第13回「対中ODAが改革開放を支えた」 松浦晃一郎・元ユネスコ事務局長
日本が中国経済の改革開放を途上国援助(ODA)で支え、共存共栄を目指した1980年代の日中関係は、89年の天安門事件で大きく揺れた。冷戦終結と重なる激動の中、外務省の担当局長として対中ODAの柱である円借款の凍結解除に深く関わったのが、松浦晃一郎・元ユネスコ事務局長(84)だ。国交正常化50年のいま停滞する日中関係への教訓も含めて聞いた。
連載「日中国交正常化50年 外交記録は語る」(全13回)
日中国交正常化から9月29日で50周年を迎える。この間、さまざまな政治家や官僚らの往来があり、日中関係には紆余曲折があった。1970年代末から90年代初めにかけてを外交記録から読み解く(敬称略)。
――70年代後半、高度経済成長を遂げた日本は海外で「援助大国」として存在感を示し始めます。松浦さんは外務省で課長だったその頃からODAを長く担当しました。79年から始まった対中ODAにはどう関わったのですか。
75年から経済協力局の開発協力課長、77年から在米大使館の経済担当参事官として日本のODA拡大に努め、79年の大平正芳首相の訪中準備にも関わりました。先進国からなるOECD(経済協力開発機構)でODAの基準を設けていますが、中国を供与の対象にすることに欧米が慎重で、最後まで反対していた米国の説得に私があたりました。大平訪中で第1次円借款(政府の低利融資)に踏み切り、無償資金協力では北京に中日友好病院ができました。
70年代末に(最高実力者の…