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第1回満州崩壊はここから始まった モンゴルに残された「空白域」を目指せ

 モンゴル南東部の街エルデネツァガーン。首都ウランバートルから約1千キロ。モンゴル語で「白い宝石」を意味する街は、交易地の様相を色濃く映し出していた。

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 国境を越えて来た大型トレーラーが空き地に並んで駐車し、中国人の運転手らが食堂にたむろしていた。食堂に掲げられた看板には、キリル文字で「カラオケ」と書かれていた。

 記者(永井)は、民間の「日蒙学術調査団」の一員として2023年5月29日、この街に到達した。

旧ソ連は第2次世界大戦中、日本の傀儡国家・旧満州国への侵攻をどう準備していたのか。モンゴル東部に残る軍事遺構に到達した記者が、そこで見た光景とは。浮かび上がった旧ソ連軍の「亡霊」とは。記者のルポや識者のインタビューで迫ります。

【動画】町並みと軍事遺構が隣り合うエルデネツァガーン村=日蒙共同調査団提供

 旧ソ連は第2次世界大戦の時期、日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国への侵攻をどう準備していたのか。調査団を主宰する岡崎久弥さん(61)=岡山市北区=は、ソ連の衛星国家だったモンゴル東部に残る軍事遺構を、この15年以上にわたって調べている。

 山手線の外周を超えるサイズの三つの巨大基地、極秘裏に延伸された400キロに及ぶ軍用鉄道……。

 巨大な軍事遺構を相次いで確認してきた調査団だったが、現地にはまだ「残された空白域」があった。その「空白域」を調査すれば、満州国の崩壊につながったソ連の軍事行動の全体像が明らかになると、岡崎さんは考えていた。

 「空白域」の入り口にあたるエルデネツァガーンへと向かう道路は、地図上の表記は信頼性が薄く、現地に行ったという人の情報も全くなかった。

 平原が果てしなく広がるモンゴル東部だが、隠れた湿地帯や、天候次第で河川に化ける厄介な地形が随所に潜んでいる。人跡未踏の場所でトラブルを起こして立ち往生したら、命の危険に直結する。

 どうすれば、安全にたどり着けるのか。岡崎さんは約4年あまりの歳月を、危険な河川地形を避けて「空白域」へ到達する複数のルート案作りに費やしてきた。

 岡崎さんがモンゴルで初めて現地調査をしたのは、2009年のこと。国境をめぐる小競り合いが日本の関東軍とソ連軍との局地戦に発展した1939年の「ノモンハン事件」から70年を機に、モンゴル防衛研究所との共同調査が実現したのがきっかけだった。

 2000年に80歳で死去した岡崎さんの父哲夫さんは、満州東部国境の虎頭(ことう)要塞の元守備隊員だった。同要塞には近くの開拓団員を含めた約2500人が立てこもり、満州へ侵攻したソ連軍と1945年8月26日まで激戦を繰り広げた。

 生存者はわずか53人とされ…

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この記事を書いた人
永井靖二
大阪社会部|災害担当
専門・関心分野
近現代史、原発、調査報道