「間引き」とは増え過ぎたものを人為的に減らすことである。
 歴史における「間引き」とは嬰児殺えいじごろし、子殺しを指す。(堕胎、中絶については、この度は取り扱わないものとする)

 日本で記録されている「間引き」の歴史は江戸時代中期から明治時代にかけてが最も多く、貢租の増税や度重なる飢饉による貧困が拍車をかけたものと考えられる。
 その後、しばしば禁止令や赤子養育仕法等が出て政府は防止に努めたが、昭和の時代まで日本各地で秘密裏に行われていたと伝えられる。
 
 太田市青蓮寺に収められた間引き絵馬えまは非常に有名である。
 絵馬には産婦が首を絞めて赤子を殺している様とともに鬼の姿が描かれており、子殺しの戒めとされた。こうした絵馬は各地に残されており、北相馬郡利根町の徳満寺にある間引き絵馬をみて柳田邦男氏は民俗学の道を志すようになったと語られている。

 
 またこうした風習からは「安達ヶ原物語」の鬼婆、笑般若わらいはんにゃなどの妖怪が産まれ、現在でも語り継がれている。

 ……

 暗く陰惨なる日本の史実……この度はこうした「間引き」に係わる魂ヒーリングの実体験を語らせていただきます。

 ……

 私は日々チャネリングに集中する時間を設けております。
 夕方以降、静かな部屋で意識を開放し、大宇宙からのメッセージの受信および神々様との語らいをさせて頂いておりました。この時、現界げんかいと霊界、もしくは神界しんかいなどの境にいる私のもとに霊人たまびと様が訪れることもございます。そうした霊人様の叫びや助けをもとめる御声が聞こえた時は、死者からの便りとして綴らせていただくこともありました。

 それは肌寒い晩秋の夕でした。

 幼い子ども……あるいは赤子の声かと思われる悲しく泣き叫ぶ声が、私の魂に響いて参りました。私はその呼び声に誘われ、意識を集中し霊の域に赴きました。

 私のチャネリングは時にソウルテレポートを伴います。幽体離脱のように魂だけで現地に赴くことで霊魂たちに寄りそい、直接手をかざしてハンドヒーリングを施させていただくためです。



◇ テレポートソウルヒーリングの記録
      《子捨ての谷》



 声に導かれるまま、私の魂が降りたったのは名も知らぬ山間の寒村でした。痩せた土地、雑草すらも生えぬ飢饉の村です。荒れた村に人は居らず、流れていたであろう川はもとより井戸までも枯れ果て、粗末なる家屋にも人の気配はなく……がらんとした廃墟に吹くのは風ばかりでした。

 それは飢饉に見舞われた吉兵へ様(▶詳細はこちらを御一読ください)の村とよく似た風景でした。

 一瞬、風の音かと想いました。
 しかしながら風に乗って聞こえてきたのはやはり、泣き叫ぶ子供の声です。
 
 その悲痛なる声に誘われ、たどりついたのは……

    村はずれの深い谷でございました。

 底がすり鉢状になった深く険しい谷……耳をすませば、その谷の底から子どもたちの泣き声が途切れ途切れに聞こえて参ります。
 ああ、この底におられるのか……と想いました。

 落ちれば二度とあがってこれぬ……ああ、これが「子捨ての谷」なのか。

 奇妙なことに私はあらかじめ、その言葉を知っていました。あるいは、ここにきたとき、すでに誰かから教えられていたのかもしれません。
 
「子捨ての谷にいるよ、助けて」 ……と。


 子供の泣き声に矢も楯もたまらず、私は声のするほうに飛び降りていました。深い谷は、まるでぽっかりと口を開けた地獄のようでした。
 砂地の谷は一度落ちたら再びにあがることのできない、さながら蟻地獄です。

 
 谷の底にいたのはあまりにも多くの子どもたちでした。

 目すら開かぬ赤子。ひもじさのあまり自らの指や腕を齧り、喰らう幼子……産まれたことも知らぬままにこの深き谷に"捨てられた"子等の霊でした。
 霊になっても、人は霊的肉体をともないます。死したときの苦痛を持ち続けるという事例はこれまでも度々ありました。
ただただ、涙が溢れて、とまりませんでした。

 あまりにも厳しい時勢のなかで貴方たちの「今生」を摘み取った「鬼」はいたけれど、「鬼」とならざるを得なかった親たちもまた哀しき事情を抱えていたはず。貧しい時代が「鬼」を産んでしまったけれど、私はせめて貴方達の魂を暖かなところに連れていってあげたい、と一心に語りかけました。

(この子たちの魂はあまりにも哀しい。哀しみに捕らわれてしまっては、死後どれだけ経っても、この谷からでることはできない)

   ……と想ったからです。

 死したる子の身体からは"蛆"が湧き、骨となっているものもおりましたが、私はその子達を背負い、谷をあがりはじめました。すり鉢になった谷は険しく、子どもであれば爪も剥がれ、登ることなど到底できるはずもありません。
 私は子等を背負っては谷をあがり、また降りて、また背負いと……幾度繰りかえしたことでしょうか。
 肩にぶらさがる子等をかばいながら、懸命に谷底を往復致しました。


 どれくらい続けたのか、やっと最後の子どもを谷の底から助けだしたところで、泣き声がやみました。かわりに聴こえてきたのは舌足らずの可愛らしい声です。

「あねさま、ありがとう」

   ……私はやっと安堵して、現界げんかいに戻って参りました。


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                                          画:旃檀
 
 私はその時、着物を纏っていたのですが、意識を取りもどしてみれば着物の袖わきが破れ、裾もびりびりに破れておりました。肌にはあちらこちらに擦り傷
 これは私のチャネリングおよび魂ヒーリングが、テレポートをともなっていると申しあげる理由のひとつです。


 せめて彼らの魂が安らかでありますように……と、暫し黙祷を捧げておりましたところ、またも子どもの御声が聞こえはじめました。私はそれを紙に綴りました。



「死してなおもこの深き谷より出られぬ我らでありました

 名も貰わぬうちに父に殺められ 母に捨てられた我らにて
    暖みも知らづ 恋慕の思いすらなく
         母を恋しがる子もおりません
 
 さすらば御顔も知らぬ姉様が谷の一等いっとう底の
     我らのところまできてくださいました……

 骨を抱き寄せ 腐り果てたる我らをなで
  謡をうとふてくださいました

    謡なぞ知らぬ我らなれど
   懐かしき思い 溢れて よふやくに
        我らが人であったことを知りました」



 この時いただいた御便りの全文は翌日、掲載させていただきます。
 私はこの悲しき子等の魂を抱え、ある場所に赴くことになります……
引き続き、お読みいただければ幸いにてございます。


 旃檀

 

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