とっておきの白米を食べた後に起きた悲劇 証言で知った故郷の戦災
鹿野幹男
日立製作所を擁し、戦時中、軍需産業の一大拠点だった茨城県日立市。1945年6~7月、米軍の1トン爆弾と艦砲射撃、焼夷(しょうい)弾による計3回の攻撃で1500人以上の犠牲者が生じた。
このまちで生まれ育った記者(48)がふるさとの戦災を知ったのは小学校社会科の副読本「のびゆく日立」だ。
「町じゅうがやかれ、やけしんだ人もたくさんいました」
労働者の生々しい告白と、破壊された工場の写真。祖母が語った「生後間もない長男をおぶって山のほうへ逃げた」という話と相まって、記憶に残っている。
日立で戦争を経験したのは、もちろん祖母だけではない。当時の市民らはあの戦争をどう記憶しているのだろう。図書館で、「戦災と生活 日立市民の記録」を手に取った。
空襲や艦砲射撃だけでなく、終戦直後の困窮から復興も含めたテーマについて、81本の証言や作文がつづられる。発行は79年。戦後30年あまりしか経っておらず、証言の内容は詳細だ。
せめて1カ月早ければ
少女の体験を記した「戦災と…