ポケベルが鳴った。
日は落ち、西の空にあかね色が残るころ。群馬県東端の町で取材中だった。
一緒にいた同僚が電話ボックスから出てくると、言った。「飛行機が落ちたらしい」
車に戻り、カーラジオをつけ、西へと走る。「レーダーから機影が消えた」「ジャンボ機はほぼ満席」「捜索機が炎を確認」……。
運転席の同僚がアクセルを踏み込んだ。ニュースの情報は、更新されるたびに厳しさを増していった。
墜落地点の情報は錯綜(さくそう)した。群馬、長野、埼玉の3県の県境が複雑に入り組むエリアの、どこなのか。
上野村をめざした。黒い車の列が赤色灯を回しながら、猛スピードで追い抜いていく。
群馬県を横断し、会社が確保した上野村の民宿に着くと、周辺各県や東京本社から記者らが集まっていた。つけっぱなしのテレビからは、乗客の名簿を読み上げるアナウンサーの声が流れていた。
連載「御巣鷹のバトン~サイドA」(上)
1985年8月12日夕、日航ジャンボ機は群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落し、520人もの命が失われました。当時、記者2年目だった私(62)は山中をかき分け、たどり着いた尾根の光景に言葉を失います。
気付けば、13日未明となっていた。
墜落したのは長野側ではないか――。そんな情報が増えた。私は先輩記者たちと、群馬・長野両県のどちらにも向かえるよう県境のぶどう峠で夜明けを待つことになった。
峠で周囲に目をこらすが、炎は確認できない。各社の記者の車やTV中継車、警察車両などが長野側を向いてぎっしり並んだ。
周囲が徐々に明るくなる。峠の南の空をヘリコプターや飛行機が飛び始めた。
上空のヘリから無線が届いた。「現場はどう見ても群馬だ」
悲劇繰り返さぬ未来のため 風化するほど重み増す「御巣鷹のバトン」
いまの御巣鷹を歩いた記者(26)による「サイドB」はこちらから
峠の車は一斉にUターンし、群馬側へと下った。林道の終点に車を止め、細い沢に沿って歩き始めたのは午前6時ごろ。
しばらくは、木々の切り出しに使われたらしいトロッコの線路跡があった。だが、歩き続けるうちに途絶えた。
沢沿いに登り、砂防ダムの脇のやぶをかきわける。雑木の枝をつかんで、はい上がる。
「必ず現場へたどりつくんだ」
心の中で何回唱えただろう。途中で先輩たちとはぐれたが、自衛隊員や上野村消防団のはっぴを着た人たちの背中を追った。
やがて、ヘリのエンジン音が大きくなった。現場は近い。緑輝く木々の先、上空に何機もが旋回していた。
枯れた沢に張りつき、登る。上へ、もっと上へ。ハンディー無線機とカメラ、白黒フィルムを詰めたカバンが肩に食い込む。
急に視界が開けた。「JAL CARGO」と文字の入った破片と荷物が飛び散っている。そばの岩の上で、放心したような表情の自衛隊員が1人座り込み、たばこを吸っていた。
「現場は?」と聞くと、黙っ…