先祖調査では「見たくない現実」に向き合うことも必要【母方編-6】
除籍謄本から家族史をひも解いていくと、「見たくないもの」が見えてしまいます。祖先の離婚歴や、早死にした子供の多さは、祖先調査をしている人なら誰しもが直面する「現実」といえます。
今回はその現実にスポットライトを当てつつ、母方祖父の系統をたどってみました。先祖調査の最初期に、「存在するのになぜか取れない」と悲嘆にくれた、天草市鬼池の戸籍証明書についての続報です。
戸籍証明書の広域交付が始まってから2か月半がたち、すべての系統で高祖父母の名前・生没年を特定できました。系統によってばらつきはあるものの、五世祖もほぼ埋まっています。
結論から書くと、鬼池の戸籍証明書は無事に取れました。これでようやく母方実家(T家)のナゾに迫ることができます。
祖父母は結婚を機に、天草から福岡県に移住しました。その関係で母方おじ・おばは全員福岡県民です。いとこ付き合いも多く、T家との関係はけしてゼロではありません。
ただ残念なことに、天草市鬼池とのつながりが皆無なのです。祖父はあまり父親の話をせず、曾祖母ヨリヨも父親・夫の話をすることは一切なく、T家について知らないことが多いまま2人は他界しました。おかげでナゾに包まれたまんまです。
ただ、祖父が生前語っていた内容から、以下の情報は把握しています。
戸籍証明書からどこまで情報量を広げられるでしょうか。無事に曾祖母の出生~死亡までの戸籍証明書が手に入ったところで、家系図を加筆修正したものが下の画像です。
曾祖母ヨリヨに関する全戸籍を請求した結果、大量の除籍謄本が手に入りました。
常人ではありえないほど「戸籍に出たり入ったり」を繰り返したようで、担当職員もびっくり顔でした。祖父がたまに「酒ぐせの悪い親父だった」と口にしていた、曾祖父の実家・山下家の祖先もこれで一目瞭然です。
僕は当初、こう読んでいました。高祖母ヨツは他家からの嫁で、高祖父がT家の人間だったと。しかし事実は、僕が予想していたはるか斜め上を突き抜けていました。
ヨツがT家の出身でした。
まさかのまさか!ヨツにも離婚歴があったのです。しかもヨリヨさん、ほかにも兄弟がいたんじゃないですか。なんで教えてくれなかったの!
ここで知られざる祖父の親戚「長野家」が出現しました。
ヨツの元夫すなわち高祖父は、名を長野左與次といい、二人の間には5人の子供がいました。結婚前に出産したことで、5人とも最初のうちはT家の戸籍に入っていたものの、のちに左與次が認知したことで、全員長野家の戸籍に入りました。
このことを祖母に話すと、意外な話を聞かせてくれました。一応親戚ということで、祖父は長野家を気にかけていたらしく、その名をたびたび口にしていたそうです。現在は御領にある長野内科小児科医院を経営しているとのこと。
長野家の除籍謄本を入手したことで、ヨリヨが5人兄弟であり、その父親が長野左與次ということも判明しました。
左與次とヨツが離婚した際に、ヨリヨとその姉は母方に引き取られT姓に復帰しました。その後、長男治太郎が長野家を相続することになり、やがて「医者の家系」になったのかもしれません。
続いて山下家を見ていきます。
曾祖父・茂は酒で肝臓を悪くしたのか、1935年に27歳という若さで死亡しました。こちらの家系は子宝に恵まれ、今も鬼池に数世帯が居住しているようです。
ただし、男系でずっと続いているわけではなく、高祖父・金松は橋本家からの婿養子です。高祖母・タカが山下家の血筋をひいています。さらに上を辿っていくと、タカの母親・ヌイ(五世祖母)がT家出身であることが分かりました。ちなみに、ヌイの夫(五世祖父)は山下浦吉という名でした。
一方のT家はどうでしょう。
ヨツの父親(五世祖父)を藤次、母親(五世祖母)をユリといいました。ユリの出身を調べてみると、なんと山下家でした。古くから集落内での婚姻が行われてきたのでしょう。
もし読み通りであれば、T藤次とヌイ、山下浦吉とユリは兄妹です。藤次・浦吉を戸主とする除籍謄本が入手できれば、これを裏付けできるのですが、役所で「探してもない」と言われてしまいました。
それにしても、曾祖母ヨリヨはどういった経緯で結婚し、そして離婚したのでしょうか。山下家の除籍謄本から、当時の背景が少しづつ見えてきました。
ヨリヨも母ヨツと同様、俗にいう「できちゃった婚」でした。
それだけでなく、祖父の出生にも問題がありました。昭和5年1月に誕生するも、未熟児だったことから出生届は出されず、無戸籍のまま留め置かれました。状態が安定したのを見計らい、3月12日に出生届が出されたことで、3月4日が祖父の誕生日になったのです。
祖父の出生届を提出した翌日、今度はヨリヨと山下茂の婚姻届が出されました。曾祖父茂はたいへん大酒飲みで、祖父曰く、たびたび家族に暴力をふるっていたそうです。あまりに酷かったのか、その年の12月に離婚してしまいました。
ただ、ご近所同士の結婚ということもあって、離婚後も最低限の付き合いはあったようです。祖父曰く「オヤジの使いで一升瓶を抱え、酒屋に行った」とのこと。ただ、茂は祖父が5歳のころに他界しているので、祖父の記憶違いの可能性があります。
その後、ヨリヨは祖父をヨツに預けて再婚し、島原半島の加津佐に移り住みます。ここで子供を数人もうけたのち、昭和30年代に離婚して天草に戻りました。加津佐で生まれた子供たちはヨリヨについていき、集団就職で大阪に移住するまでの間、祖父が面倒を見ました。
ヨツ・ヨリヨ母子の離婚歴を見ていると、知りたくないことが色々と見えてしまいました。医療体制・社会扶助システムが脆弱だった時代のことですし、こういった事例はよくあることだと思います。思いがけないことに遭遇するのは常と覚悟して、それと向き合うことも必要ではないでしょうか。
祖父は昭和15年、高祖母ヨツ(ヨリヨの母)の養子になりました。「親なし子」として辛酸をなめた少年時代を過ごし、戦後、船大工の丁稚奉公に出され、祖父も島原にわたりました。
やがてヨツは視力を失い、盲人として晩年を過ごしました。娘(ヨリヨの姉)の介護を受けていたようです。ヨツの死亡記載に書かれた住所を見るかぎり、晩年は娘夫婦に引き取られ、同居していたとみるのが自然だと思いました。
ヨツの墓は鬼池の高台にありましたが、ヨリヨの姉の息子によって改葬されたと聞いています。まだ一度も墓参したことがないので、近いうちに行ってみようと計画中です。
2度目の離婚後、ヨリヨは鬼池に戻りました。子供が全員自立すると、近所の子供たちに手芸や折り紙を教えながら、セカンドライフを過ごしたようです。生活費は祖父が仕送りしました。母曰く、ときおり福岡にも顔を出したとのこと。
1986年のある日、ヨリヨが倒れました。先ほど紹介した御領の長野病院に運ばれ、それからほどなくして、祖父が引き取ることになりました。こうして福岡県に移ったヨリヨは、祖父母家の近隣にある老人ホームに入り、晩年を過ごすことになります。
90歳を過ぎるともっぱら車いす生活でした。仕事で手が離せない祖父に代わり、祖母が様子を見にいくのに、付いていった記憶があります。最晩年の穏やかなイメージしかないだけに、「生い立ちの凄まじさ」にはただ驚くばかりでした。人間というのは、どう変わるか分からないものです。
94歳を迎えたころ、容体急変のため入院生活に入りました。何かにうなされたかのように「狐憑きが云々」と口にしたそうです。それを聞いた祖父は何かを思い出したのか、鬼池に残した私物を取りに行ったという話も残っています。
1999年秋、ヨリヨは94歳で波乱に満ちた生涯を終えました。本籍地は最後まで変わることなく、鬼池のままでした。
ここまで、戸籍証明書から母方実家の歴史をひもといてきました。
祖父・曾祖母があまり言及してこなかっただけに、知らない情報だらけでした。ただ、鍛冶師としてのT家については、いまだナゾが多く残っています。
それと同時に、離婚歴や早世した子供の多さなど、あまり見たくない情報にも多数ぶつかりました。これらの出来事から目を背けることなく、真正面から向き合うことに、先祖調査の意義があると思っています。
これにてT家の戸籍調査もひと段落しました。鬼池でのフィールドワークを繰り返しながら、先祖についてより詳しく掘り下げていく予定です。
今回はその現実にスポットライトを当てつつ、母方祖父の系統をたどってみました。先祖調査の最初期に、「存在するのになぜか取れない」と悲嘆にくれた、天草市鬼池の戸籍証明書についての続報です。
除籍謄本が「知らない過去」を明らかにする
戸籍証明書の広域交付が始まってから2か月半がたち、すべての系統で高祖父母の名前・生没年を特定できました。系統によってばらつきはあるものの、五世祖もほぼ埋まっています。
結論から書くと、鬼池の戸籍証明書は無事に取れました。これでようやく母方実家(T家)のナゾに迫ることができます。
祖父母は結婚を機に、天草から福岡県に移住しました。その関係で母方おじ・おばは全員福岡県民です。いとこ付き合いも多く、T家との関係はけしてゼロではありません。
ただ残念なことに、天草市鬼池とのつながりが皆無なのです。祖父はあまり父親の話をせず、曾祖母ヨリヨも父親・夫の話をすることは一切なく、T家について知らないことが多いまま2人は他界しました。おかげでナゾに包まれたまんまです。
ただ、祖父が生前語っていた内容から、以下の情報は把握しています。
- T家は(熊本藩主)細川家に刀を納めていた鍛冶師の家系
- 祖父が幼少期住んでいた家には日本刀が保管されていた
- 祖父・ヨリヨともに親戚づきあいはほぼなかった
- ヨリヨには離婚歴がある
戸籍証明書からどこまで情報量を広げられるでしょうか。無事に曾祖母の出生~死亡までの戸籍証明書が手に入ったところで、家系図を加筆修正したものが下の画像です。
曾祖母ヨリヨに関する全戸籍を請求した結果、大量の除籍謄本が手に入りました。
常人ではありえないほど「戸籍に出たり入ったり」を繰り返したようで、担当職員もびっくり顔でした。祖父がたまに「酒ぐせの悪い親父だった」と口にしていた、曾祖父の実家・山下家の祖先もこれで一目瞭然です。
長野家をどう読み解くか
僕は当初、こう読んでいました。高祖母ヨツは他家からの嫁で、高祖父がT家の人間だったと。しかし事実は、僕が予想していたはるか斜め上を突き抜けていました。
ヨツがT家の出身でした。
まさかのまさか!ヨツにも離婚歴があったのです。しかもヨリヨさん、ほかにも兄弟がいたんじゃないですか。なんで教えてくれなかったの!
ここで知られざる祖父の親戚「長野家」が出現しました。
ヨツの元夫すなわち高祖父は、名を長野左與次といい、二人の間には5人の子供がいました。結婚前に出産したことで、5人とも最初のうちはT家の戸籍に入っていたものの、のちに左與次が認知したことで、全員長野家の戸籍に入りました。
このことを祖母に話すと、意外な話を聞かせてくれました。一応親戚ということで、祖父は長野家を気にかけていたらしく、その名をたびたび口にしていたそうです。現在は御領にある長野内科小児科医院を経営しているとのこと。
長野家の除籍謄本を入手したことで、ヨリヨが5人兄弟であり、その父親が長野左與次ということも判明しました。
左與次とヨツが離婚した際に、ヨリヨとその姉は母方に引き取られT姓に復帰しました。その後、長男治太郎が長野家を相続することになり、やがて「医者の家系」になったのかもしれません。
どっちを辿っても「同じ先祖」に行きつく可能性
続いて山下家を見ていきます。
曾祖父・茂は酒で肝臓を悪くしたのか、1935年に27歳という若さで死亡しました。こちらの家系は子宝に恵まれ、今も鬼池に数世帯が居住しているようです。
ただし、男系でずっと続いているわけではなく、高祖父・金松は橋本家からの婿養子です。高祖母・タカが山下家の血筋をひいています。さらに上を辿っていくと、タカの母親・ヌイ(五世祖母)がT家出身であることが分かりました。ちなみに、ヌイの夫(五世祖父)は山下浦吉という名でした。
一方のT家はどうでしょう。
ヨツの父親(五世祖父)を藤次、母親(五世祖母)をユリといいました。ユリの出身を調べてみると、なんと山下家でした。古くから集落内での婚姻が行われてきたのでしょう。
もし読み通りであれば、T藤次とヌイ、山下浦吉とユリは兄妹です。藤次・浦吉を戸主とする除籍謄本が入手できれば、これを裏付けできるのですが、役所で「探してもない」と言われてしまいました。
曾祖母ヨリヨと祖父の複雑な関係
それにしても、曾祖母ヨリヨはどういった経緯で結婚し、そして離婚したのでしょうか。山下家の除籍謄本から、当時の背景が少しづつ見えてきました。
ヨリヨも母ヨツと同様、俗にいう「できちゃった婚」でした。
それだけでなく、祖父の出生にも問題がありました。昭和5年1月に誕生するも、未熟児だったことから出生届は出されず、無戸籍のまま留め置かれました。状態が安定したのを見計らい、3月12日に出生届が出されたことで、3月4日が祖父の誕生日になったのです。
祖父の出生届を提出した翌日、今度はヨリヨと山下茂の婚姻届が出されました。曾祖父茂はたいへん大酒飲みで、祖父曰く、たびたび家族に暴力をふるっていたそうです。あまりに酷かったのか、その年の12月に離婚してしまいました。
ただ、ご近所同士の結婚ということもあって、離婚後も最低限の付き合いはあったようです。祖父曰く「オヤジの使いで一升瓶を抱え、酒屋に行った」とのこと。ただ、茂は祖父が5歳のころに他界しているので、祖父の記憶違いの可能性があります。
その後、ヨリヨは祖父をヨツに預けて再婚し、島原半島の加津佐に移り住みます。ここで子供を数人もうけたのち、昭和30年代に離婚して天草に戻りました。加津佐で生まれた子供たちはヨリヨについていき、集団就職で大阪に移住するまでの間、祖父が面倒を見ました。
ヨツ・ヨリヨ母子の離婚歴を見ていると、知りたくないことが色々と見えてしまいました。医療体制・社会扶助システムが脆弱だった時代のことですし、こういった事例はよくあることだと思います。思いがけないことに遭遇するのは常と覚悟して、それと向き合うことも必要ではないでしょうか。
高祖母ヨツの晩年
祖父は昭和15年、高祖母ヨツ(ヨリヨの母)の養子になりました。「親なし子」として辛酸をなめた少年時代を過ごし、戦後、船大工の丁稚奉公に出され、祖父も島原にわたりました。
やがてヨツは視力を失い、盲人として晩年を過ごしました。娘(ヨリヨの姉)の介護を受けていたようです。ヨツの死亡記載に書かれた住所を見るかぎり、晩年は娘夫婦に引き取られ、同居していたとみるのが自然だと思いました。
ヨツの墓は鬼池の高台にありましたが、ヨリヨの姉の息子によって改葬されたと聞いています。まだ一度も墓参したことがないので、近いうちに行ってみようと計画中です。
曾祖母ヨリヨの晩年
2度目の離婚後、ヨリヨは鬼池に戻りました。子供が全員自立すると、近所の子供たちに手芸や折り紙を教えながら、セカンドライフを過ごしたようです。生活費は祖父が仕送りしました。母曰く、ときおり福岡にも顔を出したとのこと。
1986年のある日、ヨリヨが倒れました。先ほど紹介した御領の長野病院に運ばれ、それからほどなくして、祖父が引き取ることになりました。こうして福岡県に移ったヨリヨは、祖父母家の近隣にある老人ホームに入り、晩年を過ごすことになります。
90歳を過ぎるともっぱら車いす生活でした。仕事で手が離せない祖父に代わり、祖母が様子を見にいくのに、付いていった記憶があります。最晩年の穏やかなイメージしかないだけに、「生い立ちの凄まじさ」にはただ驚くばかりでした。人間というのは、どう変わるか分からないものです。
94歳を迎えたころ、容体急変のため入院生活に入りました。何かにうなされたかのように「狐憑きが云々」と口にしたそうです。それを聞いた祖父は何かを思い出したのか、鬼池に残した私物を取りに行ったという話も残っています。
1999年秋、ヨリヨは94歳で波乱に満ちた生涯を終えました。本籍地は最後まで変わることなく、鬼池のままでした。
ここまで、戸籍証明書から母方実家の歴史をひもといてきました。
祖父・曾祖母があまり言及してこなかっただけに、知らない情報だらけでした。ただ、鍛冶師としてのT家については、いまだナゾが多く残っています。
それと同時に、離婚歴や早世した子供の多さなど、あまり見たくない情報にも多数ぶつかりました。これらの出来事から目を背けることなく、真正面から向き合うことに、先祖調査の意義があると思っています。
これにてT家の戸籍調査もひと段落しました。鬼池でのフィールドワークを繰り返しながら、先祖についてより詳しく掘り下げていく予定です。
- 関連記事
-
- 墓地調査で「戸籍の穴」が埋まることもある【父方編-3】
- 先祖調査では「見たくない現実」に向き合うことも必要【母方編-6】
- 戸籍取得はあくまでも先祖調査の序章にすぎない【父方編-2】