ヒマラヤの旅の思い出。
ゆっくりなだらかな岩道を歩き、右に左に、沢や滝や川をながめながら、清冽な流れに心を奪われます。
やがて段々と登りに入り、ふと気が付くと、一歩一歩がキツく、 上を見れば途方もない断崖絶壁のような山々。
あまりにも果てしなく、20メートル先を見渡すことも辛い気分になるので、 自分の足元しか見ないようになります。
のろのろと途中の岩場で休みつつ、何でこんなことやっているんだろう?と思いながら、さらに牛のようにゆっくり上がっていくと、 初めて分け入るような道を辿り、いつしかジャングルの中にいることに気付く。
鬱蒼と繁る木々や草花の香りに包まれ、そして流れる汗が滴り落ちる顔を拭きながら、ふと、文明がもたらしたような、あるいはどこかで嗅いだような懐かしい香りに、過去を振り返る。
どこで嗅いだっけ、このような香り。。。野生のユリだろうか? 一瞬あたかも女性が放つような幻惑を感じ、この香水のような?香りのエキスはどこから匂ってくるのか?、、、 (もしかして、とうとう高山病で頭がやられたと、一瞬錯覚を覚えるが)、 それは、どうも現実らしい。
初めてお香なるものを焚いて嗅ぐ時のような、あるいは女性を意識した時のような?かすかな感覚を思い出すかのようです。
ヒマラヤのジャングルの中で、 何でこの香りが、、、 私は、女性といっしょに山登りしているわけはないのに?? そこに、野花の群れが、 誰を魅了するためでもなく、 人知れず希少な空気のなかで澄み、孤高な精華を放っていました。
こういう誰も見ていないような光景や、たえず移り変わる雲間から、一瞬光輝く山脈の頂上付近を垣間見る時、驚きや感激とともに、 ふとひとり旅の寂しさを覚える。 誰かと共有したい衝動にかられる。 誰かと、親友、親子、子供、彼女、妻などと。 そして、また岩場のような登りを上がっていきます。
いつの間にかジャングルから松の森林へ、さらにだんだん薄くなって地が禿げて荒涼とした岩石などが見えるようになってきます。
いつまで経っても、6000-8000メートル級の山々は、あそこに威容を誇りつつ、びくともしません。
でも、かすかに段々と少しずつ近くなっていきます。
ふと振り返り、歩んできた下の方を見ると、途中でやめて引き返せないところまで来てしまっていることに驚く。
もう少し、もう少しだと自分に言いきかせて、一歩、また一歩と、ゆっくり登ります。
途中、巨大な荷物を背負わされた牛達の、あの驚くほどスローで慎重な歩みを見て、こういう風にゆっくり足場を踏みしめながら登れば、いつかは目的地に着くと勇気をもらいます。
シェルパ達は、岩石からセメント、ガラスから家具、食料など、人間の生活品のありとあらゆるものを背中に背負い、視点を登りの直線一筋に集中しながら、まるで超人のように一歩一歩と登っていきます。
ようやく視界が見渡せる地点に達した。 一番キツかったエベレスト街道は森林が少ないため酸素も薄く、標高3000メートルでも多くの人は軽いめまいや頭痛を感じるそうですが、他のプロや登山家達は、5000メートル級から8000メートル級の世界一の頂上を目指して登っていきます。
自分は、今回はここまでが限界で、もう二度と登るものかと何回も思ったが、一度この到達点から下山してみると、装備の工夫やさじ加減もわかり、次回は、あそこより100メートルでも300メートルでも上を目指したいと思うようになりました。
自己満足、達成感の追求の極み? それだけともいえないものがあると思う。 目指すものは、早さでも距離数でも、効率でも生産性でもない。
あのような過酷な環境で暮らす人々から学べることや、ただあの眺め、高さと視界(パースペクティブ)、清冽さ、美しさであって、それは他人以上でも以下でもない、自分だけの時間、孤独な歩みからでしか感じられない特別な感覚と想い。
文明は滅びを繰り返す。ここでも戦や民族同士による破壊で、様々な文化が滅びたり折衷融合したりしてきたことでしょう。 ここでは廃墟ですら、人間の儚さを喚起させるほど、逆に気高く見えます。
そして、有限だけど、この世に、まだこういうところがあるという、かすかな希望を感じます。
それを誰かと共有できたら、どれほど素敵だろうと思う。 たとえば、今成長の真っ盛りの息子と。
山登りは、人生の伴侶や親しい友達といっしょに、やはり誰かとともに登るのがいいなぁ、と心底思う。
でも、時にはひとりジャングルのような中をさ迷って、見たことも触れたこともない木々や、山頂の澄みきった空気に触れ、上りも下りも岩場を一歩一歩かみしめながら、森そのものに心奪われ彷徨してみるのも、野生を思い出させるようで、 なんと心地よいことかと感じました。
ヒマラヤの東の方にブータンという国があり、そこでは人間の幸福度指数というものを提唱しているそうですが、近代的文化▪文明は、そこをも容赦なく侵食しつつあります。
一体グローバルに広がるこのような文化▪文明は、人類の近未来に何をもたらそうとしているのだろうか?300-500年後、世界の大都市が、ヒマラヤの中世や近世の街や文化の廃墟よりさらに劣化した景観を残さないのでしょうか?
有限なる地球、その近未来の行く末がとても気になるところです。
(写真は標高6000~8000メ一トル級のアンナプルナ山系 Annapurna range, Nepal、朝5時起床で撮影)
今回もお読みいただきありがとうございます。
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ゆっくりなだらかな岩道を歩き、右に左に、沢や滝や川をながめながら、清冽な流れに心を奪われます。
やがて段々と登りに入り、ふと気が付くと、一歩一歩がキツく、 上を見れば途方もない断崖絶壁のような山々。
あまりにも果てしなく、20メートル先を見渡すことも辛い気分になるので、 自分の足元しか見ないようになります。
のろのろと途中の岩場で休みつつ、何でこんなことやっているんだろう?と思いながら、さらに牛のようにゆっくり上がっていくと、 初めて分け入るような道を辿り、いつしかジャングルの中にいることに気付く。
鬱蒼と繁る木々や草花の香りに包まれ、そして流れる汗が滴り落ちる顔を拭きながら、ふと、文明がもたらしたような、あるいはどこかで嗅いだような懐かしい香りに、過去を振り返る。
どこで嗅いだっけ、このような香り。。。野生のユリだろうか? 一瞬あたかも女性が放つような幻惑を感じ、この香水のような?香りのエキスはどこから匂ってくるのか?、、、 (もしかして、とうとう高山病で頭がやられたと、一瞬錯覚を覚えるが)、 それは、どうも現実らしい。
初めてお香なるものを焚いて嗅ぐ時のような、あるいは女性を意識した時のような?かすかな感覚を思い出すかのようです。
ヒマラヤのジャングルの中で、 何でこの香りが、、、 私は、女性といっしょに山登りしているわけはないのに?? そこに、野花の群れが、 誰を魅了するためでもなく、 人知れず希少な空気のなかで澄み、孤高な精華を放っていました。
こういう誰も見ていないような光景や、たえず移り変わる雲間から、一瞬光輝く山脈の頂上付近を垣間見る時、驚きや感激とともに、 ふとひとり旅の寂しさを覚える。 誰かと共有したい衝動にかられる。 誰かと、親友、親子、子供、彼女、妻などと。 そして、また岩場のような登りを上がっていきます。
いつの間にかジャングルから松の森林へ、さらにだんだん薄くなって地が禿げて荒涼とした岩石などが見えるようになってきます。
いつまで経っても、6000-8000メートル級の山々は、あそこに威容を誇りつつ、びくともしません。
でも、かすかに段々と少しずつ近くなっていきます。
ふと振り返り、歩んできた下の方を見ると、途中でやめて引き返せないところまで来てしまっていることに驚く。
もう少し、もう少しだと自分に言いきかせて、一歩、また一歩と、ゆっくり登ります。
途中、巨大な荷物を背負わされた牛達の、あの驚くほどスローで慎重な歩みを見て、こういう風にゆっくり足場を踏みしめながら登れば、いつかは目的地に着くと勇気をもらいます。
シェルパ達は、岩石からセメント、ガラスから家具、食料など、人間の生活品のありとあらゆるものを背中に背負い、視点を登りの直線一筋に集中しながら、まるで超人のように一歩一歩と登っていきます。
ようやく視界が見渡せる地点に達した。 一番キツかったエベレスト街道は森林が少ないため酸素も薄く、標高3000メートルでも多くの人は軽いめまいや頭痛を感じるそうですが、他のプロや登山家達は、5000メートル級から8000メートル級の世界一の頂上を目指して登っていきます。
自分は、今回はここまでが限界で、もう二度と登るものかと何回も思ったが、一度この到達点から下山してみると、装備の工夫やさじ加減もわかり、次回は、あそこより100メートルでも300メートルでも上を目指したいと思うようになりました。
自己満足、達成感の追求の極み? それだけともいえないものがあると思う。 目指すものは、早さでも距離数でも、効率でも生産性でもない。
あのような過酷な環境で暮らす人々から学べることや、ただあの眺め、高さと視界(パースペクティブ)、清冽さ、美しさであって、それは他人以上でも以下でもない、自分だけの時間、孤独な歩みからでしか感じられない特別な感覚と想い。
文明は滅びを繰り返す。ここでも戦や民族同士による破壊で、様々な文化が滅びたり折衷融合したりしてきたことでしょう。 ここでは廃墟ですら、人間の儚さを喚起させるほど、逆に気高く見えます。
そして、有限だけど、この世に、まだこういうところがあるという、かすかな希望を感じます。
それを誰かと共有できたら、どれほど素敵だろうと思う。 たとえば、今成長の真っ盛りの息子と。
山登りは、人生の伴侶や親しい友達といっしょに、やはり誰かとともに登るのがいいなぁ、と心底思う。
でも、時にはひとりジャングルのような中をさ迷って、見たことも触れたこともない木々や、山頂の澄みきった空気に触れ、上りも下りも岩場を一歩一歩かみしめながら、森そのものに心奪われ彷徨してみるのも、野生を思い出させるようで、 なんと心地よいことかと感じました。
ヒマラヤの東の方にブータンという国があり、そこでは人間の幸福度指数というものを提唱しているそうですが、近代的文化▪文明は、そこをも容赦なく侵食しつつあります。
一体グローバルに広がるこのような文化▪文明は、人類の近未来に何をもたらそうとしているのだろうか?300-500年後、世界の大都市が、ヒマラヤの中世や近世の街や文化の廃墟よりさらに劣化した景観を残さないのでしょうか?
有限なる地球、その近未来の行く末がとても気になるところです。
(写真は標高6000~8000メ一トル級のアンナプルナ山系 Annapurna range, Nepal、朝5時起床で撮影)
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