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シリーズ第9巻を出版しました!

<この記事はしばらくこの位置に置きます。最新記事は2つ下になります。>

拙著「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎」シリーズ第9巻を出版しました!

題名は
『古事記・日本書紀のなかの史実③
~オオクニヌシと「出雲王朝」』
です。

オオクニヌシの活躍、そして「出雲王朝」との関係を
科学的視点で解明しています。

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*****
出雲神話といえば、かつては単なる神話としてしか扱われてなかった。
しかし荒神谷遺跡や出雲大社心柱など画期的な発見が相次ぎ、
これまでの認識に大きな見直しが迫られている。
本書では古事記・日本書紀を最新の考古学的成果を踏まえながら、読み解いていく。
そして最後に到達した「出雲王朝」の姿とは?

プロローグ ~ シリーズ全体の仮説

第一章 オオクニヌシの試練
1.稲羽の素兎
2.オホナムチ、八十神に追われる
3.アシハラシコヲ
4.オオクニヌシの試練
5.スサノオの三種の神器とは
6.三種の神器を奪う
7.出雲の国風土記との違い

第二章 オオクニヌシの子孫
1.ヌナカワヒメ
2.妻問いの歌
3.オオクニヌシが倭国に上るときの歌
4.スセリヒメの歌
5.オオクニヌシの子孫
6.オオクニヌシの子 アジスキタカヒコネ
7.オオクニヌシの子 コトシロヌシ
8.オオクニヌシの子孫
9.スクナビコナはどこから来てどこへ行った?

第三章 神の空白地域
1.出雲の倭
2.大山と大神山神社
3.大年神の系譜
4.ソホリとは?
5.シラヒとヒジリとは?
6.神の空白地域
7.オオトシ以下の系譜が示唆すること

第四章 『出雲古事記』は存在したか?
1.古代出雲に隠された3つの系譜
2.出雲系譜は捏造された?
3.『出雲古事記』は存在したか?
4.出雲に『天地開闢神話』はあったか?
5.出雲の「神統譜」と陰陽五行説との関係
6.日本版イソップ神話

第五章 「出雲王朝」の証明
1.「出雲王朝」は存在したか?
2.『出雲古事記』を検証する
3.「出雲王朝」を立証するもの
4.四隅突出型墳丘墓が示唆すること
5.青谷上寺地遺跡は語る
6.「出雲王朝」が教えてくれること

エピローグ 「出雲王朝」の祭祀

*****

ご高覧いただければ幸いです。ご意見、感想などもいただければ幸いです。
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#オオクニヌシと #出雲王朝 #古事記 #日本書紀 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは・・・

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (48)  ウガヤフキアエズ

ホオリはホデリに復讐を果たしましたが、その続きです。
 
【ここに海神の娘トヨタマヒメが、やってきておっしゃるには、「私はすでに妊娠して、今産む時期になりました。子を産むということについて考えてみるに、天津神(を父とする)神の御子は、海原で産んではいけませんので、こちらに出てきて参ったのです。」
と申し上げた。そこでその海辺の波打ち際に、鵜の羽を屋根の葺くかやのようにして、産殿(うぶや)を造った。その産殿の屋根がまだ葺き終わってないのに、お腹の御子が急に生まれそうになったのにこらえきれなくなった。そこで産殿にお入いりになった。

まさに産もうというときに、夫(ホオリ)に「すべて異郷の人は、産む時になると、生まれた世界の姿で産みます。だから私は今、本来の体で産もうとしてます。どうぞ、私を見ないでください。」と申し上げた。ホオリはその言葉をおかしいと思って、その産もうとするさまをのぞき見なさると、幾尋もある長いサメに身を変えて、這いうねりくねっていたので、すぐに驚いてお逃げになった。するとトヨタマヒメは、垣間見られたことを知って、恥ずかしいと思って、その産んだ子を置いたまま、「私は、今までは、海の路を通って往来しようと思っていました。けれども私の姿を見られてしまって、とても恥ずかしく思います。」と申されて、海神の国とこの国との境界をふさいで、海神の宮に還り入られた。これをもって、トヨタマヒメが産んだ御子を名づけて、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(アマツヒコナギサタケウガヤフキアエズ)命という。】

トヨタメヒメの出産を迎えるにあたり、”鵜の羽を屋根の葺くかやのようにして、産殿(うぶや)を造った。”とあります。なぜわざわざそのようなものを造ったのか、奇異な感じがしますが、当時はそのような風習があったと推察されます。

たとえば、 石川県輪島市にある重蔵神社には、神話にちなんだ産屋がありますが、その由緒にこのように書かれています。
”その昔、安産を願って産屋の屋根に鵜(う)の羽を葺(ふ)く風習がありました。鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の御神名(ごしんめい)は、この神様が産屋に鵜の羽を葺く暇も無いほど早くお生まれになったことから名付けられました。とても早く元気にお生まれになった大変生命力の強い神様です。産屋にお詣りすると、この神様のお力を頂くことが出来ます。”

また岩手県奥州市胆沢にある於呂閇志胆沢川(おろへしいさわがわ)神社の境内に、『鸕鷀草葺不合尊』と刻まれた石碑があります。
この石碑について、
”・・・・昔、九州宮崎の鵜戸崎の断崖上にある鵜戸神宮に由来するもので、
航海中の舟の中に産気づいた女の神があった。あわてた舟の者共は、この女神(産婦)を助け度い一存から、なんとか、鵜戸崎に上陸して、この近くの鵜の鳥の羽でお産小屋の屋根を葺くことになり、一生懸命葺いたが、葺き終わらないうちに、とうとう近くの岩屋根の下でお産を終えた。以後この赤ん坊の名前は、屋根が葺き終わらないうちに生まれたので鸕鷀草葺不合尊といわれ、屋根葺職人の加護にあたった。この故事によって亡くなっても屋根葺職人の守護神としてまつられた。
・・・・農業の片手間に職人として活躍した人々が、大正四年から昭和丗三年まで屋根葺き仲間が建立したもので、深い信仰が伝えられていたものである。”(胆沢町史Ⅲ第4章第五節1-40)と記載されています。

宮崎県の鵜戸神宮に由来する神話が、地元の伝承に取り込まれていったことがわかります。注目は、ウガヤフキアエズが屋根葺職人の加護にあたった、という記載です。となると、もしかするとウガヤフキアエズとは、鵜の羽で屋根を葺く職人だったのではないか、という可能性も出てきます。

そもそも「建鵜葺草葺不合」という名前自体、わかりりにくですね。

”鵜葺草葺不合命は産屋が未完成の状態で生まれるという異常生誕であることから、生まれながらに常人と違った聖なる資質と絶大なる威力を備えていることを強調しているといわれる。一方で、神名が産屋の未完成な状態を表すことから、初代天皇たるには不完全な存在であることを示すという指摘もある。”(国学院大学「古典文化学」事業 神名データベース「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」)

以上のような解釈がされていますが、「建鵜葺草葺不合」という文字も響きがいいとは言えませんね。初代天皇である神武天皇の父親の名前にしては、違和感があります。もっと威厳のある名前であってしかるべしです。

つまり、ウガヤフキアエズは身分の高い人ではなかったかもしれないいうことです。そうなると、ウガヤフキアエズは「鵜の羽の屋根葺き職人だった」という説も、あながちありえない話ではないかもしれませんね。

ウガヤフキアエズ

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新著です。ご高覧いただければ幸いです。!!

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (47)  隼人と熊襲の関係

前回は、隼人舞についてでした。この隼人舞は、南九州の薩摩・大隅国に伝わっていたわけですが、ではそこが源流なのかというと疑問があります。今回はそのあたりを考えていきましょう。

ここで、隼人と似たような言葉に熊襲があります。熊襲は古事記・日本書紀にも古い時代の話としてたびたび出てきます。

”★国産み神話
熊襲国は、『古事記』の国産み神話においては、八島のうち、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日別(タケヒワケ)」といったとされる。

★ヤマトタケル伝承
『古事記』には、オウスノミコトによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記され、『日本書紀』においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという伝承で有名である。”(Wikipedia「熊襲」)

ヤマトタケルとクマソタケル
では、隼人と熊襲はどのような関係だったのでしょうか?

”(隼人は)古く熊襲と呼ばれた人々と同じとする説、熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)、「熊」と「襲」を、隼人の「阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説などがある。”(Wikipedia「隼人」)

いくつかの説があり、定まっていません。このあたりをよく整理した論文があるので、みてみましょう。「クマソ復権運動と南九州人のアイデンティティ」( 岡本雅享)からです。

”8世紀前半の『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)や後半の『続日本紀』(797年)は、その南九州に住んでいた人々をクマソ或いはハヤトと呼んでいる。両者は種族的、文化的に違う人々ではなく、時代が変わり呼び方が変わったというのが通説となっている。
・・・
ヤマト政権に抵抗した南九州の人々を「熊襲」と呼び、服属した人々を「隼人」と呼んだのではないかとの見方もされている。だが「隼人」がひたすら服従していたわけではない。後述のように、1年数ヶ月に及ぶ養老年間の蜂起(720~721年)をはじめ、南九州の人々はヤマトの侵略に対し、たびたび抵抗している。抗うハヤトは「荒賊」「凶賊」「蛮夷」などと呼ばれたのである。
・・・
ハヤトの語源については、諸説が並立して定説がない。筆者は、朝廷が畿内に移住させたハヤトに課した「吠声」等の特殊な役務を考えれば、「隼人」はヤマト人が畿内にいる(朝廷=天皇を守護する)南九州人に付けた呼び名だったのではないかと思われる。その呼称がやがて汎称となり、本拠地・南九州在住の人をも「隼人」と呼ぶようになったのではないか。
・・・
田邊哲夫は、『日本書紀』や『肥前国風土記』『豊後国風土記』には九州北部の各地で「服ろわぬ者」(=土蜘蛛)として討たれる人々が数々記されており、南九州(球磨郡や鹿児島)の「クマソ征伐」などは最後の段階にすぎず、討伐はその前から、九州各地でずっと続いていたのだという。そうすると、北部九州を含む九州のほぼ全域が「服ろわぬ者」の地=非ヤマトの世界だったということになる。

『日本書紀』は、クマソ征討に固執した仲哀天皇の没後、神宮皇后が吉備臣の祖・鴨別を遣わしてクマソの国を討たせ、その後、天皇の命に従わない荷持(ノトリ)の熊鷲(クマワシ)を派兵して滅したと記す(神宮皇后摂政前紀)が、ノトリは和名抄にある筑前国夜須郡の野鳥村(現福岡県内)に比定されている。
九州南部のクマソに続いて北部のクマワシを討つという逸話は、「クマ」が九州の非ヤマト勢力
を象徴する言葉であり、ヤマトに抗う勢力が、南九州(クマソ)だけでなく、九州全域に散在
していた
ことをうかがわせる。”

・クマソ、ハヤトは、種族的・文化的に同じで、時代が変わり呼ぶ名が変わった。
・かつては九州全域に散在していた。
と述べています。

古事記・日本書紀における熊襲関連記事は、古事記では仲哀天皇の時代で終わり、隼人はそれ以降の仁徳天皇没後の履中天皇の王位をめぐる争いに初めて登場していることから、
”『記』・『紀』は、南九州系の集団に関して、仲哀天皇以前には熊襲とあり、隼人は履中期以降とする年代観を有していたことが読み取れよう。”(平林章仁『神武天皇伝承の古代史』P108)
との論説もあります。

仲哀天皇は、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けましたが、これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走します。即位9年2月に急死して、神の怒りに触れたと見なされています。一方『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で崩御したとされています。(Wikipedia「仲哀天皇』)

こうした記載からも、熊襲は当時筑紫(北部九州)にいたことがわかります。

論文中、田邊哲夫氏の著書『熊襲と隼人』が引用されていますが、引用箇所が「クマ族の南遷」となっていることに注目です。つまり、クマソは時代を経るにつれ、南へ南へと押しやられていったことを示しています。

私は以前、君が代発祥の地といわれる福岡市の志賀海神社に行ったとき、そこの神主さんから話を聞いたことがあります。その神主さんによれば、「隼人がヤマト朝廷に追われた際、君が代を琵琶を弾きながら歌ったと伝えられている。」とのことです。

九州王朝論に立てば、おそらくそれは7から8世紀ころで、実権を奪ったヤマト王権が、九州王朝の残党狩りの際の話ということになります。彼らは命からがら南へと逃れたのでしょう。そして南九州にて復興を企図していたと推測されます。隼人もその一派だったと考えられます。

その九州王朝復興の動きが、「隼人の反乱」でしょう。隼人の反乱とは、
”720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。”(Wikipedia「隼人の反乱」)

論文でも、
720年の隼人の蜂起は、長らく「隼人の反乱」と呼ばれてきた。しかし中村明蔵は、本来ヤマト政権が侵略者であり、隼人は南九州から外へ攻撃に出たことはなく、自己防衛に終始していたにすぎないのだから、「抗戦」と呼ぶべきだとする。その抗戦に敗れたハヤトが、再び大
きな蜂起を行うことはなかった。”
と述べられています。

ところでハヤトはなぜ畿内に移り住んだのでしょうか?
”畿内隼人については、ヤマト王権に服属した隼人を、その証として呪術的威力や軍事力で王権に奉仕させるために、王権膝元の地へ強制的に移配した隼人であり、そのために律令制では隼人司(はやとのつかさ)が置かれたのである」と説明されてきた。
・・・
こうした理解に反して、畿内隼人がヤマト王権により強制的に移配されたことを示す資料は皆無であることから、その解釈に妥当性は見出せない。令制下のことであるが、王者の徳に感化していない異族、すなわち夷人雑類(いじんざつるい)とされた「毛人(えみし)・肥人(くまひと)・阿麻弥人(あまみひと」(『令集解(りょうしゅうげ)』賦役令(ふやくりょう)辺遠国条)らに対して律令政府は中央官司を設けていないが、隼人には隼人司が置かれていて特別な扱いがなされていることは、上の解釈に疑問をいだかせる。

また、東北地方の蝦夷(毛人)出身の女性が王家にキサキとして入ることはないが、神話伝承も含めて隼人出身の女性の入内が少なくないことは、隼人が王権内で特別な地位にあったことを示しており、「畿内隼人は強制移住されたもの」という理解とは整合しない。加えて、『記』・『紀』の王権神話に隼人系の海佐知彦・山佐知彦(海幸彦・山幸彦)神話が取り込まれているが、これも隼人だけのことであり、隼人を夷人雑類と同列に扱うことを躊躇させる。そもそも、天孫降臨から神武天皇の日向出立までの物語は、事実かどうかは別にしても、隼人の居地が舞台になっているのである。

この背景には、王権と隼人の歴史的な特別の関係を考えざるを得ない。古代国家において、隼人は蝦夷らとは歴史的な位置づけが大きく異なるのである。すなわち、王権が隼人を特別に扱った理由を問わなくてはならない。"(平林同書P93-94)

”日向の大隅の地に降臨した祖神とその裔が阿多の女性と結婚を重ねて王家の始祖が誕生するという、この神話の大筋と舞台を明快に見通すことができる。
・・・
「外界から大隅に来訪した異邦人とその子孫が、重ねて阿多の女性を妻にむかえ、その裔の人物が隼人らの助力で東遷を実現して、初代倭国王の位に就いたのである、という神武天皇東遷伝承の核心部分が明瞭となる。”
(平林同書P110-111)

論旨としては、畿内隼人は、強制的に移住させられたのではないとしたうえで、
・隼人には、隼人の司が置かれている。

・隼人出身の女性が王家のキサキに入ることは少なくない。
・隼人の神話が、王権神話に取り込まれている。
など、他の夷人雑類とされた毛人・肥人・阿麻弥人とは、明らかに違う扱いである。
となります。

そして平林氏は、これら
神武天皇東遷伝承の根幹が形成された時期を、ほぼ4世紀後半以降、5世紀初頭以前と推察しています。しかしながら、では”なぜ時期にヤマト王権の始祖王の物語が形成されたのか、あるいはこの時代の王権・王家がそれ以前から保持していたのか否か。”については、”今後の研究の深化にはなお多くの時間が必要である。”(平林同書P112)として答えを保留しています。
さらに、もっと根源的な問題である
「王権が隼人を特別に扱った理由」の明確な答えもありません。

平林章仁『神武天皇伝承の古代史』について興味のある方は、こちらからどうぞ!
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平林氏は、あくまで神武天皇神話を創作としているので、その説明に苦慮していると思われます。これを
「”外界から大隅に来訪した異邦人とその子孫が、重ねて阿多の女性を妻にむかえ、その裔の人物が隼人らの助力で東遷を実現して、初代倭国王の位に就いた。”という神武天皇東遷伝承の核心部分を、何らかの史実を元に作られた神話である。」と考えれば、何ら不自然なことはありません。

九州王朝説に立てば、
アマテルの孫のニニギが日本本土に渡来して、ニニギの子(ホオリ)の孫である神武天皇が東へ向かい、畿内で天皇家の祖となった。
隼人の祖はホオリの兄(ホデリ)であり、ホデリは兄弟の戦いに敗れたため配下となった。
という話を神話として伝承したことになります。

もちろんこれがそのまま史実というわけではないでしょう。王権神話になるまでに自分たちに都合のいいように改変されていき、現在の形になった考えらえます。

そしてこのように考えれば、
なぜ南九州に天孫降臨や海幸彦山幸彦などの神話が伝わっているのか、という神話上の大きな謎も理解できます。つまり、南に追われた九州王朝の人々が、もとは北部九州に伝わっていた神話を、故郷をなつかしんで南九州で伝えたということで、説明できますね。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (46)  ホオリの復讐と隼人

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

今年の目標としては、シリーズ第十巻を出版しようと企画しています。
春以降になるかと思いますが、引き続きお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます!

さてブログの方です。

葦原中国に
戻ったホオリ(山幸彦)は、兄のホデリ(海幸彦)に復讐します。

【(ホオリは)こうして、つぶさに海神の教えのとおりにして、その釣り針を(ホデリ)にお与えになった。すると(ホデリは)次第々々に貧しくなって、釣り針を返せと言って責めたときよりも、一層狂暴な心を起こして、迫ってきた。攻めようとするときは、潮満珠を出して溺らせて、哀れみを請うたときは、潮乾珠を出して救い、このように悩まし苦しめなさった。最後には(ホデリは)頭を地面に付けて、「私は今より後は、あたたを昼夜守護する人となって、仕え申し上げます。」と仰せになった。こういういうわけで、今に至るまで、その溺れたときの種々のしぐさを、絶えず仕え申し上げているのである。】

ワタツミの呪力が功を奏し、ついにホデリは降参しました。その際にホデリが言った「
今より後は、あたたを昼夜守護する人となって、仕え申し上げます。」について、
”後世隼人等が元日、即位、践祚(せんそ)大嘗(だいじょう)祭等の宮廷の儀式に、狗吠(くはい)をして、宮門を守護したことの起源を説明したものである。”(倉野憲司他校注『古事記 祝詞』)と解説されています。

狗吠(くはい)とは、犬がほえることです。

続く今に至るまで、その溺れたときの種々のしぐさを、絶えず仕え申し上げている。”については、
”その子孫の隼人等が、ホデリの溺れた時の種々の所作を演じて、今に至るまで引き続いて宮廷に奉仕する意。これも隼人の歌舞の起源を説明したものである。”(同上)
とあります。
ここで「隼人の舞」という言葉が出てきました。

隼人舞(はやとまい)は、皇室にゆかりのある宮中の儀式用の風俗歌舞。大嘗祭などで南九州の大隅国・薩摩国に居住した隼人が演じた風俗歌舞で、令制では衛門府(大同3年(808年)に兵部省へ移管)の隼人司で教習された。
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。

隼人は『日本書紀』巻第二十九によると、7世紀後半にあたる天武朝11年(682年)7月に「隼人、多に来て、方物(くにつもの)を貢れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲(すまいと)る。大隅の隼人勝ちぬ」とあり、この時に正式に大和政権への服属の意志を示した。そして、6年交代で上京し、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行ったとされる(蛮族の声には悪霊退散の呪力があると信じられたため)。また竹笠・竹扇の造作などのほか、服属の意を示す歌舞の教習を行いつつ、隼人舞を節会に演じた、と言われる。

その後、隼人舞は宮廷芸能と化し、また番上隼人から 今来隼人の演じるものへと移行していった。『延喜式』によると、弾琴(ことひき)2人・吹笛(ふえふき)1人・撃百子(たたら)4人・拍手(てうち)2人・歌2人・舞2人の13人で演じられたらしい。

舞については、隼人の祖と伝えられる火照命(ほでりのみこと、あるいは火闌降命(ほのすそりのみこと)、海幸彦)が海水に溺れる様子を写したものであり、滑稽、物真似的な芸とする説のほか、戦闘歌舞(この場合は、ニュージーランドのハカのようなものだろう)とする説などもあるが、中世に絶えているので芸態は明らかでない。”(Wikipedia「隼人舞」)

現在では、京都府京田辺市で伝わっています。

大住隼人(おおすみはやと)は、今から1300年ほど前に九州の大隅地域から、現在の京田辺市大住地域に移住した人々のことです。隼人の人々は当時都がおかれていた平城宮の警備や芸能活動を行い、朝廷に奉仕したといわれています。

大住隼人舞は、京田辺市大住にある月読神社と天津神社で、毎年10月14日の夕刻に奉納される舞です。昭和46年に大住地区の人たちが中心となって、鹿児島県祁答院(けどういん)町(現薩摩川内市)の日枝神社に伝わる隼人舞をモデルにして復元が行われました。そして昭和50年には田辺町(現京田辺市)の無形民俗文化財に指定されました。その翌年には大住隼人舞保存会が結成され、現在まで受け継がれています。

大住隼人舞は6つの種目から構成されています。
1 お祓いの舞
 神々をお迎えするために、舞人が自らや舞台を清める舞。
2 神招(かみおぎ)の舞
 舞台に「月読の神」「天津神」「国津神」その他八百万の神を呼び招く舞
3 振剣(ふりつるぎ)の舞
 穢れを払い、隼人の勇ましさを誇示する舞
4 盾伏(たてふせ)の舞
 盾を持ち、外からの悪霊を防ぐための舞
5 弓の舞
 弓の技術を誇示し、狩猟の豊作を祈るための舞
6 松明(たいまつ)の舞
 八百万の神々に感謝の意をしめす舞”(京都府京田辺市P)

大住隼人舞

隼人舞は、ホデリが溺れたときのさまを表しているとか、犬の鳴き声のような吠声を上げるとかあるので、なんとなく敗れた側の見せしめのようにも思えてきます。しかしながら大住隼人舞は、むしろ隼人の勇ましさを示し、外からの悪霊を防ぐ舞があるなど、戦闘歌舞に近い印象ですね。むろん大住隼人舞は後世に復元されたものなので、実際はどのようなものだったのかはわかりません。古事記のとおりであれば、ホデリが溺れたときのさまを表現した舞があったということでしょう。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。

拙著です!
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