第1回髪が抜けあっという間に死んだ父 「原爆スラム」と呼ばれた街の記憶

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魚住あかり
【動画】基町アパート物語 -ヒロシマを記憶する街- テーマ動画
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 原爆ドームの前を流れる川のほとりを15分ほど北へ歩くと、くの字形に並び立つ高層住宅が姿を現す。広島市営の「基町(もとまち)アパート」だ。

 住民の山本澄子さん(87)は約60年間、この一帯で暮らしている。

 元々は南西に2キロほど離れた船入町(現・広島市中区舟入町)で生まれた。1945年8月6日午前8時15分。8歳だった山本さんは、疎開先の吉坂村(現・北広島町)で国民学校の授業を受けていた。「本広げてたらドーンって音がして。みんな本を丸々投げて山の中に入った」。そこで、真上に広がるキノコ雲を見た。

 いまも鮮明に覚えている朝がある。原爆投下からまもなく、広島市内に残っていた父が、放射線の急性障害を発症した。

 「髪を洗うけ、タオル取っちゃって」。そう言われて渡したタオルで父が頭を拭いたとたん、次々と髪が抜けた。体中に斑点が浮き、あっという間に息を引き取った。

 時を同じくして、国民学校の1年生だった弟も亡くした。2人の遺体を国民学校で焼いたが、その遺骨すら9月の枕崎台風で流された。

 戦後は貧しい暮らしの中、闇市でロウソクを売り家計を支えた。

 基町との出会いは、幼かった長男の満晴さん(62)の結核がきっかけだ。薬を買うため、知人のつてをたどり、夫が建てたバラックに住みながら基町で喫茶店を始めた。

 モーニングが人気で店は繁盛。満晴さんは「おかげで僕は死なずに済んだ。お母ちゃんは、闇市のころから商売上手だよ」とほほえむ。

 78年に高層アパートが完成し、移り住むことになった。当時は珍しい20階建ての高層住宅。水洗トイレと浴室もついていた。「文化住宅ですよね。うれしかったですよ」

 原子野から立ち上がった人々が必死で生き、復興した広島。基町には、そんな人々が暮らす景色があった。

    ◇

 原爆が落とされるまで、基町は旧陸軍の施設が並ぶ軍都・広島を象徴する場所だった。爆心地から約1キロにあり、一帯が焼け野原となった。

 広島市によると、原爆で住宅約5万2千件が全壊または全焼し、住宅不足は深刻だった。市などは基町に白羽の矢を立て、応急策として46年から3年ほどかけて1800戸余りを建設した。

 だが、人々が流れ込んだのは公設住宅だけではなかった。

 道には家電などの廃品が積み重なり、トタンを張り合わせた簡素な家が並ぶ。その前を、北大路欣也が演じる若いヤクザが拳銃を手に走る――。任俠(にんきょう)映画仁義なき戦い 広島死闘篇」(1973年)で描かれたのも、基町の一角だった。

 河川敷には約1.5キロにわたってバラックがひしめき合い、1千戸にのぼる不法住宅群は「原爆スラム」とも呼ばれた。

記事の後半ではかつての基町での暮らしや人々の思いを紹介しています。「原爆スラム」だったころと現在の風景を比較できる画像も掲載しています。

 住民の多くは被爆者や外地か…

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この記事を書いた人
魚住あかり
広島総局
専門・関心分野
平和、教育