第4回青空市場は血だまりの臭いだった 明石康が苦悩した旧ユーゴPKO

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聞き手 編集委員・坂尻信義=おわり
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 《カンボジアでの国連平和維持活動(PKO)からニューヨークに戻って約3カ月後の1994年元日、旧ユーゴスラビア問題担当の国連事務総長特別代表として、クロアチアへ向かった》

 ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦は、セルビア、クロアチア、ムスリムの3民族の戦闘が続いていました。パリ和平協定が結ばれたカンボジアと違い、和平の枠組みはなく泥沼化していました。

 事務総長特別代表を引き受けたことに対し、まわりからはやめておけ、うまくいかないと言われました。でも、成功することだけに従事し、リスクを引き受けないのであれば、国際公務員という制度は成立しません。

 元国連事務次長の明石康さん(92)が半生を振り返る連載「紛争と平和の間で」の全4回の最終回です。

 カンボジアでのPKOの後、当時の米国務次官補は連邦議会公聴会で、明石がやったことはノーベル平和賞に値すると言ってくれました。その私が旧ユーゴ問題で米国と鋭く対立し、オルブライト国連大使から名指しで批判されることになります。

 《93年10月、ソマリアの内戦に介入していた米国の兵士が殺害され、遺体を引きずり回されたことに米国の世論が強く反応した。以後、クリントン政権は地上軍の海外派遣を渋るようになる》

 国連保護軍約2万7千人のうち、フランスは6千人、英国が4千人。米国は、地上戦は嫌だと1人も派遣しませんでした。北大西洋条約機構(NATO)の空軍力を使えば良いというのです。

 しかし、空爆は誤爆を招き…

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