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やはり立派だった常勝寺
荒川百所巡礼 第103番 真言宗智山派 常勝寺
ここに来るずいぶん手前から、常勝寺の名が出てきていました。北袋神社や愛宕神社の別当寺であった地蔵院も妙楽寺も常勝寺の末寺であり、この先にある滝馬室の旧村社の氷川神社の別当寺も、常勝寺の末寺でした。広範囲の信仰を統括するような大寺院があるはずだと思っていましたが、予想に違わぬ山門が迎えてくれました。
瀧蔵山密乗院常勝寺と称する真言宗智山派の寺院で、京都の総本山智積院の直末寺です。末寺6カ寺、門徒寺12カ寺を抱える中核寺院として歴史を刻んできました。創建は7世紀と伝えられています。東京都最古の浅草寺で628年、2番目の深大寺が733年と伝えられていますので、かなりの古刹です。本尊は大日如来像です。
とにかくきれいに整えられた境内です。こちらは宝篋塔とのことですが、かなり立派です。宝篋塔は石塔が多いので、このようにお堂になっているのは珍しいと思われます。
境内は台地の上と下に分かれていて、下に山門や本堂などの堂宇、多くの石仏があり、上に墓地と薬師堂と鐘楼堂があります。この鐘楼堂は新しいですね。形が格好良いです。常勝寺は境内もさることながら、目の前の荒川河川敷に広大なポピー畑有名です。
こちらがその薬師堂です。この裏にとてもこの地域の人口に見合わない数の墓石が並ぶ墓地が広がっています。まだまだ造成されていて広がって行きそうです。川越市の灌頂院を訪問した際に、墓地に空き地が目立つのが心配などと余計なお世話を書きましたが、墓地が寺院の生命線であることは否定できません。そういう意味では常勝寺は安泰ですね。
なのはな通りをクネクネ進む
荒川百所巡礼 第104番 稲荷神社
なのはな通りに戻ると赤い鳥居の稲荷神社がありました。個人の土地にあるような神社にも見えますが、通り沿いからお参りすることができます。
その隣に庚申塔と馬頭観音の石碑が並んでいました。庚申塔に刻まれている年号が文化2年のように見えます。1805年です。この翌年に江戸三大火事のひとつ文化の大火が起こります。
なのはな通りから少し荒川方面に入ったところに、仏堂が建っていて、その周辺にお地蔵様や馬頭観音の石仏が集められていました。どのような由緒のあるお堂なのかはよくわかりませんでした。
荒川百所巡礼 第107番 阿弥陀堂
またなのはな通りに戻って暫く進むと、墓地+お堂のセットが見えました。これから先も見かけることになるでしょう。近所の子供が遊んでいたので、怖がらせないようにササッと訪れました。阿弥陀堂というからには、阿弥陀如来がご安置されているのだと思います。
川幅日本一なのか!?
荒川百所巡礼 第108番 氷川神社
こちらが先程名前の上がった滝馬室の村社であった氷川神社の入口です。荒川側が正面にあたるようなので、裏から入っている感じです。
もの凄く右寄りな社殿ですが、1月だからだと思われます。荒川方面は階段を降りた一段低地になっています。そこに湧水を湛えた池や鳥居が建っていて、神社の正面入口になっています。入口から階段を上がり、境内の正面に社殿があるという感じです。この湧水が滝となり川に注ぎ、地域の田畑を潤したとのことで、滝馬室村という地名になったのだそうです。そもそも太古の昔から湧水のある地は、人が住みつく場所のひとつとなっています。湧水の精霊を祀るために聖地化し、それを起源とする神社も珍しくありません。そう考えるとこの氷川神社は紀元前から聖地なのかもしれません。伝説によると延暦年間(782-805年)に坂上田村麻呂が東征の途中で農作物を荒らす大蛇を退治して、頭をこの氷川神社に、胴体を常勝寺に埋めたそうです。
この逸話に因んで五穀豊穣を願う例祭が、毎年1月12日に行われています。田村麻呂が大蛇の目を射抜いて退治したという伝説に因んで、的祭(まといさい)と称します。子どもが的を狙って弓矢を射て、皆で神饌物をいただくというお祭りだそうです。
荒川百所巡礼 第109番 滝馬室庚申塔
なのはな通りに戻り歩き出すとすぐに庚申塔がありました。「庚申供養塔 元禄九子年 十月十七日」と書かれていて、下に猿が一匹彫られています。三猿ではなく一猿でした。西暦1696年に建てたものがどのくらい古いかと考えると、25年で1世代として、現代の若者のひいひいひいひいひいひいひいひいひいひい爺さんの時代ということになります。
荒川百所巡礼 第110番 官兵衛稲荷神社
こちらは裏口ですが、表側に行く道は草木がボーボーで通れなさそうでした。表側には鳥居があるそうです。
官兵衛は人名で、おそらく最も有名な官兵衛は黒田官兵衛ですが、関係無いと思われます。この神社を建立したのは勘兵衛さんではなく加藤甚左衛門という方で、慶長11年(1606年)に京都の伏見稲荷大社から御祭神を勧請したそうです。
川幅日本一とのこと。荒川は江戸時代から明治時代にかけて、水害と対策を繰り返しました。利根川を東に移し、荒川を西へ移しと、新たな水路を掘削し、元々あった和田吉野川と繋げたりと、様々に対策を講じることで、日本一広い河川敷が出来上がったという訳です。
日本一の川幅は2537mだそうです。実際の川の幅はたぶん10mとか15mと思われますが、それが河川敷を含めると2537mもあって、決壊した歴史がこの川幅を求めたのだから凄い話です。対岸がどこなのだか全くわかりませんね。そして、ここからでも遠くに富士山が見えます。川沿いを歩いているのに川が見えず、富士山が見え続けるという不思議な旅路です。
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