同じ結果を導いたことです。エヴァンス氏は、エクアドル出土の土器の研究から、古田氏は、中国史書、「三国志魏志倭人伝」の解読からです。

はたし
て、この一致は、単なる偶然なのでしょうか?。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。

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