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江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』の内容は、一言で言えば仏教批判である。当然にその矛先は、仏教の開祖である釈尊(釈迦牟尼仏)へと向かうが、その向き方は遠慮が無いというか、批判ありきで見ているところもある。今回は釈尊が入滅する原因となった一件についての、篤胤による扱い方を見ておきたい。是は迚もきのこの毒にあたつて、年は取ているなり、とても今度は能有まひと自分も決定してどうも阿難がそんなことを云だてをしては、意地きたなくそんなくひつけもせぬものをくつたからじやと人にもさげしまれる事故、かやうの負惜みを云て口をとめたと見へるでござる。これが負惜みじやといふわけは、いかにも彼坐禅の苦行に痩さらぼつたる時、牧牛女が乳糜をくれたるのみ功徳にもならふが、人に毒を喰して殺し何の功徳にもなる...周那からの食事について④(拝啓平田篤胤先生46)
江戸後期のこと、不老不死の神人・仙人が住む海上の異界や山中の異境の実在を信じる、いわゆる「神仙思想」に大きな関心を向けた人物がいた。とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めると、すかさずその人物はすかさず行動を起こした。その人物とは、当時45
江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』の内容は、一言で言えば仏教批判である。当然にその矛先は、仏教の開祖である釈尊(釈迦牟尼仏)へと向かうが、その向き方は遠慮が無いというか、批判ありきで見ているところもある。今回は釈尊が入滅する原因となった一件についての、篤胤による扱い方を見ておきたい。さていろいろと教示し、夫よりさて弟子どもと其家を出て、これは大勢馳走になりましたなどヽ大きな顔をしてかへりがけ、途中にある木の下にとヾまりて阿難に云には、吾いかなる事にか疾が生じて背がいかう病ふなりてどうもあるかれぬから、其方こヽへ座をしいてくれろと死そうな顔をして云、そこで阿難が膽をつぶして、いや夫は周那が供へたる菌の毒にあたらしつたと見へます。さてもにくき奴かな、とほうもない物を仏に進つて、...周那からの食事について②(拝啓平田篤胤先生44)
皆さま 当ブログでは、これまでに転生型事例に関する研究の動向について詳しく論じてきました。 『転生型事例の研究』秦霊性心理研究所 所長 はたの びゃっこ …
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。今回は、釈尊の実子とされる羅睺羅尊者について見ておきたい。又我子羅睺羅を出家させんといつて、弟子の目連を耶輸陀羅の処へ遣したる所に、耶輸の云には我夫、太子たる時、我を娶り妻となしヽより、われ夫に事へて一つの失もなく、いまだ三年に満ざるに家を出て逃れ去り、父王自らゆき迎へども其命にたがつて随はず、鹿皮の衣をきて其さま狂人(※人権問題に注意)の如く、山沢にかくれ居て勤苦すること六年、成道して国に帰れども親を顧みず、旧恩をわするヽこと路人(※人権問題に注意)より劇く、我母子をして孤を守り窮を抱かしめ、今又使を遣しわが子を求め...羅睺羅尊者について(拝啓平田篤胤先生41)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「難陀尊者」に関心を持っているようなので、前回から見ているのだが、続きの文章を見ておきたい。そこで難陀が釈迦の許へ行き鉢を置きかえるとする所に釈迦の云には、汝すでに此に来る、今宜しく鬚髪を剃除して三衣を服すべし、何んぞ還らんと云ぞと、「威神力を以て難陀を逼迫して出家せしむ、閉て静室に在り」と有、又、「仏即ち剃師に命じて剃髪せしむ、難陀肯わず、怒拳して言く、迦毘羅衛一切の人民、汝今尽く其髪を剃るべきなり」といつたともあるから、無理やくたいにおどしかすめ責つけて坊主にした。かあいそうに年もいかぬ者を押こめて座鋪...釈尊の弟子の話④(拝啓平田篤胤先生40)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「難陀尊者」に関心を持っているようなので、見ておきたい。さて此時釈迦がその親族どもを弟子に致したる神変、又無理やくたひに出家させたる者多き中に、いとも憐むべきは釈迦が迦毘羅衛国の尼拘類と云にいて城内に入り乞食おしてあるいた所が、其弟の難陀と云が有り、此は彼摩訶波闍婆提が生んだ子でござる。年もいつかう若くして高ひ処から見ると釈迦が乞食するを見下て来て云には、仏は刹帝利の王胤として有ながら自ら鉢を持ち乞食をすることやあると恥しめて、其鉢へ飲食をいれてやつたでござる。釈迦は還てもはやかれを比丘来にしてやらんと云心...釈尊の弟子の話③(拝啓平田篤胤先生39)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「提婆達多」に関心を持っているようなので、見ておきたい。其つぎお調達といふ、是がいわゆる提婆達多でござる。これがとかく釈迦のすることが気に入らぬと云て、生がい争つた男でござる。尤もさやうに始終の宜しかるまじき訳は、釈迦が彼瞿夷と云女を迎へる時に、調達も夫に心をかけていたなれども釈迦にとられたるから、始終夫が根と成て中わるかつたと見へるでござる。とふとふ争ひが募り是は釈迦の神通で焼殺されたでござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』72頁さて、この「瞿夷」という女性だが、釈尊の妻の一人だったとされる。瞿夷は、...釈尊の弟子の話②(拝啓平田篤胤先生38)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。さて此とき浄飯王は国中のすぐれたる者百五人を撰み沙門となし、又迦葉らが有状を見る所が至て形が陋げに見へて、釈迦が夫らを従へておつては尊げにみへぬとて、我親族の内からうるわしき者を撰み釈迦の弟子につけたとも有でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』72頁これはまず、釈尊にとって最初の弟子となった五比丘についての話題かと思いきや、そうではなかったようだ。釈尊の実父である浄飯王が沙門として選んだのは「105人」だったとあるのだが、典拠は良く分からない。ただ、近いのかな?と思われる文脈としては、以下の一節を見出した。仏、初...釈尊の親族の弟子の話①(拝啓平田篤胤先生37)
篤胤が理解している仏教の礼拝について(拝啓 平田篤胤先生36)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、我々仏教徒の礼拝についての見解を述べていたので、確認しておきたい。まず、そもそもは『分別功徳経』を典拠にしつつ、釈尊が地元であるカピラ国に帰った時に、父親である浄飯王が平伏していたところ、釈尊が空から降りてきたので、その足元に礼拝している格好になったことを論じた際に、仏教の礼拝へ言及したのである。この辺は、儒学的な親子観念を用いて、仏教がそうではないと批判したいのであろう。ただ、今回はその辺はどうでも良くて、むしろ、篤胤が礼拝をどう把握していたかを見ておきたい。以下の通りである。一体天竺の礼といふものは、合掌じや、偏袒右肩じや、結跏趺座じやといふ類が都て九通りある。其中にこの足お頂くの礼はいつち...篤胤が理解している仏教の礼拝について(拝啓平田篤胤先生36)
前回の記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、我々仏教徒の出家者が身に着ける「袈裟」についての見解を述べていたので、確認しておきたい。さて衣服は是も甚だ色々のわけが有けれども、一たい衲衣といふものおきるが本といふ事で釈迦の教でござる。夫は糞掃衣ともいつて、もとは人の捨た物を拾つてきるのでござる。これも四分律と云て仏法の戒めを書たるものゝ中に、牛嚼衣、鼠噛衣、火焼衣、月水衣、産婦衣、其外裡死人衣、往還衣、塚間衣のたぐひなお種々とあり、夫お洗ひ袈裟色といふに染てきるでござる。此袈裟色と云はすべて天竺の言に、物の色目の正しからず入まじつてる色を袈裟といふでござる。こりや元来出家の服と云ものは右の通り色々けがれよごれたるものお拾ひ集めするもの故、其いろ...仏教徒の衣服(袈裟)について(拝啓平田篤胤先生35)
前回の記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、インドの摩訶迦葉尊者が行っていた頭陀行の中でも、「乞食」について興味を示し、かなり詳しく書いていることが分かったので、それを見ておきたい。但しこれにも法が有て、まづ乞食するわけは一切の憍慢の心お止させようが為じやと云事で、其貰つて来たる物を四つにわけて一つは同行の僧正にあたへ、一つは貧窮人といふて物をもらつて来ぬ人にあたへ、一つはこれを諸の鬼神にそなへ、残り一つお自分の食料として、其くらふにも度々はくはんで其戒に、飲食は譬ば、人身の病に薬を服して其愈さしむれば貪著を得ざれといひ、又一日に一食、再食することを得ざれとも有でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』67頁まず、この一節だが、類似した文脈...「乞食」の法について(拝啓平田篤胤先生34)
【前回の記事】でも引いた通りなのだが、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)は、釈尊が掟(戒律)を定めた経緯を、弟子達が増えてきたのに対応するように定めたと考えているが、おそらくは、以下の一節などを受けたためであろう。故に戒の体は、もと悪の、事に逆なるに出づ。悪なければ、則ち戒なし。故に、大論に云く、「もし、仏にして好世に出でなば、則ちこの戒律なし。釈迦文のごとき、悪世にありといへども、十二年中、またこの戒なし」と。これなり。僧祇律は則ち云く、「五年以後、広く戒律を制す」と。四分律は大論に同じ。また異部の言、しかり。富永仲基『出定後語』巻下「戒第十四」、訓読は拙僧つまり、釈尊の戒律制定は、「随犯随制」などともいわれるが、弟子達の間で問題が起きてから定めたものだとしているのである。年数には、上...「五戒」の話(拝啓平田篤胤先生33)
この記事は、【前回の記事】の続きに当たる。江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、『過去現在因果経』などの典拠を踏まえてではあるが、釈尊伝を篤胤目線で講釈しているのだが、その中に弟子達との関わりがある。前回は特に実質的な釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者出家時の様子を確認したのだが、今日は更にその続きを見ておきたい。ところで、前回の記事で、迦葉尊者が釈尊のことを、「年少沙門」と呼んでいたことを採り上げたが、篤胤は両者の年齢の違いを、以下のように論じている。さて釈迦が迦葉を骨折て伏させたる事は、先にもいふ如く此者は年といへば釈迦よりは四さうばいで百二十歳、家柄もよく富栄へ其眷属も多く、修行は八十年して釈迦の出ぬまへは神通広大で中々其時には右にたつ者なく、国々の王共を始め世には大...釈尊と摩訶迦葉尊者について②(拝啓平田篤胤先生32)
江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、『過去現在因果経』などの典拠を踏まえてではあるが、釈尊伝を篤胤目線で講釈しているのだが、その中に弟子達との関わりがある。既に【「善来比丘」に関する篤胤の雑感(拝啓平田篤胤先生26)】でも採り上げたことだが、今回は特に実質的な釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者について、釈尊との関係を篤胤がどう見ていたかを確認したい。扨かくの如く大山ごとを工夫して、とうとう釈迦は一大家となつて国々をあるく所が、彼婆羅門の輩も多くしめられて弟子と成たるが多き中に、摩揭陀国の王舎城と云所に摩訶迦葉と云婆羅門が有、是は其父なる者は甚だの大富長者で天竺の内に十六大国と名におふ国が十六有て、其国々に肩を并る者はなかつたといふ事でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇...釈尊と摩訶迦葉尊者について①(拝啓平田篤胤先生31)
今回の記事だが、実は篤胤が玄奘三蔵著『大唐西域記』を扱っていることが分かったので、それを見ておきたい。まずは、篤胤による同書の解題である。さて拠と致して申すものは、大唐西域記と云ふもので此書は漢土で唐の代といつた時分に、その二代目の太宗といふ王の貞観二年といふ年、皇国の舒明天皇元年の八月に、玄奘法師と云ふ僧がありて、仏法でもいはゆる大乗と云ふ高い所が伝へたしといつて、漢土より何千里の難所をこへて、天竺の国へ至つて国中悉くあるきて捜しごとをして見たり聞たりしたる国風総体の事を具に記し来て、さて同十九年正月に本国へかへりて、取て帰つた処の仏法はもとより今の国風総体を記し来りたる書をも其王太宗へ奉つたが、夫がこの大唐西域記でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』8頁一般的に、『大唐西域記』の成立については玄...篤胤が語る『大唐西域記』(拝啓平田篤胤先生30)
これまでの数回、特に注意して見てきたように、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、釈尊の伝記について『過去現在因果経』を中心に見ていることが分かった。そこで、個人的に『過去現在因果経』も見るようにしていたのだが、篤胤の講談の内容が、過去七仏について言及していたので、確認しておきたい。なお、篤胤にかかると、過去七仏についても批判の対象になってしまうようである。さてこの仏道といふことをいふにつけては、古きよりどころをこしらへんでは、杜撰におちて、人が信ぜぬから過去の七仏と云をつくり、夫は過去の世、人寿八万歳のときに然灯仏と云仏が世に出て、次に人寿七万歳の時尸棄仏と云仏が出世し、次に人寿六万歳のときに毘舎婆仏と云仏が出世し、次に人寿四万歳のときに拘楼留孫仏と云仏が出世し、次に人...篤胤が語る「過去七仏」(拝啓平田篤胤先生29)
これまでの数回、特に注意して見てきたように、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、釈尊の伝記について『過去現在因果経』を中心に見ていることが分かった。そこで、個人的に『過去現在因果経』も見るようにしていたのだが、篤胤の講談の内容で仏教語の定義について語る際に、別の文献の名前が見えたので、確認しておきたい。その前に、篤胤は「仏・仏陀」という用語の定義を考察している。この如く一切のことをさとつたものと云義で仏とはいひ、その道を仏道とは云てござる。仏とは天竺の詞で翻訳名義集によつて見れば、仏陀こゝには云智者学者とあるから、さとつた人といふことでござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』58~59頁以前から、篤胤が参照した文献の解明を目指しているのだが、ここでは『翻訳名義集』の名...篤胤が語る「仏陀」の意味(拝啓平田篤胤先生28)
【前回の記事】で、釈尊の初期教団に於ける様子を、「山事」と評した国学者・平田篤胤(1776~1843)だったが、『出定笑語』ではそれに続いて、釈尊の悟りについて扱うようなので、見ておきたい。さて其山ごとの妄説、釈迦が悟りたるといへる趣きは、此天地いまだなかりし百千億万の前世よりの事実、及び人物の有初よりその父母兄弟妻子眷属、また貧富貴賤、寿命の長き短き、またその姓名、また造す所の善き悪き、さて今の何某は古への誰で、此処の何某は彼処の何某に生れ、或は島に生れ蟲に生れておるといふこと、また人の賢きも愚なるも、顔の麗しきも醜きも、悉くに故あることなるを始め、また人死しては其所行善悪によつて、天上、人間、地獄、畜生、餓鬼の五道にわかれ行くこと、まづその人間に生れては始胎に託らんとするとき、父母和合すなはち不浄を以...篤胤が語る釈尊の悟り(拝啓平田篤胤先生27)
既に、平田篤胤(1776~1843)の講義録『出定笑語』に見える釈尊「初転法輪」については、【釈尊による初転法輪(拝啓平田篤胤先生24)】の記事にしたところである。そこで、篤胤に於いてはおそらく引っかかったと思われる一事に、「善来比丘」があると思う。阿含部の経典などを見ていくと、「善来比丘」をめぐって、以下のように表記されることがある。仏言わく、「善来、比丘」、鬚髪自ずから落ち、法衣身に著け、便ち沙門と成り、具足戒を獲る。『別訳雑阿含経』巻4何が書いてあるかというと、釈尊が「善来、比丘(ようこそ、比丘よ)」と告げると、ヒゲや髪が自ずから抜け、法衣(袈裟)を身に着け、姿が沙門になり、しかも具足戒(比丘として必要な戒)も得たとしているのである。いわゆる「善来、比丘」は「自動沙門生成の呪文」のような見え方がする...「善来比丘」に関する篤胤の雑感(拝啓平田篤胤先生26)
知り合いからお土産を頂きました。 久延彦神社(くえひこじんじゃ)の合格祈願鉢巻きです。 久延彦神社神社は学問の神様。 奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の末社…
このタイトルは、何かの誤表記では無い。平田篤胤(1776~1843)による『出定笑語』の本文に出ていることである。無上正覚〈アノク多ラ三三八九三ホタイ〉版本『出定笑語』巻2・3丁表これが、明治期の刊本になると、以下のようになる。無上正覚〈あのくだら三三八九三ぼだい〉『平田先生講説出定笑語(外三篇)』55頁結局は同じことなのだが、いわゆる「阿耨多羅三藐三菩提」を、カナ(かな)と数字で表現したのが、「アノク多ラ三三八九三ホタイ」である。ちょっと気になったので、調べてみた。すると、江戸時代の謡曲などにも、類似した表現はあるようだが、他にも『和漢朗詠集』に、以下の1首が収録されている。あのくだら三みやく三ぼだいの仏たちわがたつそやに冥加あらせたまへ伝教大師(『和漢朗詠集』)ただし、これは、本によって表記が違うよう...あのくだら三三八九三ぼだい(拝啓平田篤胤先生25)
さて、前回の記事から、『出定笑語』(全4巻)の第2巻に入っている。そして、前回は国学者・平田篤胤(1776~1843)による釈尊成道評を紹介したわけだが、成道した釈尊は続いて、初転法輪に進む。今回はそんな話の筈だが、篤胤は意外なところで引っかかる。それは、実際の本文を見ながら紹介しよう。斯で彼石上を起て山を下り、彼車匿憍陳如が輩五人のおつたる波羅奈国に来ると、かの五人の者は悉多が食を受け食たる事を知りおるによつて、互に語り合には、「瞿曇、苦行を棄て、飲食の楽を受く。志す所、獲ず。今、既に此に来る。我等、須らく起て之を迎えざるなり。亦た礼敬を作すこと勿れ」、と云合せて各々もく然としておつたが、さすがそこへきてはさうもならず、かれこれと世話やいたと云事でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』54頁、漢字な...釈尊による初転法輪(拝啓平田篤胤先生24)
今回から、平田篤胤『出定笑語』で第2巻に入っていくが、ちょうど1~2巻にまたがって論じられているのが、釈尊の成道についてである。そこで、前回までは篤胤が設けた課題に基づいて論じたが、今回は敢えてこちら側からの見え方ということで、篤胤が釈尊の成道について、どのように評しているかをまとめてみたい。その際、例えば、釈尊の成道については、特に禅宗などで劇的な論じ方がされる印象があるが、篤胤は余り神秘的な論じ方を好まない。そうなると、劇的な釈尊成道の場面などは、篤胤は忌避するだろうから、その確認を行ってみたい。・・・いやあの、結論から言うと、全然書いてなかった。もしかして、「成道」という悟りの場面について、理解出来なかったのだろうか。例えば、以下のような一節はどうか。偖悉多は山に入て右の如く坐禅観想を為て、終に其道...篤胤による釈尊の成道評(拝啓平田篤胤先生23)
前回の記事は、「篤胤が語る役小角論」と題して、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)が修験道の行者として著名な役小角について語る様子を見たが、今回はその続きで、釈尊が修行する時に、神通を得るばかりだった苦行を止めて、別の道に進もうとした経緯を説明している。さて悉多はかく坐禅観想をして神通の修行工夫に苦行を致しつゝ、月お経年お経て殆んど身も枯木の如くに痩衰たが、老病死苦は解脱すること能はず、只修しゑたる者は神通ばかり。こゝに思ふやうは我かばかりの苦行をして已に六年に垂とするが、未だ生老病死を解脱するの道を得ず、さすれば真の道ではなかつたと見へる〈以下略〉『平田先生講説出定笑語(外三篇)』49頁、漢字などは現在通用のものに改める結局、神通力ばかりは得ることになったが、生老病死の苦悩の解脱は出来な...釈尊が苦行を止めた経緯について(拝啓平田篤胤先生22)
前回の記事は、「篤胤による神通の説明」と題して、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)が神通が日本の歴史上、どのように影響したかを説明する様子を見た。今回はその続きではあるのだが、「神通」を行使した修験道の役小角について、篤胤がどう評していたかを見てみたい。又かの役小角などの輩は前鬼後鬼とか云ものを使つたとあるから、本より狐づかひと同じ事、又阿部晴明は式神を使ひそれで不測を見せたと有ますが、この式神と云ふは死人の霊を使ふとみへる。かやうの業する輩、昔の僧どもはもとより、外にも多く有ましたが、其うち法師のしざまが憎ひでござる。これは中比の書を読でみるに、高貴の御かた御懐妊とか、いさゝか御不快とでもいふと大かたは物怪がつく。そこでいつも法師どもに仰せ付られて祈をなされ、そこで御快気有た所を見れば...篤胤が語る役小角論(拝啓平田篤胤先生21)
前回の記事は、「釈尊の神通について」と題して、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)が釈尊の神通をどのように評していたかを見た。そこで、今回はその続きではあるのだが、「神通」を得た理由を開示していたので見ておきたい。さて釈迦が神通自在なることは、諸経に委く見へたる中に瑞応本起経といふにその状が言みじかにいひとつてありますが、それは、欲する所の意の如くにして、復た思いを用ひざるに、身能く飛行し、能く一身と分かち、百と作し千と作し、億万無数に至り、復た合して一と為る。能く徹して地に入り、石壁皆な過ぎ、一方より現じ、俯して没し仰いで出づ、譬えば水波の如し。水を履み虚に行き、身、陥墜せず、空中に坐臥するは、鳥の飛翔するが如し、立て能く天に及び、手に日月を捫し、身を涌して平立し、梵自在に至て、眼能く徹...篤胤による神通の説明(拝啓平田篤胤先生20)