「織物のまち小高」復活へ、南相馬に移住男性が絹会社設立
かつて「織物のまち」と呼ばれた福島県南相馬市の小高区で、東日本大震災の後に途絶えた養蚕業を復活させようと、移住してきた男性が絹製造会社を設立した。市内の工房で繭を育て、シルクせっけんの製造を進めている。
男性は、2022年にさいたま市から移住してきた平岡雅康さん(46)。元々経営していた腕時計製造・販売会社を南相馬市小高区に移転し、新たに会社を立ち上げた。その傍ら、さいたま市時代の21年から事業化を進めていた絹製品製造販売会社を「福島シルクラボ」として設立した。
小高区を移転先に選んだきっかけは、東日本大震災の被災地で開いていた花火打ち上げプロジェクトに参加し、20年末に打ち上げがあった小高区の海岸を訪れたことだった。「仕事でよく行っていた欧州の風景に似ていて、自然の豊かさに引かれた」
養蚕は、さいたま市にいたころに関心を持った。「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録された群馬県富岡市に通い、人工飼料による蚕の飼育を学んだ。南相馬市に移り、同市原町区に残る桑畑の桑を使い、この6月から工房で蚕約5千匹を「回転まぶし」と呼ばれる繭の育成道具に入れて育ててきた。
繭が育ち、中にさなぎがいる状態で冷凍。繭をセッケンの素地とともに沸騰させ、液体からせっけんを作る。「絹のせっけんは肌触りがやわらかい」と魅力を語る。
古着が好きで、素材のシルクに関心を持った。「絹は日本が誇れる文化。かつての織物のまちで養蚕業を復活させ、絹文化を後世に伝えていきたい」。今後は自ら桑の栽培にも取り組んでいく。
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南相馬市が2018年に発行した「おだかの歴史」によると、小高の織物工業は明治19(1886)年に始まった。その後、小高出身の実業家半谷清寿氏が動力織機を導入し、明治後半には小高の主要産業に成長していったという。
軽くて肌触りが良い小高の「軽目羽二重(かるめはぶたえ)」は人気が高く、戦後も米国への輸出を中心に生産を伸ばしていく。「とにかく注文に応えるのがせいいっぱいで忙しかった」。末永機業所を経営した末永豊明さん(89)は、そう振り返る。
地元には500戸ほどの養蚕農家があったが、絹糸は、相馬絹業協同組合を通じて横浜市の業者から取り寄せていた。地区には40軒ほどの機屋(はたや)があったという。
末永機業所では、通いや住み込みなど20人ほどの「織り子」がいた。組合全体の従業員は400人を超えた。「花見の季節には相馬小高神社に地域の織り子が集まってにぎやかだった」。かつては神社の境内に「棚機(たなばた)神社」もあった。
1950年代に化学繊維が普及し、70年代に日中国交が回復すると安い中国製品に押され、生産は減っていった。末永さんは2011年3月の東日本大震災直前に機業所を閉じた。「工賃が安くて、従業員を抱えてやっていけなくなった」という。
東京電力福島第一原発事故によって、小高区は全域に避難指示が出た。解除まで5年4カ月。閉鎖する機屋が相次いだ。福島県織物同業会によると、県内で機織りを続けているのは川俣町や福島市の10軒弱で、南相馬市にはないという。
末永機業所の作業所は地震の揺れで倒壊し、今はない。「せめて作業所だけは残しておきたかった」と悔やむ末永さん。「シルクのまち小高」の再生をめざす平岡さんの取り組みに「小高の機屋の流れをつないでいってほしい」と願っている。