水俣病のマイクオフ問題 元事務方トップが語る環境省の「原点」とは
水俣病患者らの団体と伊藤信太郎環境相の5月の懇談で、マイクの音声が切られた。伊藤環境相は謝罪し「水俣病は環境省の原点」と語った。環境省はこれから原点にどう向き合っていくべきなのか。事務方トップを務め患者らの団体との協議にも関わった小林光・元環境事務次官(74)に聞いた。
「水俣病は環境問題の典型です。海や川に流して薄めたはずのメチル水銀が、食物連鎖を経て濃縮され人に戻ってくる。環境を介した被害です。メチル水銀は塩化ビニールやプラスチック製品の可塑(かそ)剤を製造する過程で出てきます。水俣病の発生が確認されてからも排出は続きました。経済活動を優先させた結果、人や環境に大きな被害をもたらしました」
「原因企業であるチッソが排出をやめたのは1968年。水俣病の公式確認から12年かかりました。その間にも被害は拡大し、新潟水俣病も発生しました。科学的知見が足りなかった面もありますが、当時の厚生省や通商産業省といった既存の行政の枠組みでは規制までたどり着きませんでした」
「排出をやめてから3年後の71年に、環境省の前身である環境庁が発足しました。今までの行政では対応できなかった公害などをなくすことが第一の任務です。水俣病を反省し、二度と起こさない仕組みをつくる。それは環境省の原点です。世間から強い期待がありましたし、入庁する職員も公害をなくしたいという気持ちだったと思います」
「74年に施行された公害健康被害補償法は、高額補償の人だけが対象になっている面があります。訴訟が続き、95年には村山富市政権が一時金を支払う政治決着を図りました。その後、2004年には最高裁で、より幅広い症状(病像)の人についても水俣病として認める判決が出ました。3千人を超える訴訟も起きました」
「行政としては制度をつくるにあたり、賠償するに値するような不都合があるかどうかが大事です。そうでなければ納税者の納得は得られません。そのうえで、ほぼ間違いない程度まで補償し、それが間違っていれば裁判で救うというのが正しい方法だと思います。一方で、それまでの政治や行政の動きは、お金や病像といった事柄に問題を矮小(わいしょう)化してしまっていたと感じています」
100回以上訪ねた現地
「私自身が特に関わったのは…